私たちの出会いは、あの日、命の境界線で始まった。
いや、正確には再び命の境界線に立たされたその瞬間、僕たちは初めて「本当の意味」で出会ったのかもしれない。
僕の名前は鈴木大地、僕は建築現場で働く、ごく普通の男だ。毎日汗と泥にまみれて、重たい鉄骨を組み上げていく。日々の労働は決して楽じゃない。けれど、それが僕の生き方だった。建物が完成したときの達成感、そして自分の手で何かを形にしていく感覚。僕にとっての生きがいだった。
ある日も、そんな日常の中の一日だった。仕事を終えて、いつものように体を引きずるようにして帰路に向かっていた。空はもう夕焼けに染まり始めていて、街中に長い影を落としていた。信号のない横断歩道を女性がこちらに向かって走ってくる。
危ない。言葉は口に出る前に、僕の中で形になっていた。全身が一気に熱くなり、思わず飛び出そうとした瞬間、彼女の方へ突っ込んでくる車の姿が目に入った。叫び声は喉元で引っかかり、まともに声にならなかった。でも、僕の体は反射的に動いていた。
次の瞬間、僕はその女性、優佳を抱きしめるようにして、車の衝撃を受けた。
そのあとのことは何も覚えていない。
気づいたときには、もう3ヶ月が経っていた。意識を取り戻した瞬間、まず感じたのは、重たく動かない体と、頭の中に広がる霧のようなぼんやりとした感覚だった。ここがどこかもわからず、どうしてこんな状態になっているのかも思い出せなかった。記憶の糸は途中でぷっつりと切れていた。
両親が見舞いに来てくれた時、彼らは事故のことを話してくれた。僕は、ある女性を助けようとして車に跳ね飛ばされたという。助けた相手の名前は「優佳」。聞き覚えがあるような、ないような……そんな曖昧な感覚が頭の中で漂っていた。
でも、両親はこう続けた。「彼女、優佳さんは、毎日大地の看病に来てくれているんだよ」と。
最初、僕は理解できなかった。なぜ見ず知らずの女性が、そんな献身的に僕を支えてくれているのか。それがわからなかった。でも、その日からも、優佳が病室にやってきてくれた。目を覚ました優佳は涙を流して喜んでいた。
彼女は、何も押しつけがましいことは言わなかった。ただ、静かに、僕の側にいてくれた。ベッドの横で、僕が言葉を発するのを待つように微笑んで、時折そっと手を差し出してくれた。彼女の手は、冷たくも熱くもなく、ただ柔らかく温かかった。その手が、どんなに不安定な自分の心を支えてくれたか、言葉では言い尽くせない。
リハビリが始まった頃、僕はほとんど体が動かせなかった。足に力が入らず、数歩歩くだけでも息が切れた。汗が額を伝い、体中が痛んだ。でも、その度に優佳が優しい声で励ましてくれた。
「大地さん、大丈夫ですよ。少しずつ、少しずつでいいんです。焦らないでくださいね。」
その言葉に、僕はどれだけ救われたか。彼女の声は、柔らかく包み込むようでありながら、どこか芯のある強さがあった。それはまるで、彼女自身が何かを乗り越えてきた人の声のように聞こえた。
けれど、僕はそんな彼女に対して、心の奥底で一つの疑念を抱くようになっていた。それは、優佳が僕に対してこの献身的な行動は「罪悪感」のためだけにしているのではないか、という疑念だ。彼女を助けたという事実に対して責任を感じているのではないか。もし、僕が元気になったら、彼女は去ってしまうのではないか、そんな不安が、日に日に大きくなっていった。
そんな疑念と感謝の狭間で揺れ動きながらも、僕は懸命にリハビリを続けた。やがて、杖を使わずに歩けるようになり、退院することが決まった。
退院後もリハビリを続け、それからしばらく経ったある日、一人あの事故現場の横断歩道に足を運んだ。
事故現場に差し掛かると、突如として強烈な眩暈に襲われた。頭がぐらぐらと揺れ、まるで足元が崩れ落ちていくかのようだった。立っているのもやっとで、僕はその場にしゃがみこんでしまった。目の前が暗くなる。次の瞬間、脳裏に鮮やかに浮かび上がったのは、断片的な記憶のフラッシュだった。
ある日、優佳が僕を見つけて横断歩道を渡ってくる姿。そして彼女の笑顔が、一瞬スローモーションのように鮮明に蘇る。僕に向かって微笑みかけていた。だけど、その直後、僕の目には、背後から迫りくる車のヘッドライトがはっきりと映っていた。咄嗟に彼女を庇い、僕たちは一緒に空中に飛ばされた。
その瞬間、すべての記憶が一気に繋がった。
優佳は、僕の会社の後輩だった。いつも僕に笑顔を見せ、何気ない会話を重ねるたびに、その笑顔の裏に秘められた優しさを感じていた。彼女の存在が、僕にとって少しずつ特別なものになっていくのを自覚していた。僕たちは、付き合う寸前のところまできていた。お互いに好意を抱いていたけれど、どちらかが一歩を踏み出す勇気を持てなかった。ただ、それだけだった。
あの事故がなければ、いや。あの事故があったからこそ、僕たちは今ここにいるのだ。
その日、僕はすぐに優佳に連絡を取った。彼女に会わなければならない、何かを伝えなければならないという衝動に駆られていた。
「思い出したんだ、優佳」と、彼女に伝えたとき、言葉が喉の奥で震えていた。
「忘れていて、本当にごめんな」
優佳は驚いたような顔をしたが、すぐにその大きな瞳が潤んだ。「本当に思い出したんですか?」と、小さな声で尋ねた。その声は、かすかに震えていた。
「ああ、思い出したよ。そばにいてくれてありがとう。君がずっと僕を支えてくれていたこと、全部思い出したよ。」と、僕は言葉を詰まらせた。彼女はその瞬間、ふいに涙をこぼした。
「私が、あの時、渡らなければ、先輩に迷惑をかけなければ」と、優佳は震えた声で続けた。けれど、もうその言葉が終わる前に、彼女は耐え切れずに僕の胸に飛び込んできた。優佳は声を上げて泣いた。肩が震え、嗚咽を堪えきれないまま僕にしがみついてきた。その小さな体が僕の胸の中で震えているのを感じた。
僕は、彼女を抱きしめ返しながら、耳元で優しく囁いた。「君のせいじゃないよ。優佳、君があの日そこにいたから、僕は君を守れたんだ。君がいたから、僕はここにいるんだ」。
しばらく、僕たちはそのまま抱き合っていた。彼女の温もりが伝わってきて、今度こそ、僕はすべての不安や迷いを振り切ることができた。そうだ、これが僕の答えだ。
「優佳……今までありがとう。前みたいにバリバリ体を動かす仕事は出来ない僕だけど、これからも僕の側にいてくれるかい?僕と結婚してくれる?」
言葉を紡ぐたび、心臓が高鳴り、手が震えるのがわかった。優佳は一瞬驚いたように僕を見つめ、その大きな瞳に涙が溢れ出した。やがて、泣きながら彼女は笑った。
「先輩……私は、あの事故があっても、なくても、ずっと先輩のことを想っていたんです。運命だと感じてましたから」
その言葉に、僕の胸が温かく満たされていく。彼女の言葉一つ一つが、心を灯していくようだった。まるで長い冬が終わり、春の光が差し込むような、そんな穏やかで温かい気持ちだった。
僕の胸を温かく満たしていく。まるで長い冬が終わり、春の光が差し込むような、穏やかで温かい気持ちだった。こうして、僕たちは再び出会い、そして共に歩き始めた。あの日交差点で重なった命が、今では一つの道を進んでいる。——それが、私たちの出会いであり、結婚の始まりだった。