「社長の言う通りでした……私……もう限界なんです……!」
夕方の薄暗くなりかけた会社近くの公園のベンチで、うずくまる美咲の姿を見たとき、俺の胸がざわついた。通りかかっただけなのに、運命が何かを訴えているような気がした。美咲が会社を辞めた後、数年ぶりに目にした彼女の姿は、かつての明るさや穏やかな雰囲気の欠片も残っていなかった。
肩は震え、痩せた腕を両手で抱えるようにして身を縮めている。風が彼女の髪を少し乱し、その隙間から覗く横顔が、不安と絶望を浮かべていた。あまりにも変わり果てたその姿に、俺は胸の奥が締めつけられるような痛みを感じた。
「美咲……?」声をかけると、美咲は顔を上げた。その瞳には、かつての透明な輝きがなかった。代わりに、怯えと疲弊が濃く宿っている。涙の跡が彼女の頬を濡らし、言葉を発しようとしても震えてうまく出せないようだった。
「社長……?すみません……私……どうしていいかわからなくて……」
そう言いながら、彼女は再び顔を伏せた。肩越しに見えた彼女の腕の細さに、かつての彼女の面影を必死に探してしまう。輝いていた頃の美咲の姿。それは、俺の中で美化された思い出ではなく、確かに彼女がここにいた証拠だった。
美咲が俺の会社に入ったのは、もう8年も前のことだ。俺たちのような土木関連の会社にとって、女性の事務員は職場の潤滑油のような存在だったが、美咲はそれだけではなかった。彼女は周囲に明るさを振りまき、誰からも愛される存在だった。
「社長、コーヒーお持ちしました!」
彼女の声が聞こえるだけで、職場の空気が一変するような気がした。疲れ切った現場の男たちも、彼女がいると自然と笑顔になる。いや、それだけじゃない。俺自身も、彼女の笑顔に救われていた。ある日、彼女が「試作品なんです」と言って、手作りのお菓子を差し出してくれたことがあった。甘さ控えめのマドレーヌは、彼女の性格をそのまま映し取ったような、温かくて優しい味がした。
「こういうの、いいなって思うんです。誰かを喜ばせるために、何かを作るのって楽しいですよね。」
彼女がそう言ったときの笑顔が、俺の記憶に深く刻まれている。俺にとって美咲は、仕事に疲れた心を癒してくれる存在であり、同時に、手が届かないような遠い輝きでもあった。
しかし、田村を雇ったことで、その輝きが少しずつ曇っていくことになるとは、そのときの俺には知る由もなかった。
田村を雇ったのは、俺が掲げている「更生支援」という理念の一環だった。過去に犯罪を犯した人間でも、やり直せる場所を与えるべきだ。それは、高校時代の親友を失った後悔から生まれた信念だった。彼は詐欺罪で捕まり、出所後も孤立し、再犯を繰り返し、最後には命を絶った。俺が彼に手を差し伸べていれば、結果は違ったのかもしれない。そう思うたびに、自分の無力さに打ちひしがれた。だから、俺は彼の代わりに誰かを救いたいと常に思っていた。
初めて会ったときの田村は、頼りない男に見えた。卑屈な笑みを浮かべ、どこか壁を感じさせる態度。でも、やり直したいと語るその姿に、俺はかすかな希望を見た。
「俺はチャンスを与えるが、その後はお前次第だ。いいか?」「……はい、ありがとうございます。」田村はそう答え、深く頭を下げた。
だが、入社後の田村は、俺の期待を裏切った。サボり癖、いい加減な仕事ぶり。それでも俺は、彼が変わる日を信じて見守っていた。彼の心に触れる方法があるはずだと。そんな時に、美咲からびっくりする報告があった。
「社長、実は私、田村さんとお付き合いするようになって……結婚しようと思っています。」
美咲がその話を切り出したのは、田村の入社から半年が経った頃だった。俺は耳を疑った。美咲と田村の結婚を聞いたとき、俺の中に妙な感情が湧き上がった。それは嫉妬なのか、それとも純粋な心配なのか、自分でもよくわからない。ただ、美咲には幸せになってほしい。その思いだけは確かだった。
「田村と……結婚?」
「はい。田村さん、不器用ですけど優しいところもあって……。これから一緒に頑張りたいなって思うんです。」
彼女は微笑みながら言ったが、その言葉に俺は釈然としないものを感じた。
「美咲……それは本当に大丈夫なのか? 田村は、不誠実なところが多い。お前が苦労するんじゃないかと心配だ。」彼女は困ったように笑った。
「ありがとうございます。でも……大丈夫です。私、彼を信じてみたいんです。」俺はそれ以上何も言えなかった。美咲の決意は固く、俺が口を出せるような雰囲気ではなかった。そして二人は結婚し美咲は退職した。
ただ、それから数カ月も経たないうちに彼女は公園のベンチで泣いていたのだ。美咲を田村から救わなければならない。その思いが、俺の中で次第に強くなっていった。
そんな時についに事件が起きた。俺の会社から4,000万円相当の特殊車両が盗まれたのだ。原因は田村が鍵を付けっぱなしにしていたこと、会社の門のも開けっ放しで帰ったことだった。
「田村! 責任はどう取るつもりだ!」俺が怒鳴ると、田村は申し訳なさそうな顔をしながらも、どこか他人事のような態度だった。そしてすごい一言を投げ返してきた。
「お金は無いので、妻を差し出します。それで許していただけませんか?」
その言葉に、思わず怒鳴ってしまいそうな程怒りを覚えたが、ここは冷静を装い「じゃあ、そうしてくれ」と言い、美咲をこちらに引き渡すことに同意した。
俺は即座に美咲を安全な知人へ預け、田村の手の届かないところで彼女を保護した。それから毎日のように、田村は「良い女でしょう。」とことあるごとに俺に話しかけてくる。
どこまでも腐った男だ。そしてその数か月後、警察から連絡があった。
結局盗難にあったのではなく、田村が外国人グループに特殊車両を転売していたのだった。田村が警察に連行されるときの態度は、驚くほど堂々としていた。まるで「また失敗しただけだ」と言わんばかりに、淡々とした表情を浮かべていた。彼の更生は、最初から成り立っていなかったのかもしれない。俺の信念はまたひとつ、揺らぎそうになった。ただ、これで美咲を救う道が開けたのだと思っただけだった。
あの事件から半年後、美咲がうちの会社に戻ってきた。
「社長!これからまたお世話になります!」あれだけ情緒不安定になっていた美咲に昔のような明るさが戻っていた。彼女のその言葉に、俺は笑顔で答えた。
「ああ。これからもよろしくな。」それから、会社には再び美咲の笑顔が戻り、甘いコーヒーの香りが漂い始めた。お菓子を持ってきてくれた美咲が、満面の笑顔で「社長、また食べてくださいね」と言ったとき、俺はふと、数年前の彼女の姿を思い出した。あの頃の美咲と同じように、彼女の声には温かさが戻っていた。俺たちは、少しずつ前に進んでいくのだと思う。
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