私の名前は池田康夫、今年で60歳になる会社員です。8年前に妻の久美子を事故で亡くしてから、ずっと一人で暮らしてきました。仕事中は気もまぎれますが、夜家にいると寂しいんです。妻を失ったあの日から、私の人生はすっかり色を失ったようでした。妻が台所に立つ姿、寝室に響く穏やかな寝息。そんな当たり前だった日々が、突然奪われてしまったんです。残された私は、心にぽっかり空いた穴を抱えながら、ただ時間だけが過ぎるのを見ていました。
長年勤めてきた会社では、仲間内で私の定年祝いの準備を進めてくれているようですが、正直、私の心は浮かびません。仕事一筋だった自分が、これから一人で何をして生きていけばいいのか。その答えが見つからないまま、いつも通りの毎日をただ繰り返しています。
妻が亡くなってからというもの、私の日課は変わりません。仕事が終われば毎日仏壇の前に座り、妻の遺影を前にして、ちびちびと晩酌をするだけ。そんな私に写真の中の妻は、呆れながらも相変わらずの微笑みで私を見守ってくれている気がします。
「俺ももうすぐ定年だってさ。これから一人で何をしたらいいんだろうな……」
そう話しかけるたびに、胸が締め付けられるような感覚に襲われます。俺の寿命はあと何年あるんだろう。そして、あと何年この孤独と付き合わないといけないんだろう。そんなことばかりを考える日々でした。
そんなある日、息子夫婦が久しぶりに孫を連れて遊びに来てくれました。久美子がいれば孫をもっと可愛がってくれるだろうし、きっとあれこれとおもてなしをして賑やかになっただろうと思うのですが、私一人では、なんとなく間が持たず、いつもお茶を出して話が途切れるとすぐ帰られてしまいます。でも、今回だけは少し違いました。息子が突然、一枚のチラシを差し出してきたんです。
「親父、これに参加してみたら?申し込み、もう勝手にしておいたから」
手渡されたチラシには、「初心者向けの料理教室」と書いてありました。どうせ私は自分で申し込みしないだろうと思って、既に勝手に申し込みをしたと言うんです。正直、最初は渋々という気持ちでした。でも、ふと久美子と一緒に台所に立っていた日のことを思い出したんです。特別料理が好きだったわけではないのですが、彼女の横に立って野菜を切ったり鍋をかき混ぜたり。あの時間が、実はとても楽しかったことを思い出しました。あの頃の気持ちをどこか懐かしく感じて、私は参加してみることにしました。
初めて料理教室に行く前日は緊張であまり眠れないほどでした。教室に到着すると、ほのかに醤油の香りが漂い、和やかな雰囲気に包まれていました。同年代の参加者も多く、少しほっとした気持ちで受付を済ませたそのとき、私を迎えてくれたのは、一人の女性でした。
「こんにちは、今日はよろしくお願いします」
そう声をかけられた瞬間、私は思わず立ちすくみました。目の前にいたのは、ショートカットの素敵な女性で、その優しい目元、声、雰囲気、柔らかな笑顔が、妻の久美子にそっくりだったんです。彼女の名前は真理子さん。髪型こそ違いますが、彼女の雰囲気にはどこか懐かしい温かみがありました。どうにか挨拶を返したものの、心の中はざわついて仕方がありませんでした。
その日の教室では筑前煮を作りました。久美子が得意だった料理です。私もよく台所で手伝っていた記憶が蘇りました。材料を切っていると、真理子さんが「少し小さめに切ると味がしみやすいですよ」と教えてくれました。その言葉を聞いたとき、久美子も同じことを言っていたことを思い出し、胸が熱くなりました。
「池田さんは手際がいいですね。普段から料理をされているんですか?」
「いや、そんなことはないんですが……妻とよく一緒に料理をしていたので」
そう答えると、真理子さんは柔らかく頷いてくれました。その仕草さえも久美子を思わせ、私は目をそらすことができませんでした。
教室が終わって家に帰り、いつものように仏壇の前に座って、妻に話しかけました。
「久美子、今日、君の得意だった筑前煮を作ったよ。それと、君にそっくりな人に会ったんだ。不思議だよな、なんだか君に会えたような気持ちになったよ」
次の予定が待ち遠しくなるなんていうことは、久しぶりの感覚でした。来週は餃子作りの予定です。
翌週の教室で、案の定皮を包むのに悪戦苦闘していると、自然と笑いがこみ上げてきました。妻と一緒に餃子を作ったとき、同じように失敗して笑いあったことを思い出したからです。真理子さんも手を添えて教えてくれ、「ここを少し押さえると綺麗に包めますよ」と優しく微笑んでくれました。その笑顔に、私の胸は不思議と高鳴りました。
そしてある日、教室の片づけ中に思い切って真理子さんに声をかけました。
「真理子さん、もしよかったら、この後お茶でもどうですか?」
いきなりのお誘いに驚いた表情を浮かべた後、彼女は少し照れくさそうに微笑みながら頷いてくれました。喫茶店で話しているうちに、彼女もまた夫を亡くして一人で新しい生活を始めたばかりだと知りました。
「最初は何をしても虚しい気持ちばかりでした。でも、新しいことを始める中で、少しずつ前を向けるようになったんです」
彼女の言葉に、私は静かに頷きました。
「僕も同じです。妻を失ってから、仕事だけが支えでした。でも、仕事も定年が迫っていて、これからどうしようかと思っていました。こうして料理教室に通うようになって、何かが変わり始めた気がします」
そう言うと真理子さんが私に向けてくれる微笑みを見て、もう少し人生頑張って生きようと妻が亡くなってから初めて生きる活力が湧いてきました。
そしてその日の夜、いつものようにまた仏壇の前で妻に話しかけました。
私の勘違いかも知れませんが、その日の妻はなんとなく、良かったねと言っているように感じました。
真理子さんに出会って、私の止まっていた時間が少しずつ動き出した気がしています。それでも家に帰るとまだまだ一人で寂しいです。それでも妻との思い出を大切にしながら、これからは新しい一歩を踏み出してみようと思います。それが、きっと妻も望んでいることだと思うのです。