暗闇を切り裂くヘッドライトだけが、孤独な心を照らしていた。こんなに寂しい道を走るなんて、仕事とはいえ不思議な運命を感じずにはいられなかった。なぜ、この町での調査がこんなにも困難なのか。まるで、この夜が何かを暗示しているかのように、胸騒ぎが止まらない。
出店予定地の調査で訪れたこの街のホテルをネットで探したが、どこも満室だった。民宿すら空いていない。以前もこの町に来たことはあったが、宿に困ったことなど一度もなかった。それが今回は、何か大きなイベントでもあるのか、どこもかしこも予約で埋まっている。私は途方に暮れてしまった。
仕方なく、街から車で1時間ほど離れた寂れた温泉地の旅館に電話をかけ、ようやく宿泊場所を確保した。明日の予定は午後からなので、少し遠くても問題ないだろうと自分に言い聞かせる。遅い時間にもかかわらず、夕食を用意してくれる親切な旅館だった。
その旅館は、良い言い方をすれば歴史を感じさせる外観だったが、やはりどこか寂れた様子は否めなかった。玄関に車を停めると、私を迎えてくれたのは、美しい若女将の香苗さんだった。その美しさは、この寂れた温泉街には似つかわしくないほど際立っていた。
「遅い時間に無理を言ってすみません。どこのホテルも空いてなくて、やっとここを見つけたんです。」
私は少し疲れた声で言った。
「それは大変でしたね。今日はコンサートがあるとかで、街中のホテルや旅館は満室のようですね。でも、こんな場所まで足を運ぶ方は少ないので、どうぞごゆっくりおくつろぎください。」
香苗さんは柔らかな微笑みを浮かべて答えた。
他の宿泊客は老夫婦のみだと聞き、少しほっとした。夕食は豪華ではなかったものの、丁寧に作られた料理が並び、その味わい深さに心から満足した。食事を終えて、明日の予定を考えていると、気づけば深夜12時を過ぎていた。
「そろそろ風呂に入って寝るか…」
と浴衣に着替え、大浴場へ向かった。
脱衣所で衣服を籠に入れ、タオルを持って浴室の扉を開けると、湯けむりの中に人影が見えた。宿泊客は老夫婦と家族連れだけだと聞いていたため、この時間に他の誰かがいるとは思わなかった。
恐る恐るその影に目を向けると、驚くべきことに、それは男性ではなく女性だった。
「すいません!間違えました!すぐに出ます。」
私はそう言い、出ようとした。すると
「待ってください!鈴木さん、合っていますよ。女湯は先にお湯を抜いてしまって。もう誰も入ってこないだろうと思い、男湯に入ってしまったんです。申し訳ありません。もう出ますので、どうぞごゆっくり。」
その女性は静かに答えた。それは、なんと若女将の香苗さんだった。
「そうだったんですね。すいません、時間ギリギリに来る私が悪かったです。」
私は胸を撫で下ろした。
「少しだけ後ろを向いていてくれますか?」
「は、はい」
「いえ、こちらこそ失礼しました。」
香苗さんは一礼し、静かに湯船を出ていった。見てはいけないと思いつつも、ガラスに映っている彼女の後ろ姿が、私の心に強く焼きついた。
翌日、私は出店候補地をいくつか見て回り、宿に戻ったのはすでに夜遅くだった。香苗さんはすぐに食事の準備を整えてくれ、今夜は香苗さんがそばについて給仕をしてくれた。
「明日もここに泊めていただけますか?」
香苗さんに会いたいというのがバレバレだろうか。
「もちろん。大歓迎ですよ。なんならもっと…いえ……」
香苗さんは嬉しそうに答えた。
私は、料理の美味しさ以上に、香苗さんの温かい人柄に魅了されていた。
「料理が美味しいのはもちろんですが、香苗さんがいるのが一番の魅力ですね。」
香苗さんはビールを注ぎながら静かに微笑んだ。
「お上手ですね。」
「いやいや、本心です!」私は真摯に答えた。
その夜、旅館の小さなラウンジでお酒を飲むことにした。
といっても、専用の従業員はおらず香苗さんが担当してくれるそうだ。彼女と一対一の時間は至福の時間だった。他には誰もいない空間。私は香苗さんも一緒に飲むよう勧めた。
お酒の力も入り彼女はいろんなことを話してくれた。香苗さんが抱える孤独と葛藤が、ひしひしと伝わってきた。彼女はご主人を無くし、女将としての責任を全うしながらも、一人頑張ってきたそうだ。ただ、旅館を切り盛りしていく苦悩が、香苗さんの言葉の端々に滲み出ていた。さらに朝から晩まで働き、女性としてこのままで良いのか、最近は人生についても悩んでいるようだった。
しばらく部屋で休んだ後、風呂に入った。もしかして今日も…と思いつつ覗いてみると誰もいなかった。しかし、体を洗い湯船につかろうとすると、若女将がまた入ってきたのだ。
「今日もご一緒してもよろしいですか?」
「え?ちょ、ちょっと」
返事をするまでもなく、女将は僕から少し離れた場所に座り、ぽつりと話し始めた。
「長いこと女将をやっていますが、お客様と一緒にお風呂に入るのは初めてですよ。」
「なぜかもっと一緒にいたくて、つい…」
「大丈夫ですよ。何でも話しください。」
私たちはその後も長い間、いろいろな話をした。仕事のこと、女将として生きていくこと、そして、彼女の寂しさについて。
最後に女将は決意した眼差しでこう言った。
「私と子供を作ってくれませんか。」
彼女の突然の申し出に、私は何も答えられなかった。そして彼女は私のそばに寄ってきた。
「私は明日帰るのですよ?いいんですか?」
「もちろん、承知の上です。」
女将はそう言って、決意に満ちた目で私を見つめてきた。彼女の真剣さが胸に響き、私の中で何かが変わるのを感じた。女性にそこまで言わせて引き下がるわけにはいかない、そう思い、私は彼女を優しく引き寄せ、その唇にそっと触れた。そのまま心と体を通じ合わせた。
それから二ヶ月後、私は再び香苗さんの旅館を訪れることにした。今回は仕事ではなく、香苗さんとの再会を目的としたプライベートな訪問だった。どうしても彼女に会いたい、そばにいたいと思い2カ月過ごしてきた。ただ、今日の旅館は駐車場に多くの車が停まっており、以前よりも賑わいを見せていた。
「今日は混んでいて、申し訳ありません。」
香苗さんとは違う中居さんが丁寧に対応してくれた。
「お部屋は離れの部屋になります。」
「離れ?予約した部屋と違うのですが。」
調べてもらったが、予約は間違いなく離れで取られているとのことだった。
通された部屋は美しく整えられており、部屋には小さいながらも露天風呂があった。
部屋でくつろぎながらしばらくすると、ようやく香苗さんが姿を現した。
「ご挨拶が遅れて申し訳ありません。ようこそおいでくださいました。」と優しく微笑んだ。
「今日は仕事ではなく、プライベートです。」私は静かに答えた。
香苗さんは一瞬驚いた表情を見せたものの、すぐに微笑みを返してくれた。
「その様子だと、子供はできなかったようですね。」
「ええ、残念ながら。」香苗さんは申し訳なさそうに答えた。
「実は、こっちに越してくることにしました。」私の突然の告白に彼女は驚いていた。
「え??お仕事はどうされたんですか?」香苗さんは驚いて聞き返してきた。
「あっちのお店は若い者に任せて、こっちを私のメインのお店として出店しようと思ったんです。」私は真剣な目で彼女を見つめた。
「……まだあなたの隣に枠は開いていますか?」
「もちろんです。でも…少し考えさせてくれますか」彼女はそう言い、部屋を退出した。
深夜になり、香苗さんは浴衣に羽織を纏って再び私の部屋を訪れた。
「今晩、一緒に過ごしても良いですか?」香苗さんはそう言うと、そっと私に抱きついてきた。
「もちろんです」一緒に一杯ひっかけようとおちょこを渡すと、
「お酒はちょっと…」と断られた。
「どうかしたんですか?」
「本当はまだ月のものが来ていないの。」
「えっ、さっきは…」
「まだどうかわからないから言えなかったの。」香苗さんは静かに答えた。
私は喜びと期待で胸が高鳴るのを感じた。彼女をそっと抱き寄せ、まだ命が宿っているかどうか分からない彼女のお腹を優しく撫でた。
「ありがとう、香苗さん。」 「ふふ、まだ早いですよ」
「一緒に生きて行ってくれますか?」香苗さんは私の言葉に涙を浮かべ、静かに頷いた。
「はい、よろしくお願いします。」
こうして、私たちは新たな人生の第一歩を踏み出した。