「え? 和男さんが一緒に住むの?」
夫が食事中に何気なく言ったその一言に、私は箸を持つ手が止まってしまいました。手元に目を落としながら、心臓がドクドクと跳ねるのを感じました。
「あぁ。この前定年したし、一人暮らしもそろそろ限界だろ。家族なんだから支え合うのは当たり前だろ?」
夫は当たり前のように話していましたが、私には相談もなく決めるの?「和男さんが一緒に暮らす…?」私にはその言葉が耳鳴りのように響いていました。 そのイメージが頭に浮かんでくると、胸の奥に押し込めていた記憶が蘇ってきました。あの30年前のことが……。
「でも……和男さん、今の暮らしが気楽だって前に言ってたじゃない?」
どうにか冷静を装って私はそう言いました。声はわずかに震えていたかもしれません。
「表面上はそりゃそう言うだろ。でも、いざ病気になったらどうする? 独り身で倒れたりでもしたら……それこそ大変だろ?」
夫はそう言うと、お茶を口に運びました。その何気ない仕草を見ながら、私は自分の内側に溢れそうになるものを押し込めました。
夫は、義弟を家に招き入れる理由を「弟だから」と言います。それは確かに正しいとも思います。でも、私にとって和男さんは単なる家族の話ではありません。私にとって、和男さんは……。
それは30年前くらいのことです。夫が単身赴任をしていたとき、和男さんと私は誰にも言えない過ちを犯していました。
夫が単身赴任していた当時、私は毎日、幼い子どもたちの世話と家事に追われていました。頼れる実家も遠く、夫が家に帰ってくるのは月に1回あるかないか。それまでは「一人でも頑張れる」と思っていた私でしたが、そんな状況が1年も続くうちに、心が少しずつ摩耗していくのを感じました。誰にも頼れない、孤独な毎日。誰かと話したくても、泣きたくても、その気持ちを押し込めて笑うしかありませんでした。今の時代のように携帯電話もありません。本当にあの時は孤独感で押しつぶされそうでした。
そんなとき、夫の弟の和男さんがたまに子どもたちの面倒を見に来てくれたんです。子供たちもおじさんに懐いていたし、私にとっても和男さんは義弟としてだけでなく、すごく大切な話し相手になってくれていました。
「奈美さん、無理しすぎないでくださいよ。頼れる人がいないなら、僕を頼ってください」
そう言ってくれる彼の優しい言葉が、どれだけ私の心を救ってくれたか‥‥。正直あの頃の私は、もう自分をコントロールする余裕なんてありませんでした。
最初は、和男さんのその言葉に甘えているだけでした。でも、いつしか私たちは踏み込んではいけない一線を越えてしまっていました。和夫さんも私もお互いに孤独だった。それはただの言い訳にしか過ぎません。でも、あのときの私は、夫がいない寂しさを埋めてくれる和男さんのことばかり考えていて、未来のことなんて正直考えられなかったんです。
そんな秘密の関係状態になった数年後にようやく、夫の単身赴任が終わることになりまた。私と和男さんは二人で話し合い、「これっきりにしよう」と決めました。二度とそんなことはしない。そう誓って、私たちは関係を清算しました。それ以来、私はただの「義姉」、和男さんはただの「義弟」として接してきました。子どもたちにとっての叔父さんとして、そして夫にとっての弟として。
それなのに…こんな歳になって彼が我が家で一緒に暮らすことになるなんて。
数日後、和男さんが引っ越しをしてきました。玄関に荷物を運び込む彼の姿を見た瞬間、胸の奥で何かがじわりと疼くのを感じました。夫と和男さんが並んでビールを飲みながら談笑しているのを眺めていると、「私だけがこんな気持ちを抱えているのかな」と思えてなりませんでした。
和男さんは昔と相変わらず穏やかで、私にも気さくに話しかけてきます。
「奈美さん、急にお世話になることになってしまって、本当に申し訳ないです」
彼はそう言いながら頭を下げました。私は、「いえ、大丈夫ですよ」と笑顔を作りましたが、私の顔は引きつっていたかもしれません。そして胸のざわめきは消えることはありませんでした。
夕食後、食器を片付けているときに、ふと和男さんと二人きりになりました。和男さんがそっと台所に入ってきて、少し困ったような顔をしながら言いました。
「奈美さん、本当に無理しないでくださいね。嫌なら僕は出ていきますから」
その声。その表情。その優しさ……30年前と何も変わらない和男さんの姿が、私の心を揺さぶります。彼が優しい人だということはわかっています。でも、その優しさが私を苦しめることも知っています。
ある日、夫が友達との遊びで出かけていて、和男さんと二人きりだったときのことです。
私が料理をしている時、少し手を切ってしまったのです。
「イタッ」のその声にすぐに飛んできてくれて絆創膏を貼ってくれたのです。
相手をすぐに思いやるその姿を見ていると、胸がじんわりと温かくなるのを感じました。彼の人間としての魅力に、ただただ圧倒されてしまったんです。
「ああ、この人は昔から本当に優しい人なんだな」と思いました。同時に、昔の気持ちがお腹の底から湧き上がってくるのを感じました。それと同時に、「だめ、だめよ」と何度も自分に言い聞かせました。私の中にある理性が、彼の優しさに溶かされていくのを感じたからです。
一緒に暮らしだしてまた1カ月も経っていません。家政婦のように扱う夫、私を一人の女性として扱ってくれる和男さん。抗おうとしても、私には抗える自信がありません。今はまだ何とか踏みとどまっていますが、私は、どうしてこんなにも弱いのでしょうか……。
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