PR

ナースコール~両手が動かせない

いつまでも若くひととき

「名倉さん、目をつぶってくださいね。」その声は、まるで澄んだ小川のせせらぎだった。病室に漂う消毒液の匂いと、機械音が淡々と響く静寂の中で、その声だけがやけに鮮やかに耳に届く。思わず目を見開いて固まった俺に、彼女は微笑みながらもう一度同じ言葉を繰り返した。
「目をつぶってくださいね。」柔らかで丁寧なその響きに促され、俺はぎこちなく目を閉じた。まさか、いや、そんなはずはない。ただ体を拭いてもらうだけだ。そう思いながらも、俺の胸には得体の知れない高揚感が広がっていく。なんだ、この妙な期待感は……。
肩にそっと触れる彼女の指先。触れられた瞬間、俺の心臓は聞こえてしまうのではないかと思うほどバクバクしていた。柔らかいタオル越しに伝わる彼女のその手の温もりが、じんわりと肌に染みていく。タオルが背中から胸へと移動するたび、全身の感覚が鋭敏になっていくのがわかる。
「少しだけじっとしていてくださいね。」
彼女の言葉は限りなく穏やかで、限りなくプロフェッショナルだった。その一言がどこか神聖ですら感じられる一方で、俺の中では妙な妄想が暴走を始めていた。いや、やめろ、名倉亮。これは仕事だ。ただ彼女は仕事をしてるだけだ。
だが、目を閉じたままだと五感がよけいに働き、触覚が妙に敏感になる。柔らかなタオルが肌をなぞるたびに、どうしても余計なことを考えてしまう。頭の中に浮かぶのは、あり得ないほどドラマチックなラブシーン。みるみるうちに下半身が反応してしまった。いやいやいや、俺は何を考えているんだ……!
「すみません……こんなことまでお願いして……」声が震えている。情けない。俺の言葉に、彼女は少し首を傾げて笑顔を見せた。その笑顔がまた、俺の胸を鷲掴みにする。これ以上はやめてくれ。これ以上、俺の心臓を暴走させないでくれ。いや、もっと続けて欲しい気もする。俺は相反する気持ちで一杯だった。
「大丈夫ですよ。これも仕事ですから。」
彼女の声は澄み渡っていて、曇りのない青空のようだった。その無垢さが、かえって俺の心を乱す。俺の中で膨らんでいるこの気持ちは何なんだろう。ただ「患者」として扱われているだけなのに、それを「特別なもの」だと思い込もうとしている自分が情けなかった。

 俺の名前は名倉亮。38歳、料理人だ。小さなイタリアンレストランで15年間包丁を握り続けてきた。特別な技術や華やかな経歴なんてない。ただ、常連客に「美味しい」と笑顔で言われる瞬間が、俺の生きがいだった。それだけで十分だった。料理人として生きること……。それが俺の人生だった。だが、その人生は、ある日突然崩れ去った。秋晴れの午後、仕入れ先からバイクで帰る途中に、路地裏から子どもがボールを追いかけて飛び出してきたのだ。反射的にハンドルを切った俺は、そのままバランスを崩し、電柱に激突した。全身に響く激痛。意識が遠のく中で感じたのは、「ああ。終わった」という感覚だけだった。
次に目を覚ました時、俺の両腕には分厚いギプスが巻かれていた。医者からの無情な診断は「両腕の複雑骨折とその他もろもろ。回復にはリハビリが必要ですが、元通りに指が動かせるかどうかは保証できません」それが俺の耳に突き刺さった。料理人としての「手」を失った俺には、これから何が残るというんだろう。真っ黒な絶望が胸の奥に広がっていくのを感じた。
そんな俺を支えてくれたのが、担当看護師の田中真弓さんだった。彼女の仕事は終始丁寧で、その優しさは患者の心に染み入るものだった。だが、それが「仕事」であることはもちろんわかっていた。あくまで彼女はプロフェッショナルとして俺に接してくれているだけ。わかっているはずなのに、俺は勝手にその優しさに惹かれていた。
ある夜、体がむずむずして眠れない。背中と腰が痒くてたまらない。だが、ギプスで固定された腕では掻くことすらできない。仕方なく、ナースコールを押した。病室のドアが静かに開き、田中さんが入ってきた。
「どうしました?」彼女の穏やかな声が、夜の闇を優しく照らす。俺は恥ずかしさを抱えながら、痒みのことを伝えた。すると彼女は微笑みながら頷いた。
「どのあたりが痒いですか?」彼女がベッドのそばに腰を下ろし、タオルで背中を優しく拭き始める。その動作は機械的ではなく、どこか温かかった。痒みが和らぐ感覚とともに、俺の心はどんどん彼女に引き寄せられていった。
「田中さんって……どうして看護師になったんですか?」ふと口にした質問に、彼女は少し驚いたような顔をしたが、やがて穏やかに答えた。
「昔、家族が病気になったとき、看護師さんに助けられて……私も誰かを支えられる仕事をしたいと思ったんです。」その言葉に込められた彼女の信念を感じた瞬間、俺は少しだけ救われた気がした。

それから数カ月、田中さんは嫌な顔一つせず俺の看護を続けてくれた。やはり恥ずかしいのは、一人で下の世話ができないことだった。ギプスで動かない腕、無防備な体。それを彼女が淡々と、そして優しく拭いてくれるたび、俺はもうどこに顔を向けたらいいかわからなかった。恥ずかしさと何とも言えない背徳感で、頭の中はぐるぐるしていた。
「じゃあ、少しだけ足を開いてくださいね。」

彼女の淡々とした声が響く。その瞬間、俺の心臓は跳ね上がる。いやいや、冷静になれ。彼女はただ仕事をしているだけだ。俺が変に意識しているだけなんだ……分かっているはずなのに、俺は一人で盛り上がってしまう。「ここも拭いておきますね。」タオルが太ももの内側を軽く撫でる。心臓がどんどん速くなるのを感じる。気づかれるな、絶対に気づかれるな……そう祈りながら、俺は目をぎゅっと閉じた。
「名倉さん、大丈夫ですか?」彼女が不思議そうに顔を覗き込んでくる。俺は慌てて答えた。
「あ、ああ……大丈夫です。すみません。」声が裏返ったのが、自分でもわかった。なんだ、この情けなさは。
だが、彼女は全く気にする様子もなく、最後まで手を止めることはなかった。いつも通りのプロフェッショナルな態度。それが逆に俺を余計に動揺させる。彼女にとっては「仕事」、でも俺にとっては……。
そんな2か月間、俺にとっての田中さんは心の癒しそのものだった。退院の日が近づくと、俺はどうしても彼女に最後に伝えたいことがあった。彼女の優しさに救われたこと、そして……いや、それ以上の気持ちも含めて。だが、どこまで伝えるべきなのか。俺の胸の中は迷いでいっぱいだった。
結局、退院当日の朝、病室に来た彼女を前にして、俺は思い切って口を開いた。
「田中さん、今まで本当にありがとうございました。」
「いえいえ、こちらこそ。」いつものように微笑む彼女。俺の胸は高鳴るばかりだ。少しだけ躊躇した後、俺は続けた。
「また……外で会えませんか?」言葉を発した瞬間、俺は自分の勇気を褒めたくなった。それと同時に、猛烈な後悔が襲ってきた。何を言ってるんだ、俺は! 彼女がどう返すかなんて……。彼女は少しだけ目を丸くして、けれどすぐに柔らかな笑顔を浮かべた。
「また病院でお会いするかもしれませんね。」
その言葉に込められた意味は明白だった。俺にとって彼女は特別だったが、彼女にとって俺は、数多くの患者の一人に過ぎない。それでも、その瞬間の笑顔はどこかあたたかで、俺の胸に深く刻まれた。ただ、退院して嬉しいはずなのに俺はなぜか涙が止まらなかった。

YouTube

現在準備中です。しばらくお待ちください。

タイトルとURLをコピーしました