私の名前は渡辺裕子57歳です。
夫は先日交通事故で亡くなりました。私より12歳年上だったので69歳で亡くなったのです。
病気などであればある程度覚悟はできたかもしれません。だけど、交通事故で突然亡くなるとなると、どこか心が追い付かない部分があるのです。
実は夫が冗談を言っていてそのうちひょっこりと帰ってくるんじゃないか、と葬儀が終わった後でさえ思うようになっています。現実を見ていないわけでも、受け入れられないわけでもありません。
夫が亡くなったことは分かっているけど、突然過ぎてふとした時にそんな錯覚を起こしてしまいます。
それに、私は夫に対して秘密を抱えていました。
いつか言わなければいけないと分かっていながらも、後回しにしていたせいか夫の方が先に亡くなってしまったのです。
私が抱えている罪、それは若い頃に不倫をしたということです。夫は真面目が服を着ているかのような性格で、自分にも他人にも厳しい人でした。
他人に厳しく自分に甘ければ憎むこともできたでしょう。だけど、自分にも厳しいからこそ若い頃の私は余計に息苦しさを感じていました。
そんな時に出会ったのが不倫相手の小林という男性です。
今にして思えば、不倫をしてしまったけどあの男を心から愛していたわけではありません。
きっと窮屈な生活の中から抜け出させてくれるのであれば誰でも良かったのだと思います。その証拠に私と不倫相手が別れることになっても悲しいとさえ思いませんでした。
例えるなら、遊びの時間が終わった、という感じです。不倫相手と別れたことで私も目が覚めたのかもしれません。夫はお給料も高く、私は比較的ほしいものは我慢せずに買うことが許されていました。
不倫は火遊びのような刺激は与えてくれても、一時的なものでしかないのだと。長い人生のことを考えるなら、不倫を選ぶよりも夫と一緒にいた方が安定した生活が過ごせるのだということに気づいたのです。
きっと私の本性を知れば性悪女とののしる人もいるでしょう。
実際に私が何もしていなくて、知人や友人が同じことをしていたら軽蔑しています。恐らく連絡すら取りあわなくなるでしょう。私がしていたことはそれほどのことなのです。
夫を裏切り、その事実を隠し続けながら安定した生活を享受していた。言葉にすれば本当に最低なことです。
「あの人は、夫は私をどんな風に思っていたのでしょうね」
夫の前では汚い自分が出ないようにしていたつもりです。
そのため、夫が私の本性を知ることはなかったでしょう。きっと良い妻とは思っていなくても、軽蔑するような不倫をしていた妻とまでは思っていないはずです。だからこそ、余計に心が苦しくなってしまうのだと思います。
そして、自分を最低だと思ってしまうのは「これで夫に不倫の事実がばれることはない」と安堵している部分があるからです。言わなければいけないと思っていたのも事実ですが、夫が亡くなったことで絶対にばれることがないと思ったのも事実です。
夫には不誠実なことをしてしまった分、息子や孫には誠実でいようと決めました。
「母さん、ちょっといいかな」
そんなことを考えていた時でした。息子が突然訪ねてきたのは。いつもだったら私の予定を聞いてくるので、突然訪ねてきたことにびっくりしてしまいました。
しかも、いつもはお嫁さんか孫を連れてくるのにひとりです。何かあったのかと身構えていると、息子から驚きの言葉を言われてしまいました。
「俺は今日を持って母さんとは絶縁するつもりだから」
予想もしていなかった言葉に私は言葉を失いました。
はっきり言って息子やお嫁さん、孫との関係は良好だったはずです。どちらかと言えば気難しい夫の方を息子たちは苦手にしていたと記憶しています。
「父さんの葬儀が終わってある程度落ち着いた頃だと思うから言わせてもらうよ。俺は母さんを許せない。だから間に入ってくれていた父さんがいなくなったから絶縁する」
「ちょ、ちょっと待って?どうして?どうして私が絶縁されないといけないの?」
「分からない?まぁ、これまでは父さんが庇っていたからね」
そして息子は語りました。
私が不倫をしていたことを知っている、と。
あの頃の私は馬鹿で子供のことを放って不倫相手と遊ぶ日々が続いていました。私の行いは幼かった息子の心を傷つけ、そして今もその憎しみの炎は消えていないのだと言います。
「母さんは父さんにばれていないつもりだっただろうけど、父さんは最初から知っていたよ。
だから俺が母さんのことを嫌いだと言っても俺がいる間は我慢してほしいと言っていたんだ」
息子からの言葉に私は驚きを隠せませんでした。夫には上手く隠し通せていたと思ったのに、とっくの昔に知られていたのです。
それだけではなく、嫌悪する息子を止めてくれていました。私は勝手に息子たちは夫のことが苦手なのだろうと思っていましたが、それは間違いだったのです。
息子は夫に言われて憎しみの炎を一度は収めたけど、それはずっと心の中でくすぶっていたのでしょう。テレビか何かで見たことがあります。
子供は幼い頃に感じた感情は決して消えないのだということを。だから幼少期に犬に噛まれた子供が大人になっても犬を苦手に感じ続けるのだそうです。中には克服する人もいますが、それでも克服のために時間がかかったり、苦手な意識が再発したりするのだそうです。
「父さんがいる間は我慢するって約束をしていた。恐らく父さんは自分が生きている間に俺と母さんの確執を何とかしようと思っていたんだろうけどね。だけど、もう父さんはいない。俺が我慢する理由もないんだ」
「ま、待って!絶縁するなんて、もう二度とあなたたちには会えないの?」
「当たり前だよ。これは兄弟全員の意志で俺が代表して言いにきただけだから」
つまり、子供たちはみんな私のことを見捨てたということなのでしょう。まさかこんなことになるなんて思わず、私は考えを上手くまとめることさえできません。
「母さんはこれまで狡猾に生きてきただろ?
不倫をして父さんを裏切って、だけど父さんの稼いだ金で生きてきた。
都合が良すぎだよ。これまで都合よく生きてきたツケを支払う時が来たんだって思ってくれ」
それだけ言って息子は家を出ていきました。
慌てて子供たちに電話をしましたが着信拒否にされているのか、誰も電話に出てくれる人はいません。
子供たちのスマートフォンだけではなく家の電話にもかけてみたのですが結果は同じでした。
これまで都合よく生きてきたツケを支払う時がきた。
息子が言った言葉が心に刺さります。幸いにも夫が残してくれたお金があるので生活に困ることはないでしょう。
だからこそ子供たちは私を切り捨てるという選択をしたのだと思います。
金銭的な余裕があるから、自分で何とかできるだろうと思っているのでしょうね。
都合がいい人生、確かにその通りです。私は自分が反省すればいいと思って、不倫をやめて家庭に戻ったつもりでした。
だけど、夫も子供たちも心から私を受け入れていなかったのです。
夫に関しては子供のことを考えて私を受け入れる選択をしたのでしょう。ただ子供たちは夫に言われていたから表面的に家族を演じていただけで、ストッパーになっていた夫がいなくなれば簡単に切り捨てられるほど私への想いはなかったのです。
これからどうしようと考えないわけではありません。
夫を亡くし、子供たちから捨てられ、私の老後は寂しいものになることが確定しています。
だけどこれは若い時に家族を傷つけた報いなのだと思います。だから、せめて最後くらいは悪く言われないようにきちんとしたいです。すぐに子供たちが会ってくれるわけではないでしょうが、いつかきちんと心からの謝罪をしたいと思います。