
唇に触れた柔らかな感触が、まだ脳裏に焼き付いている。ほんの数秒。いや、もっと長かったのかもしれない。時計の針が止まったような、濃密な時間。彼女の潤んだ瞳が、すぐそこにあった。甘い香りと、微かなため息。駄目だ。忘れなければ。これは許されないことだ。俺には、まりがいる。三十年以上連れ添った妻が。それなのに、どうして。
窓の外では、夕日が街を茜色に染めている。定年を迎え、穏やかな第二の人生が始まったはずだった。年金暮らしにも慣れてきた。
刺激など求めていなかった。平穏な日々。それが一番だと信じていた。なのに、心の奥底で何かが燻り続けている。
あの夜の、みゆきの温もりが。一度だけ、たった一度だけ許された、禁断の果実の味。これは、罰なのだろうか。それとも、人生の黄昏時に訪れた、最後の恋という名の奇跡なのか。いや、奇跡などではない。これは、ただの過ちだ。そう自分に言い聞かせても、疼く心は静まらない。彼女の声が、仕草が、脳裏で何度も再生される。まるで古いレコードのように、繰り返し、繰り返し。
「謙二さん」彼女からそう呼ばれるたびに、心臓が跳ねた。彼女のまっすぐな視線に射抜かれるたびに、体が固まった。
あの時、喫茶店の窓際の席で、彼女は何を言おうとしていたのだろう。遮ってしまったのは、俺だ。これ以上、深入りしてはいけない。そう、理性が囁いたから。だが、本心は?俺の本当の気持ちは、どこにある?もう一度、彼女に会いたい。会って、確かめたい。
この気持ちの正体を。そして、もし許されるなら…いや、考えるな。それは、パンドラの箱だ。開けてはならない。しかし、箱はもう、半開きになっているのかもしれない。漏れ出したのは、希望か、それとも絶望か。俺はまだ、その答えを知らない。
俺の名前は、斎藤謙二。六十一歳。
数年前に長年勤めた地方公務員を定年退職し、今は妻のまりと二人、静かな年金生活を送っている。
子供はいない。それが少し寂しい時もあるが、まりがいればそれで十分だと、ずっと思ってきた。
まりは、穏やかで優しい女性だ。料理上手で、いつも家を綺麗にしてくれている。
若い頃のような情熱的な時間は減ったけれど、空気のように自然で、なくてはならない存在だ。
不満なんて、あるはずがなかった。そう、あの日までは。
みゆきと出会ったのは、半年前。地域のボランティア活動「花咲かせ隊」でのことだった。
退職後の時間を持て余し、少しでも社会との繋がりを持ちたいと参加した、公園の花壇を手入れする活動。
彼女は、いつも明るく、はつらつとしていた。泥まみれになりながらも、楽しそうに花と向き合う姿が、妙に眩しく見えた。
年齢は、確か五十代半ばだと聞いた。夫とは十年前に死別したらしい。一人娘はすでに嫁いでいて、今は一人暮らしだという。
最初は、他の参加者と同じように、当たり障りのない会話を交わすだけだった。天気の話、花の名前、育て方のコツ。
だが、ある日、作業後に立ち寄った喫茶店で、偶然二人きりになった。他のメンバーは先に帰り、俺たちはもう少し話したくて残ったのだ。彼女が、ふと寂しそうな目をした瞬間があった。亡くなった夫の話をしている時だった。
「時々、どうしようもなく寂しいんですよね。一人は気楽だけど…やっぱり」その言葉に、俺はなぜか強く心を揺さぶられた。
普段の明るさの裏にある、深い孤独。それに触れた気がして、俺は何か言葉をかけたかった。だが、気の利いた言葉なんて、すぐに出てこなかった。
それから、自然と二人で話す機会が増えた。活動の後、一緒にコーヒーを飲むのが習慣になった。彼女は、俺の話をいつも真剣に聞いてくれた。退職後の戸惑い、趣味の話、若い頃の夢。まりには話せないような、心の奥底にある澱のようなものまで、彼女の前では素直に吐き出せた。彼女もまた、自分のことを少しずつ話してくれた。亡き夫との思い出、娘への想い、これからの人生への期待と不安。
互いの心の内を見せ合ううちに、特別な感情が芽生え始めていることに、俺は気づいていた。
それは、友情とは少し違う、もっと甘く、そして危険な響きを伴う感情だった。
罪悪感がなかったわけではない。まりに対する裏切りではないか。何度も自問自答した。
だが、みゆきと過ごす時間は、退屈だった日常に彩りを与えてくれた。忘れていた感情が、心の奥底から蘇ってくるような感覚。
それは、抗いがたい魅力を持っていた。視線が合うたびに、ドキリとする。会話の中で、偶然手が触れそうになる。そのたびに、空気が張り詰めるのを感じた。彼女も、俺と同じように感じているのだろうか。確かめたいような、怖いような、複雑な気持ちが渦巻く。
彼女のふとした仕草、笑い声、少し潤んだ瞳。その全てが、俺の心を掻き乱した。これは、いけない。そう思うほどに、想いは募っていく。まるで、堰を切ったように。
そして、あの夜が訪れた。ボランティア活動の打ち上げで、少し飲みすぎた帰り道。家路が同じ方向だった俺たちは、二人で夜道を歩いていた。酔いのせいか、いつもより饒舌な彼女。そして、いつもより大胆な俺。公園のベンチに腰掛け、星空を見上げた。
静寂の中で、隣に座る彼女の体温を感じる。ふと、彼女が俺の肩に寄りかかってきた。驚いたが、拒むことはできなかった。彼女の髪から漂う、シャンプーの香り。規則正しい寝息。俺の心臓は、早鐘のように打っていた。このまま時間が止まればいい。そう、本気で思った。
しばらくして、彼女が顔を上げた。
「ごめんなさい、少し酔っちゃったみたい」潤んだ瞳が、街灯の光を受けてきらめく。
その瞬間、俺の中の何かが弾けた。気づけば、彼女の唇に自分の唇を重ねていた。柔らかく、温かい感触。
彼女は驚いたように目を見開いたが、やがてゆっくりと目を閉じた。どれくらいの時間、そうしていただろうか。
離れた時、彼女は何も言わず、ただ俯いていた。俺も、かける言葉が見つからなかった。気まずい沈黙が流れる。
「…送るよ」俺はそれだけ言うのが精一杯だった。
彼女の家の前で別れる時、彼女は小さな声で「ありがとう」と言った。
そして、「今夜のことは、忘れてください」と付け加えた。
その言葉は、俺の胸に深く突き刺さった。忘れることなんて、できるはずがない。あの感触も、あの空気も、彼女の表情も。
全てが、鮮明に脳裏に焼き付いている。それ以来、俺たちはどこかぎこちなくなった。
ボランティア活動で顔を合わせても、以前のように気軽に話せない。視線が合えば、すぐに逸らしてしまう。触れそうで触れない距離が、もどかしい。あの夜の出来事は、二人だけの秘密になった。重く、甘美な秘密。だが、その秘密は、同時に俺たちを引き裂こうとしているようにも感じられた。まりへの罪悪感は、日増しに大きくなる。何気ないまりの優しさが、針のように心を刺す。
俺は、どうすればいいのだろう。このまま、何事もなかったかのように日常に戻るべきなのか。それとも、この燻る想いに身を任せるべきなのか。答えは、まだ見つからない。
ただ、みゆきを想う気持ちだけが、確かなものとしてそこにあった。
背徳感という名のスパイスが効いた、苦くて甘い、大人の恋心。
俺は、その迷宮に迷い込んでいた。
季節は巡り、初夏の日差しが眩しい季節になった。あの日以来、みゆきとの関係は、付かず離れずの状態が続いていた。
ボランティア活動で顔を合わせれば、ぎこちない挨拶を交わす。たまに目が合えば、互いに戸惑い、すぐに逸らす。
あの夜の熱は、まるで幻だったかのように、日常の澱の中に沈んでいくように見えた。
それでいいのだと、自分に言い聞かせていた。過ちは過ちとして、胸の奥にしまい込むべきだと。まりとの穏やかな生活を壊してはならない。そんなある日、珍しくまりが体調を崩した。高熱を出し、寝込んでしまったのだ。
俺は、一日中まりの看病をした。冷たいタオルで額を冷やし、おかゆを作り、薬を飲ませる。
弱々しく「ありがとう」と言うまりの姿を見ていると、罪悪感が鈍い痛みとなって胸を締め付けた。
俺は、こんなにも優しい妻を裏切ったのだ。許されるはずがない。
その夜、まりがようやく眠りについた後、俺は一人、リビングで深いため息をついた。
テーブルの上には、読みかけの本と、まりが淹れてくれたであろう冷めたお茶。いつもの風景。
だが、今はその全てが、俺の罪を責め立てているように感じられた。その時、携帯電話が静かに震えた。
画面には「みゆき」の名前。心臓が大きく跳ねた。出るべきか、出ざるべきか。数秒の葛藤の後、俺は通話ボタンを押した。
「…もしもし」
「謙二さん?ごめんなさい、こんな時間に」電話の向こうから聞こえる、少し掠れた彼女の声。
「どうしたんだ?」
「…少し、お話したいことがあって。今、大丈夫ですか?」
「ああ、大丈夫だよ」隣の部屋で眠るまりに気づかれないよう、声を潜める。
「あの…今度の日曜日、少しだけ時間、いただけませんか?」彼女の声には、切実な響きがあった。断ることはできなかった。
「…わかった。いつもの喫茶店でいいか?」
「はい。ありがとうございます」短い会話の後、電話は切れた。
再び訪れた静寂の中で、俺の心は激しく揺れていた。彼女は、何を話すつもりなのだろう。あの夜のことか?それとも…。
良くない予感が、胸騒ぎとなって広がっていく。
日曜日、約束の時間に喫茶店に着くと、みゆきは既に窓際の席に座っていた。緊張した面持ちで、窓の外を眺めている。
俺が近づくと、彼女はハッとしたように顔を上げた。
「謙二さん…」
「ごめん、お待たせ」俺は努めて平静を装い、彼女の向かいに腰を下ろした。ウェイトレスが水を運んでくる間、ぎこちない沈黙が流れる。注文を終え、二人きりになると、彼女は意を決したように口を開いた。
「突然呼び出してしまって、ごめんなさい」
「いや…」
「今日は、お伝えしなければならないことがあって…」彼女は一度言葉を切り、俯いた。長いまつ毛が震えている。
「私…この街を離れることにしたんです」
「えっ…?」予想外の言葉に、俺は思わず声を上げた。
「どうして、急に…」
「娘夫婦と一緒に暮らすことになったんです。少し前から話はあったんですけど…なかなか決心がつかなくて」彼女は顔を上げ、俺をまっすぐに見つめた。その瞳には、悲しみと、どこか安堵したような色が浮かんでいた。
「でも、もう決めました。それが、一番いいんだって」彼女の言葉は、暗に俺たちの関係の終わりを告げているように聞こえた。
頭では理解できた。これが、正しい選択なのだと。だが、心は追いつかなかった。胸に、ぽっかりと穴が開いたような感覚。
「そうか…」俺は、それしか言えなかった。
「謙二さんには、本当にお世話になりました。ボランティア、楽しかったです」
「俺の方こそ…」
「あの夜のことは…本当にごめんなさい。忘れてください、なんて言ったけど…私、忘れられませんでした」彼女の声が震える。
「でも、このままじゃ、あなたにも、奥様にも、申し訳ないから」
「だから、これで良かったんです。さようなら、謙二さん」彼女はそう言うと、立ち上がった。その目には、涙が浮かんでいた。
俺は、引き止めることができなかった。彼女の背中が、喫茶店のドアの向こうに消えていくのを、ただ見送ることしかできなかった。
罪悪感のピーク。そして、訪れた別れ。熱いものが込み上げてくるのを、必死でこらえた。これで、良かったんだ。そう、自分に言い聞かせながら。
みゆきが街を去ってから、数ヶ月が過ぎた。 季節は秋に移り変わり、公園の木々も少しずつ色づき始めている。 俺の日常は、以前と変わらないように見えた。 まりの体調もすっかり回復し、二人で散歩に出かけたり、たまに外食を楽しんだりする、穏やかな日々。 ボランティア活動も続けているが、花壇にみゆきの姿がないことに、時折、胸が締め付けられるような寂しさを覚える。
あの別れの後、俺はまりに全てを打ち明けるべきか、何度も悩んだ。 しかし、結局、言い出すことはできなかった。 それは、まりを傷つけたくないという思いと、同時に、この穏やかな日常を失いたくないという、俺自身の弱さからだったのかもしれない。 墓場まで持っていく秘密。 そう、心に決めた。 その罪悪感は、一生消えることはないだろう。 だが、それも俺が背負うべき罰なのだと思う。
ある晴れた午後、まりと二人で近所の公園を散歩していた。 他愛ない会話を交わしながら、ゆっくりと歩く。 まりは、時折、俺の腕にそっと手を絡ませてくる。 その温かさが、今はただ愛おしい。 ふと、まりが足を止めた。
「ねえ、あなた」 「ん?」 「最近、少し優しくなったわね」 そう言って、まりは悪戯っぽく笑った。 俺はドキリとしたが、平静を装って聞き返した。
「そうか?いつもと変わらないつもりだけど」
「ううん、違うわよ。なんだか、前よりもっと大切にしてくれてる気がする」 まりの言葉に、俺は返す言葉が見つからなかった。 彼女は、何も知らないはずだ。 知らないはずなのに、俺の変化を感じ取っているのだろうか。
「…そうかもしれないな」 俺は、少し照れながらそう答えた。
「まりがいることが、当たり前じゃないって、改めて思ったから」 それは、偽りのない本心だった。 みゆきとの一件は、確かに過ちだった。 だが、その経験を通して、俺はまりの存在の大きさを、そして、この穏やかな日常の尊さを、痛いほどに思い知らされたのだ。 失いかけて初めて気づく、大切なもの。
まりは、嬉しそうに微笑んだ。
「ふふ、嬉しいこと言ってくれるじゃない」 そして、またゆっくりと歩き出す。 俺は、まりの隣を歩きながら、空を見上げた。 高く澄んだ秋の空。 もう、みゆきに会うことはないだろう。 それでいいのだ。 彼女は、きっと新しい場所で、幸せに暮らしているはずだ。 俺もまた、この場所で、まりと共に生きていく。 心の中には、消えない傷と、甘く切ない思い出を抱えながら。
人生の黄昏時に訪れた、予期せぬ嵐。 それは、俺の心に大きな波紋を残した。 だが、嵐が過ぎ去った後には、凪いだ海のような静けさが戻ってきた。 以前よりも、少しだけ深みを増した静けさが。 これで良かったのだと、今は思う。 過ちを犯し、苦しみ、そして大切なものに気づく。
それもまた、人生なのかもしれない。 俺は、隣を歩くまりの手に、そっと自分の手を重ねた。 温かい感触が、心に沁みた。
「これからも、よろしくな」 小さな声で呟いた言葉は、秋風に紛れて消えた。 だが、まりには届いたようだった。 彼女は、黙って優しく微笑み返してくれた。 それで、十分だった。 そして、穏やかな未来へと、時間は再び流れ始める。