私の名前は中野卓と申します。つい先日、とうとう定年を迎えました。長い間働きづめだった日々が終わり、家でのんびりする時間が増えたわけですが、正直、少し戸惑っています。特に妻の正子と二人きりで過ごす時間には、どうも慣れません。というよりも妻がイライラしているのが目に見えます。
娘たちや孫たちが遊びに来てくれると賑やかで楽しく、時間があっという間に過ぎるのですが、二人きりになると妙に静かで、時には会話が続かず気まずい空気が流れることもあります。それでも、長年の習慣なのか、そんな日々を淡々と受け入れていました。
そんなある日、長女と次女が私の定年祝いに温泉旅行をプレゼントしてくれると言い出しました。有馬温泉、あの名湯です。立派なパンフレットを見せられながら、「お父さん、働き詰めだったから、たまにはゆっくりしてきてよ」と、まるで一大イベントのように提案されました。
最初は驚きましたが、内心少し困惑もしていました。娘たちの気持ちは嬉しい。でも、妻と二人きりで旅行なんて新婚旅行依頼です。娘たちや孫が一緒なら会話も弾むけれど、二人きりで何を話したらいいのか分からないですし、余計にギスギスした雰囲気になるのでは、という不安もよぎりました。
ところが、珍しく正子が積極的だったんです。「娘たちがせっかく考えてくれたんだから行きましょうよ」と言う彼女の声には、いつもの淡々とした口調ではなく、少し弾んだような響きがありました。それを聞いて断るわけにはいきません。結局、行くことにしたのです。
当日、有馬温泉に到着しました。旅館に足を踏み入れた瞬間、思わず目を見張りました。娘たちが手配してくれた部屋は広々としていて、なんと露天風呂付き。窓の外には緑が広がり、風に揺れる木々の音が心地よく耳に届きます。「本当にここに泊まっていいのか?」と疑いたくなるほどの豪華さでした。
荷物を置いた後、温泉街の散策に出かけました。正子が「あら、これ素敵ね」と小さな陶器の飾り物を手に取り、微笑む姿に私は少し驚きました。最近では見られなかった柔らかな表情だったからです。
街を歩いていると、昔の新婚旅行を思い出しました。あの頃は、何をしても楽しかった。正子と並んで歩くだけで幸せだった。そんな懐かしい記憶が頭をよぎります。
夕食の時間になり、旅館の食事処で出された料理はどれも絶品でした。彩り豊かな前菜に始まり、出汁が染みた茶碗蒸し、脂が乗った新鮮な刺身。それを目にした正子は「綺麗ね、美味しそう」と目を輝かせながら箸を伸ばしていました。
普段はあまりしゃべらない正子が、この日はよく笑い、よく話す。料理の感想を言い合いながら、私は久しぶりに彼女の笑顔を見た気がしました。「こうして二人でゆっくりするのも悪くないな」と、心の中で思わずつぶやきました。
食事を終えた後、私は「じゃあ風呂でも行くか」と声をかけました。てっきり大浴場に行くのかと思っていたのですが、正子は「部屋のお風呂に入りましょうよ」と、少し恥ずかしそうに言いました。その言葉に私は少し戸惑いました。彼女が自分からそんなことを言うなんて、初めてのことだったからです。
実は昔、若い頃に一緒に風呂に入ろうとして怒られたことがありました。それ以来、一緒に風呂に入るなんて考えたこともありませんでした。でも、正子の方から誘ってくれるなんて。戸惑いつつも、「じゃあ入るか」と応じました。
「本当に一緒に入るのか?」と確認するように尋ねると、正子は「いいじゃない、こんな機会、もうないかもしれないんだから」と、小さな声で答えました。その表情が妙に可愛らしく見えて、私は断る理由も見つからず、恥ずかしいながらも頷きました。
一緒に露天風呂に入るなんて、想像するだけで気恥ずかしいものでした。湯船に浸かりながら、私はどこを見ていいのか分からず、つい目線をそらしてしまいます。正子も同じ気持ちだったのか、二人の間にはしばらく沈黙が続きました。
そんな静寂を破ったのは、正子の小さな声でした。「長い間、働いてくれてありがとう」。その一言は、私の心に深く響きました。彼女が私に感謝の気持ちを伝えてくれるなんて、思いも寄らないことでした。
「お前にそんなこと言われるなんてな」と、私は思わず笑いながら答えましたが、胸の奥では込み上げてくるものがあり、言葉に詰まりました。涙が出てしまっているのを悟られないように、私は正子の手をそっと握り締め、彼女を引き寄せました。
普段なら「何してるのよ」と怒られそうなところですが、このときの正子は違いました。彼女は私を見つめ、恥ずかしそうに微笑んだだけでした。その微笑みが、私にはたまらなく愛おしく思えました。
私は思わず正子の頬に触れ、軽くキスをしました。驚くかと思った彼女は、むしろ目を閉じて受け入れてくれました。その瞬間、私の中で何かが解き放たれるような感覚がありました。
その後、私たちは湯船の中で寄り添い合い、これまでの冷え切った関係が一夜にして溶けていくような気がしました。こんな場所でこんな歳になってこんなことするなんて思いもしませんでした。もちろん若い頃のような情熱とはまた違うけれど、温かくて、優しくて、心に染み渡るような感覚でした。
その後、布団に戻った私たちは、久しぶりにお互いの心の内を語り合いました。私は「これまで家族のためにと必死で働いてきたけど、お前に寂しい思いをさせていたんだな」と反省の言葉を口にしました。正子も「あなたが忙しいのは分かっていたけれど、それでもやっぱり寂しかったの」と、ぽつりぽつりと話してくれました。
これまで伝えられなかった感謝や思いが、この夜に初めてお互いの心に届いた気がしました。正子の手を握りながら、「これからはもっと大事にするよ」と約束しました。彼女は少し涙ぐみながら「私ももっと素直にならないとね」と笑いました。
翌朝、少し遅めに起きて朝食に向かうと、仲居さんに「あまり眠れなかったですか?」と尋ねられました。そこまで疲れた顔をしていたのでしょうか。私は苦笑いしながら「そんなことないですよ」と答えましたが、正子が横で恥ずかしそうに微笑んでいるのを見て、言葉にはできない幸せを感じました。
その後も観光を楽しみながら、私たちの間には以前とは違う穏やかで優しい空気が流れていました。正子がそっと私の手を握ってきたとき、私は何も言わず、その手をぎゅっと握り返しました。
帰宅後、私たちの生活には小さな変化が訪れました。正子が以前よりも私に笑顔を向けてくれるようになり、私も彼女との時間を優先するようにしました。この旅行をきっかけに、私たちはまた新しい夫婦関係を築くことができたのです。
これからも正子との時間を大切にしながら、二人で新しい日々を歩んでいこうと、私は改めて心に誓いました。