
「もう、帰ってこないから」
そう言い残し、妻は家を出て行った。隣にいたのは、俺の知らない男。
いや、正確には知っていた。妻のスマホに何度も通知を送ってきていた相手。
問い詰めることすらできなかった。俺が声をかけた瞬間、妻はただ冷めた目で俺を見つめ、何も言わずに背を向けたのだから。
リビングに残されていたのは、半端に飲みかけのコーヒーと、俺の義母つまり妻の母親だった。
彼女もまた、呆然と立ち尽くしていた。
「……最低ね、あの子」
ぽつりと漏れた言葉が、妙に静かな空間に響く。俺は何も言えなかった。怒りも悲しみも、すべてが通り過ぎてしまったあとだった。
妻が荷物をまとめて家を出て行ってから、すでに数時間が経っている。
義母と俺、二人だけの静かな家。今までは、妻がいるからこそ保たれていた関係だった。だが、その妻がいなくなった今、俺たちはただの”他人”なのだろうか。
「ごめんなさいね……本当に……」義母はそう言って、俺を見た。
年齢のわりに整った顔立ち。しなやかな黒髪に、上品な雰囲気。
俺にとっては、”妻の母親”という枠を越えることのない存在だった。…今までは。
妻を失った俺と、娘に裏切られた義母。
この家で、二人だけの生活が始まる。そのときはまだ、俺も義母も、この先に待つ”関係”を想像すらしていなかった…。
妻が出ていってから、一週間が過ぎた。
何かが劇的に変わるわけでもなく、ただ時間だけが流れていく。
仕事を終え、家に帰っても、出迎える妻はいない。
リビングのテーブルには義母が作った夕飯が並んでいた。
「……悪いですね、毎日」義母は、手を止めて微笑んだ。
「気にしないで。私は、拓也君がちゃんと食事をとってくれれば、いいの」
淡々とした言葉だったが、その優しさが沁みた。
妻と暮らしていたときは、まともな食事が出てくることのほうが珍しかった。
「……いただきます」並んだ料理はどれも品があり、家庭的な味がした。
久しぶりに温かい食事を口にして、胃に染み渡る感覚を覚える。妻がいた頃と、何かが違う。
そう思いながら箸を動かしていると、ふと義母が視線を落とした。
「……あの子、まだ連絡してこないの?」
「ええ……たぶん、もうないような気がします」苦笑しながら答えた。妻が出て行ったあの日、俺のスマホには何の通知もなかった。
SNSはすべてブロックされ、LINEも既読がつかないまま。 まるで、最初から俺という存在がなかったかのように。
義母は静かにため息をついた。
「私が言うことじゃないかもしれないけど……きっと後悔するわ」
「……そうですかね」乾いた笑いが漏れる。
だが、義母は俺の目をまっすぐに見つめて言った。
「ええ。拓也君を捨てるなんて…」俺は言葉を失った。
こんなふうに誰かに肯定されるのは、久しぶりだった。
妻にとっては、俺はただの「便利な存在」だったのかもしれない。 義母にそんなことを言われると、余計に虚しさが募る。
「……今日は、お酒でも飲む?」ふと義母が言った。
「え?」
「たまには飲んでも良いんじゃない?」そう言って、義母は冷蔵庫からビールを取り出してくれた。
グラスに注がれた黄金色の液体が、照明に反射してきらめく。
「……じゃあ、少しだけ」
「うん、少しだけね」乾杯したグラスが小さく音を立てた。
ビールを一口飲むと、喉を滑る冷たさが心地よい。
「ふふっ……こうしてお酒を飲むなんて不思議ね」義母はグラスを傾けながら、どこか寂しげに笑った。
確かに、義母と二人で向かい合うなんて、今まで考えたこともなかった。
だが、こうして過ごしてみると、居心地が悪くないどころか、むしろ落ち着く。
「……変な感じがしますけど、悪くないですね」俺がそう言うと、義母は驚いたように目を丸くし、それから小さく笑った。
こうして、妻のいない生活に少しずつ慣れていった。
だが違和感を覚えていたのも事実だ。
この慣れ…果たして慣れていいものなのか…
そんな気持ちを抱えながらも俺はこの生活を送るしかなかった。
その晩、義母と二人で酒を飲んだ後、俺たちはしばらく無言の時間が続いた。
ビールの空き缶がテーブルに並び、心地よい酔いが全身に広がっていく。
普段なら、妻が帰ってくる時間だった。だが今は、家の中が静まり返っている。
俺はふと、義母の表情を見た。
彼女の顔に浮かんでいるのは、寂しさと共にどこか柔らかな笑顔だった。
その笑顔は、まるで息子に対する母親としての優しさだけではなく、何かが隠れているように感じられた。
「……どうしたんですか?」
思わず口にしたその一言に、義母は少し驚いた顔をしたが、すぐに微笑みながら答えた。
「ううん。ただ、こうやってここに帰ってきてくれるだけで、私は嬉しいのよ」その言葉に、俺は少し戸惑った。
義母が言う「嬉しい」という言葉には、どこか普段とは違う響きがあった。 そんな気がしたのは、俺だけだろうか。
「でも……やっぱり、拓也くんに幸せになってほしいと思ってるのよ」
義母は視線をそらし、グラスを静かに回しながら続けた。 その言葉に含まれた何かを感じ取り、俺は心の中で思った。 義母がどこかで、俺の心に寄り添ってくれていることは感じていた。しかし、それが何か違う形で表れ始めていることにも気づいていた。
「こんな俺が幸せになれますかね……」言葉が途中で詰まった。 妻が出て行った今、俺には何の目標もない。 ただ義母と二人きりの毎日が続いていく。 その中で感じる、わずかな安心感や落ち着きが、次第に心地よくなってきていた。
その時、義母がゆっくりとグラスを置き、俺を見つめた。 その視線が何故か、俺の胸を少し高鳴らせた。
「……拓也くん」義母が俺の名前を呼ぶ。 その声が、普段とは違って少し低く、優しく響く。俺は一瞬、息を呑んだ。何かを察したのか、義母が顔を少し赤らめていた。
「……寂しいね」その言葉が、俺に重くのしかかる。義母が何を言いたいのか、少し理解できなかった。 でも、彼女の表情がそれを物語っているようだった。
普段はどこかしっかり者で、家庭的な面が強い義母だが、今はどこか母性を越えた感情が見え隠れしている。
「俺は……」言葉に詰まる。義母の優しさが、俺にとってはあまりにも温かすぎて、その温もりに甘えてしまいそうになる自分を感じていた。その時、義母が急に立ち上がり、俺の隣に座った。俺はその行動に驚いたが、義母は何事もなかったかのように静かに話を続けた。
「私はね、あなたに幸せになってほしい……」その言葉に、俺の心は少し乱れた。
「幸せになってほしい」と言われても、俺はまだ妻のことを完全に忘れることができない。
でも、義母の目を見ると、その言葉の裏にある意味が少しずつ見えてきた気がした。義母はゆっくりと顔を近づけてきた。
その瞬間、俺の胸は早鐘のように打ち始める。息が詰まり、全身が熱くなった。普段の義母からは想像できないような、微かな誘惑のようなものが感じられた。
「……拓也くん、もしよかったら……」その声が耳元でささやかれ、俺は一瞬、何も考えられなくなった。
彼女の手が、そっと俺の腕に触れた。その温もりが伝わり、俺の心はさらに揺れ動いた。だが、すぐに理性が働く。
このまま一歩踏み出してしまったら、何かが壊れることは分かっていた。だが、義母の微妙な気配に、俺は揺れ動いていた。
その晩のことは、俺の頭から離れなかった。義母の柔らかな笑顔、優しい声、そしてあの手が腕に触れてきた瞬間の感触が、何度も蘇ってきた。 理性では「これはいけない」と分かっている。だが、どうしてもその誘惑から逃れられなかった。それに、義母が俺に見せる優しさには、どこか母親以上のものがあるように感じられた。翌日も、義母との距離が急激に縮まっていることに気づいていた。昼食時、いつものように食卓を囲んでいると、義母はわずかに照れくさそうに話し始めた。その顔には、普段の落ち着いた面影はなく、どこか少女のような無邪気さが漂っていた。
「拓也くん、昨日あんなこと言ってごめんなさい」義母は少し目を伏せて謝った。その顔が、少し紅潮しているのを俺は見逃さなかった。 どうしても気まずい雰囲気になりそうな気がしたが、義母のその表情を見て、俺は何も言えなかった。
何かが変わってしまったような気がしたが、それでも俺はその変化を受け入れてしまいそうな自分がいた。
「いや、大丈夫ですよ」俺はそう言いながらも、内心は動揺していた。義母の目が俺をじっと見つめ、さらに言葉が続く。 義母は少し間を置いてから続けた。
「私、拓也くんに迷惑をかけたくないんだけど……やっぱり、拓也くんがいてくれて嬉しいの」その言葉に、俺の心は再び揺れ動いた。
確かに、妻が出て行ってから義母と過ごす時間が増えた。 義母と一緒に過ごすことが、今の俺にとっての唯一の安らぎとなっていた。それに、義母の優しさがどこか心に沁みるようになっていた。昼食後、義母はそっと台所で片付けをしていた。
俺は、何か手伝おうと思ったが、その時、義母の背中に目が留まった。
彼女の動きが、何故か少し魅力的に見えた。 その後ろ姿が、まるで新たな魅力を放っているかのように感じた。
「手伝いますよ」
俺が声をかけると、義母は少し驚いた顔をしたが、すぐに微笑みながら振り返った。
「ありがとう。大丈夫よ。無理しなくていいのよ」その言葉に、少しだけ寂しさを感じた。無理をしなくていい……その言葉の裏には、もっと何か深い意味が込められているように感じた。義母が何かを隠していることは、俺も感じ取っていた。その夜、義母と二人で晩酌をしていると、自然と会話が少なくなり、静かな時間が流れた。酒のせいか、どこかリラックスした雰囲気が漂っていた。ふと、義母がグラスを手に取ったまま、黙って俺の方を見つめていた。その目が、いつも以上に真剣で、俺の胸に突き刺さった。
「拓也くん……」義母の声が、普段とは違って少し低く、甘く聞こえた。その一言で、俺の心臓が速く打ち始めた。
「…もう少し近くに行ってもいい?」その言葉が、俺にとっては信じられないほど重く響いた。義母が俺に向けるその目には、今まで見たことのないような深い感情が込められていた。その目を見つめていると、俺は何も言えずに黙っていた。義母はゆっくりとグラスを置き、立ち上がった。そして、俺の隣に座り、静かに手を伸ばしてきた。その手が、俺の手を握った瞬間、俺は完全に理性を失っていた。そしてそのまま、俺たちは一線を越えてしまった。
数日後。
その日も、いつも通り義母と二人きりの時間が流れていた。部屋に漂う空気が重く、どうしても逃れられない何かがあった。義母はソファに座り、どこか遠くを見つめていた。俺はその横で、何も言わずに彼女を見つめていた。彼女の瞳には、少しの寂しさと共に、俺をどこかで求めているような不安も感じられる。
「ねえ、これからどうしたらいいんだろうね…」
義母がポツリとつぶやく。彼女の言葉には力がなく、まるで自分の存在を問い直しているようだった。俺はその言葉に動揺し、思わず立ち上がりかける。
言葉が続かない。だが、俺は心の中で決めていた。この関係はどこかで終わらせなければならないことを。そして、それが俺のためでもあると理解していた。
「私ね、ずっと言いたかったことがあったの」義母は目を閉じ、深く息を吸った。そこから漏れた言葉は、俺の心を揺さぶるものだった。
「やっぱり離れた方が良いよね…」
その瞬間、俺は驚き、言葉が出なかった。義母がそんなことを言うなんて…全てがうまくいっていたと思っていたのに、なぜこんなことを言うのか。彼女の目に映るのは、どんな思いだったのだろう。
「もうどうしていいのかわからないの」
彼女は涙を浮かべ、声が震えていた。俺は一歩近づき、義母の肩に手を置こうとしたが、その瞬間、彼女が後ろに下がるように立ち上がった。
「ダメ、もうこれ以上、あなたを困らせられないわ」
その言葉に、俺はようやくすべての重さが押し寄せてくるのを感じた。義母もまた、自分の心がどこに向かうべきなのかを悩み、ついにそれを打ち明ける勇気を持ったのだ。彼女がもう一歩踏み出そうとした瞬間、俺はその心の葛藤をすべて理解した。
だが、この関係がこれ以上続いていくことが本当に良いことなのか…。俺はその問いを胸に抱えながら、何も言えずに立ち尽くしていた。
俺は、無言で彼女を見つめることしかできなかった。そして、深い決断の末、俺の心の中で一つの答えが出ていた。
義母の決断から数日が経過。
俺の心は未だに揺れ動いている。あの時、義母が口にした言葉は、確かに彼女の本音だった。しかし、それが俺にとって、全く予想がつかなかった。
あれから、義母との関係は少しずつ変わり始めていた。最初はあのまま全てが終わるのかと思っていたが、義母が少しずつ俺に向かってくる姿勢を見せるようになった。それでも、お互いの間には前のような温もりは戻らない。ただの母親と息子の関係に戻りつつあった。
その日も、俺は朝食を準備していると、義母がリビングからやってきた。彼女は少ししんどそうに見えたが、いつものようににこやかに微笑んで言った。
「おはよう、今日はお天気もいいし、ちょっと外にでも出てみる?」
その言葉が、俺にとっては重く感じられた。義母がこれまで一度も言わなかったような、普段の生活とは少し違うリズムが戻ってきている。それが、すべてを少しずつ「普通」に戻そうとしているのだと、俺は感じていた。
義母が振り返り、俺の目をじっと見つめた。
「ありがとうね、あなたがいてくれて本当に良かった」
その一言が、俺の胸に突き刺さった。義母の目からは、少しだけ涙がこぼれそうになったが、すぐに彼女はそれを拭うと、またいつものように無理に笑顔を作っていた。
俺はその瞬間、全てを理解した。義母もまた、俺を頼りにしていること、そして、彼女自身がどれほど迷っていたのかを。俺にとっても、この時間は確かに苦しかったが、何かを学び取ったような気がした。
「もう、無理をしなくていいんですよ。少しずつで良いんです」
そう言いながら、俺は義母に手を差し伸べた。彼女の体は硬直していたがやがて力が抜け受け入れてくれた。
その時、俺たちはお互いにとって大切なものを再認識したのかもしれない。これからの俺たちの未来について。