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女将さん

山深い温泉地にある「雪見荘」は、冬になると豪雪に見舞われ、しばしば外界から隔離される。女将の春名は、雪に閉ざされた雪見荘で、一人の客の存在に心を痛めていた。その客の名前は正だ。彼は一ヶ月近くも連泊し、ほとんど部屋に籠もっており、食事もほとんど取らない様子だった。春名は彼が何か良からぬことを考えているのではないかと心配していた。

春名は、正に積極的に声をかけ、彼の心を解きほぐそうとした。朝食の席で、彼の好きな地元の食材を使った料理を勧め、廊下ですれ違う時には明るく挨拶し、夕食時にはこの地元の話をしながら配膳をした。初めは正は春名の言葉を面倒くさがっていたが、彼女の温かい人柄に触れ、次第に心を開いていった。

ある日、猛烈な寒波が襲来し、雪見荘は雪に埋もれ、外界から完全に隔離された。この旅館ではよくあることらしく、営業はほぼ休止状態となり、この日を境に、客は正一人だけとなり、従業員も春名と厨房の一人だけとなった。

その夜、正はなかなか寝付けずに深夜に露天風呂に向かった。今朝までの強風と雷がうそのように静まり返っていた。大雪に旅館全体が包まれているからなのか、味わったことが無いほどの静けさと雪の露天風呂が神秘的な光景だった。湯に浸かりながら、彼は自分の置かれている状況を考え込んでいた。すると、露天風呂の後ろからポチャと音がした。湯気でよく見えないが何か気配がする。正は恐怖を覚えながら「誰かいるんですか?」と声をかけると、そこにいたのはなんと女将の春名だった。すぐさま謝り出ていこうとすると、「こっちを見ないのなら、そのままで入っててください」と春名は穏やかに言った。正は動揺しながらも、春名の提案を受け入れた。

春名は、何度もテレビに出るほど美人な女将で有名な人だった。歳は50を超えていると言っていたが、どう見ても40代、いや30代後半にしか見えない。

二人は温泉に浸かりながら、様々な話をした。正は春名に、浮気された上にこちらが悪いかのように責め立てられ離婚したこと、会社の同僚にも裏切られていたことなどを話した。それらがあり逃避的にこの旅館に来たことなど、これまでの自分の人生について打ち明けていた。どんな話でも優しく受け入れ、春名の声の温かさや、優しさが正に安堵感を与えていた。

正はかなり体が温まってきたため「のぼせそうなので、先に上がりますね」と言うと、春名が「待って」と呼びかけ、温泉に浸かりながらゆっくりと正に近づいてきた。正は咄嗟に後ろを向いた。そしてその瞬間、春名は正の背中に優しく手を置き、額を彼の背に軽く触れさせながら静かに言った。「びっくりしましたか?もう大丈夫ですよ。これで嫌なことすべて飛んでいきましたね」と言って、春名はそのまま温泉から上がっていった。正は驚きと戸惑いでしばらく動けずに固まっていた。

翌朝、雪見荘はうそのように晴れわたっていた。朝食時の春名は何事もなかったかのように明るく挨拶してきた。正は彼女の目を見ることができず、少しうろたえていた。しかし、その後の3日間は、正は完全に過去のことを忘れ、心から楽しい時を過ごすことができていた。

帰る日、春名は正に淡い笑みを浮かべながら言った。「また、心が重くなったら、いつでもここに帰ってきてくださいね。」正は、春名と過ごした日々が自分の心を癒やし、新たな希望を見つけるきっかけになったことを実感していた。雪見荘を後にしながら、彼は春名への感謝の気持ちで胸がいっぱいになった。そして、いつか必ずこの場所に戻ってくると心に誓った。

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