
僕の名前は坂井智明。今年で38歳になる。昔から生真面目だがかなりの口下手だ。特に女性と話すのは苦手で、言葉を選びすぎて相手を困らせてしまうことも多い。そんな僕が、父から譲り受けたマンションの大家兼管理人をしている。父が亡くなったのは、つい先日のことだ。70歳という若さで病に倒れた。父が残したマンションは、思い入れの深いものらしく、僕に譲るときも「しっかり守れよ」と言い残していた。僕は父の遺志を継ぎ、サラリーマンを続けながら、このマンションで大家としての生活を始めた。
そんなある日、住人リストを確認していると、家賃を半年間滞納している住人がいることに気づいた。202号室の若井美恵さん。40代の女性で、シングルマザーらしい。僕はその名前を見て、何とも言えない不安と責任感に駆られた。滞納者と向き合うのは初めてだったが、放っておくわけにはいかなかった。夜、彼女の部屋を訪ねてみることにした。ドアに明かりが漏れているのを確認し、チャイムを鳴らす。しばらくして、ドアが少しだけ開き、その隙間から彼女の顔が覗いた。その顔を見た瞬間、僕は思わず言葉を失った。落ち着いた美しさを持つその顔立ちには、どこか憂いが漂い、目元は疲れたように赤く見えた。
「大家の坂井です。家賃の件で少しお話ししたいのですが……」彼女は一瞬驚いたようだったが、小さくうなずき、ドアを開けた。中に通されると、整頓された部屋には生活感があり、小さな女の子が描いた絵が冷蔵庫に貼られていた。
僕が家賃の滞納について切り出すと、彼女は黙り込み、やがてポツリポツリと話し始めた。詐欺に遭い、お金を失ったこと。給料が安く、食べていくのがやっとの生活であること。声は震え、涙が頬を伝い落ちていた。
「どうか、もう少しだけ猶予をください……。私……何でもしますから……」その言葉に、僕は一瞬息を呑んだ。「何でもします」と繰り返す彼女の声には、覚悟と諦めが滲んでいた。それがどういう意味なのかを理解するのに、さほど時間はかからなかった。僕は軽く息をつき、努めて穏やかな声で答えた。
「では、明日、僕の部屋に来てください」彼女の肩がビクっと震えた。驚きと恐怖が入り混じったような目で、彼女は僕を見上げた。
「明日の夜、子供さんが眠ったら来てください。そのときに、詳しくお話ししましょう」そう言って、僕は彼女の部屋を後にした。振り返ると、まだ彼女が扉の奥からこちらを見つめている気配があったが、僕はそのまま階段を降りていった。
翌日、彼女が僕の部屋を訪ねてきた。扉を開けると、彼女は小さな肩をすぼめ、まるで囚人のような表情をしていた。手は固く握り締められ、声をかけようとしたが、僕の喉は乾いて声が出なかった。
「どうぞ、中へ」とだけ言うと、彼女は恐る恐る部屋に足を踏み入れた。部屋の中央に立った彼女は、何かに怯えるように小さく震えていた。顔を上げて僕を見た彼女の瞳には、諦めと覚悟が入り混じっているのが分かった。
「あの……私、こういうこと初めてで……それで、本当にそれで許してもらえるんですか?」彼女の言葉を聞いた瞬間、僕はようやく彼女の誤解に気づいた。そして、自分の言動がどれほど彼女を追い詰めてしまったのかを思い知った。
「まず、そこに座ってください」とだけ言い、ソファーを指差した。彼女は少しの間立ち尽くしていたが、やがて観念したようにゆっくりと椅子に腰を下ろした。僕は部屋の隅から資料を持ってきて、彼女の隣に座ったが、彼女はビクッと肩をすくめていた。その動きに、彼女がまだ怯えていることが伝わり、胸が痛くなった。
「これを見てください」と言って、僕は机の上に数々の資料を並べた。
「え……?」と彼女は小さな声を漏らし、恐る恐る資料に目を向けた。
「あなたのような方を助けるための救済制度を調べました。知らないだけで、世の中にはこういう制度がたくさんあるんです。これを使えば、きっと何とかなるはずです」彼女はしばらく呆然としていたが、次の瞬間にはぶわっと涙を流した。その涙は、恐怖と誤解から解放された安堵の涙だったのだろう。
「ごめんなさい……私……てっきり……」
「てっきり?」
「い、いえ……なんでもないです」と彼女は首を振り、資料を震える手でめくり始めた。その姿を見て、僕は自分が少しだけ誰かの役に立てたような気がして、不思議な感覚に包まれた。それから彼女は制度を利用し、少しずつ生活を立て直していった。ある日、「お礼に」と言って、僕に手料理を振る舞ってくれた。それをきっかけに、彼女と娘の奈々ちゃんとの交流が増え、僕の部屋には温かい時間が流れるようになっていった。
それから数ヶ月が経った。美恵さんは使える救済制度を利用し、生活を少しずつ立て直していた。時折、彼女は「大家さん」と呼びかけてきて、マンションの掃除や簡単な管理の手伝いをしてくれる関係になっていた。
「お礼に」と言って振る舞ってくれる彼女の手料理は、どれも温かく、僕には忘れかけていた家庭のぬくもりを感じさせるものだった。食卓にはいつも娘の奈々ちゃんもいて、あどけない笑顔で僕に話しかけてくる。
「管理人さん、おかわりどうぞ!」と元気よく言う奈々ちゃんの声に、美恵さんが恥ずかしそうに笑う。
「ママもいっぱい食べてくれたら嬉しいでしょ?」そんな言葉に、美恵さんの頬がほんのり赤く染まり、僕も思わず視線を落とす。奈々ちゃんの無邪気な言葉に、僕自身も彼女と過ごす時間が楽しいと感じていることを再確認した。
そんなある日、美恵さんはふと真剣な表情になり、僕に話しかけてきた。
「あの……ひとつ、謝らないといけないことがあるんです」
「謝る?」僕は驚いて彼女の顔を見た。
「実は……最初にお会いした時、あの時……」彼女は言い淀み、俯いた。「私、てっきり、体で払えって言われるんだと思ってたんです。本当にごめんなさい……」その言葉に、僕はしばらく何も言えなかった。あの時、彼女が怯えていた理由を改めて思い出し、胸が締め付けられるような気持ちになった。
「え、あ、え、僕が誤解させるようなことを言ったからですね……。ごめんなさい」
「いえ!そうじゃないんです。ただ……生活に追い詰められて、自分がどんどん汚れていくような気がして……。でも坂井さんは、そんな私を助けてくれて……本当にありがとうございました」
美恵さんの目には涙が溢れていた。僕は、その涙に何と答えればいいのか分からなかった。ただ、自然と手が動き、彼女の肩に触れた。
「もう、そんなことを考えなくていいですよ。美恵さんは、奈々ちゃんと一緒に、これからもっと幸せにならなきゃいけないんです」彼女は目を見開き、そしてゆっくりとうなずいた。その時、彼女が僕に向けた視線は、以前とは違って、どこか穏やかで温かいものだった。
それから僕たちの距離は、さらに近づいていった。ある夜、奈々ちゃんが早く寝付いた後、美恵さんが静かに僕に話しかけてきた。
「私……今なら体で払っても良いですよ」僕は彼女の言葉を聞いて、心臓が大きく跳ねるのを感じた。
「え、え、からかわないでくださいよ」
「冗談じゃないですよ」僕たちはお互いを見つめ合い、やがて彼女が静かに僕の肩にもたれかかってきた。その夜、僕たちは初めて、身も心も通わせた。本当に大切な人がそばにいることの幸せを、僕はその時初めて知った。
それから、美恵さんと奈々ちゃんは、僕の部屋で過ごすことが増えた。ある日、僕は意を決して、美恵さんに提案した。
「これからずっと一緒に、僕の部屋で暮らしませんか?」彼女は驚いたように目を見開いたが、すぐに涙ぐみながら首を振った。
「ダメです……お借りしているお金を、きちんと返してからじゃないと……」
「お金のことなら、もういいんです」
「それじゃダメなんです。私、坂井さんに助けてもらってばかりで……そんな自分のままでは、奈々の母親としても胸を張れないんです」彼女の真剣な表情を見て、僕はそれ以上何も言えなかった。ただ、その時初めて、彼女がどれほど自分を律して生きているのかを知り、ますます彼女への気持ちが深くなった。それから数ヶ月後、美恵さんはついに家賃滞納分と僕から借りていたお金をすべて返済し、僕の部屋に越してくることを決めた。
「これからもよろしくお願いします」と微笑む美恵さん。その隣で、奈々ちゃんが「これから一緒だね!」とはしゃぐ。僕の部屋には、再び温かな家庭のぬくもりが戻ってきた。父が残してくれたマンションは、こうして僕にとっても、彼女たちにとっても新しい人生の出発点となったのだ。