泰子と浩司の結婚生活は、外から見れば穏やかな湖のように静かで安定しているように見えた。
しかし、湖の表面下では、泰子の心は絶えず波打っていた。
長年にわたり、浩司は仕事を生きがいとし、家庭よりも職場を優先した。
その結果、泰子は自分の感情を抑え込みながら、家庭を守るために黙々と耐え忍んできたのだった。
子供たちが巣立ち、夫婦二人だけの新たな生活が始まると、泰子は内心、夫婦の関係がより深まることを期待していた。
しかし、浩司の仕事への情熱は冷めることがなく、変わらない日常が続いた。
そんな中、浩司の体に異変が起きた。
診断結果は末期のガンだった。彼の体は日に日に衰えていった。
一方で、泰子は誰にも言えない秘密を抱えていた。
結婚してからも、彼女の心は別の男性、茂雄に寄り添っていたのだ。
浩司と結婚する前に、偶然の出会いから始まった二人の関係は、さまざまな事情から結ばれることはなかった。
だが、心の繋がりは時間が経っても色褪せることはなかった。
二人は時折、今でも秘密裏に会い続けていたのだ。
浩司の病状が悪化するにつれ、泰子は良妻を演じ続けていた。
医者からの診断、治療の選択、そして日々の看護。
外から見れば彼女は完璧なサポートを提供しているように見えたが、内心は葛藤と罪悪感に苛まれていた。
彼女は浩司に対して真摯に接し、献身的に看護する一方で、自分の感情が茂雄へと向かっていることに深い罪悪感を感じていた。
ある日、浩司は病床で泰子に向かって言葉を紡ぎ出した。「泰子、長い間、俺のことを支えてくれてありがとう。俺ではお前を幸せにすることができなかった。だから、もう茂雄さんのところに行ってもいいんだよ。」これらの言葉は、泰子にとってまさに雷鳴のように響いた。彼女は自分の心の内が浩司に知られていないと信じて疑わなかった。しかし、浩司は彼女の心の中を見透かしていた。そして、その言葉は彼が泰子へ抱く愛情と理解の深さを示していた。
その言葉を最後に、浩司は静かにこの世を去った。
浩司が亡くなり、葬儀が終わると、泰子は彼の遺品を整理する中で遺書を発見した。
遺書は、彼の心の奥底を映し出す鏡のようだった。
泰子はその文字を追うごとに、夫の内面に渦巻いていた苦悩と贖罪の気持ちを知った。
遺書には、彼がどれほど一生懸命に家族のために働き、泰子と息子の幸せを第一に考えて生きてきたかが綴られていた。
しかし、その一方で、泰子が別の人のことを思っていることに対する葛藤に苦しんでいたことが記されていた。
浩司は、自分の存在が泰子にとっての幸せではないかもしれないという痛みを胸に秘めながらも、彼女が本当の意味で幸せになれる道を選ぶことを望んでいた。
その深い愛情と理解から、最後の瞬間まで泰子の幸せを第一に考える決断を下したのだった。
夫の深い愛と理解、そして自分への無償の思いやりに心が締め付けられる思いだった。
長年の夫との生活、彼が家族のために注いできた愛情、そして最後に示した大きな慈悲。
それらはすべて、泰子の心に深く刻まれていく。
そのまま最後まで読むことが出来ずに泣き崩れてしまった泰子。
だが、その遺書の続きには、遺産は全て息子に渡すとの意向が書かれていることに泰子はまだ気付いていない。