親父から受け継いだ定食屋の看板が、秋風に揺れている。色褪せた文字が、今にも消えかけているように見えた。俺、拓也はその古びた看板を見上げ、ため息をつく。
「やっぱ、ダメだな……」
口に出したところで、何かが変わるわけでもない。それでも、言葉にしなければやり切れなかった。
親父の代では、この店は繁盛していた。昼どきには、店の前に列ができて、慌ただしい厨房の中からでも客の笑い声が響いていた。それが今では、テーブルはガラ空き。どれだけ頑張っても、客足が遠のくばかりだった。もしかしたら、俺に経営のセンスなんてものはないのかもしれない。そんなことを考えながら、今日も一日を終える準備をしていた。
その時、重いガラガラという音と共に、店のドアが開いた。振り返ると、女性が一人、静かに店内に入ってきた。
「いらっしゃいませ……」
ほとんど無意識に口を開いたが、彼女がテーブルに座ると、その姿に見覚えがあることに気づいた。
「……真由子?」
思わず名前が口をついて出る。あの柔らかな表情、伏し目がちな瞳。間違いない、彼女は真由子だった。俺たちは、小中高と同じ学校に通っていた。真由子は大人しく、目立たない存在だったが、どこか特別な雰囲気があった。俺はちゃらけた連中とつるんでいたから、あまり接点はなかったけれど、彼女のことはよく覚えている。彼女が東大に進学したという話を耳にしたのは高校卒業の頃だったが、それ以来、何の接点もなかった。
「久しぶりだな、真由子。元気か?」
自然に声が出たが、内心は動揺していた。なぜ今ここに? なぜこの店に? さまざまな疑問が頭をよぎった。
真由子は、俺の声に気づいて驚いたように顔を上げ、俺の顔を見つめた。
「え?拓也くん……? ここ、拓也くんのお店なの?」
「ああ、親父の店なんだよ。俺が継いだんだけど……まあ、うまくいってないけどね」
苦笑いしながら答えたが、真由子の表情が沈んでいるのが気になった。お味噌汁を一口すする度に、真由子の瞳に滲んだ涙が溢れ出すのがわかった。店内の静けさが、彼女の心の奥底にある苦しさを一層際立たせるようだった。
「私ね……一生懸命頑張ってるんだけど、うまくいかなくて。会社で、いじめられてるんだ……」
真由子は、そう言ってぽつりぽつりと話し始めた。声が震えているのを聞いて、俺は息を呑んだ。あの真由子が、こんなに追い詰められているなんて。彼女はいつも優秀で、何もかも完璧にこなす人間だと思っていた。だけど、その完璧さが、逆に彼女を苦しめていたのかもしれない。
「でも……お前は優秀だろ? きっとまたうまくいくよ」
そう言ってはみたものの、俺自身の言葉が空虚に感じた。彼女の辛さを、本当には理解できていないんじゃないかという不安が頭をよぎった。それでも、その日から真由子は定期的に店に顔を出すようになった。最初は元気がなかった彼女も、何度か足を運ぶうちに、少しずつ笑顔を取り戻していった。
「ありがとう、拓也くん。ここに来ると、なんだかほっとするんだ」
そう言って笑う真由子の顔を見て、俺は心の中が温かくなるのを感じた。
ある日、いつものように彼女が店に来たとき、今までにないほど沈んだ表情をしていた。
「クビになっちゃった……」
その言葉を聞いた瞬間、俺は何も言えなかった。真由子ほどの人間が、職を失うなんて、、その現実に打ちのめされている彼女を前に、慰めの言葉さえ見つからない。だが、その時、店に数人の外国人グループが入ってきた。
俺は英語がまったくできない。どうしようかと戸惑っていると、真由子が静かに立ち上がり、軽やかに言った。
「私が注文を聞くね」
そして、流暢な英語で外国人たちと話し始めた。驚くほど自然で、まるでずっとこの店で働いていたかのような堂々とした態度だった。俺はただ、あっけに取られて彼女の姿を見つめていた。真由子が彼らの注文を終え、振り返ってニッコリと微笑んだ。
「はい、早く早く。注文はこれね。私、手伝うね!」
彼女の笑顔を見て、俺は心の中で何かが弾けるような感覚を覚えた。俺は思わず言葉を発していた。
「英語得意ならさ、うちで働いてくれないか?やたらと外人さんが入ってくるんだよ。英語できないからさいつもは断ってたんだ。 給料は多くは払えないけど、次の仕事が決まるまででいいからさ」
真由子は少し驚いた顔をしたが、すぐに笑顔で答えた。
「うんいいよ! 私、外人さん、どんどん呼び込むよ!」
それから、彼女は本当に店の手伝いを始めてくれた。SNSを駆使して外国人観光客に店を広め、気がつけば店の客の8割が外国人になっていた。メニューも真由子の提案で、メニュー数を減らしシンプルかつ効率的にまとめたことで、経費も下がり売り上げはどんどん上がっていった。あれほど苦しかった経営が、まるで嘘のように好転していった。
それから数カ月が経ったある日、店に真由子の元同僚が現れた。彼女が辞めたことで仕事が回らなくなったようだ。
「お前のせいで大変なんだ。すぐに戻ってこい」と、高圧的な口調で彼女を誘ってきたが、真由子はその提案を一蹴した。
「私はもう、ここでやりたいことがあるの」と毅然と言い放つと、俺の方を見て微笑んだ。その微笑みには、かつての彼女にはなかった自信が宿っていた。
そして、不意に彼女はこう言った。
「私ね、学生の頃からずっと拓也くんが好きだったんだよ。知ってた?」
驚きと共に、俺の頭の中が真っ白になった。
「え……いや、全然知らなかったよ」
真由子は少し照れくさそうに微笑んで続けた。
「ずっと伝えられなかったけど、もう我慢できなくて。私ね……拓也くんに会えて、本当に救われたの。だから。。私と結婚してください」
突然の告白に、俺は焦って思わず言い返した。
「ちょっと待ってくれよ……急すぎるだろ」
けれど、真由子の瞳にはもう涙が浮かんでいた。その涙を見た瞬間、俺は慌ててカバンに荷物を取りに行き、そこにしまっていたリングケースを取り出した。
「違うんだ。俺も…中々伝えるタイミングが無くて…真由子、好きだ。俺と結婚してくれ」
リングケースを開きながら告白したその瞬間、彼女は大泣きしながら何度も頷いた。
このやり取りを見ていた元同僚は、あっけにとられ「お、おめでとう」と言いお店から去っていった。
あれだけ偉そうに息巻いていた元同僚の場違い感は滑稽だった。
それから、俺たちは結婚し、店は真由子の力もあってチェーン展開を果たした。今では15店舗を運営するまでに成長した。あの日、彼女が「手伝うよ」と笑ってくれた瞬間から、奇跡は始まっていたんだと思う。これから先、どんな未来が待っているのかはまだ分からない。だけど、真由子と一緒に歩んでいけるのなら、その先にあるものがどんなに困難でも、きっと乗り越えていけるだろう。あの日、彼女が店に来た瞬間から、俺たちの奇跡は始まっていたんだ。