私は68歳の浩介と言います。つい先日、勤めていた会社を定年退職しました。40年以上働き続けたのだから、もう少しのんびりしてもいいだろうと思いつつ、毎日が何となく落ち着かないものです。
退職後の生活は、庭の手入れをしたり、近所の図書館で本を借りたり、たまに散歩に出かけたりと、これといって特別なことはしていません。それでも、妻の芳乃と二人で過ごす日々はそれなりに平穏で、それが当たり前だと思っていました。
そんなある日のこと。結婚40周年を迎えた記念日でした。本来ならば特別な日になるはずが、私はくだらないことで芳乃と口論になってしまいました。
「もうちょっと家のことを手伝ってくれたらどうなの?」
「俺だって退職したばかりで慣れないんだよ」
どちらも譲らず、最後にはお互いに黙り込んでしまいました。普段なら軽く流せば済む話なのに、どうしてかその日は引くに引けなくなり、私は思わず「じゃあ、いっそ離婚したらどうだ?」と言ってしまったのです。
芳乃も驚いた表情を見せながらも、すぐに「そうね。そうした方がいいかもしれないわね」と応じました。その場ではそれ以上の話はしませんでしたが、翌日になると芳乃は本気で離婚の準備を進め始めていました。
「本当に離婚するつもりか?」と聞くと、芳乃は冷静な顔で「浩介さんがそう言い出したんじゃない」と返してきます。その態度に私は少し焦りを感じながらも、素直に謝ることができませんでした。
謝れば済む話だと頭では分かっていました。でも、男のプライドなのか、なかなかその一言が出てこないのです。
そんな時、娘の真奈から電話がかかってきました。
「お父さん、ちょっと時間ある?久しぶりに食事でもしない?」
私は少し迷いましたが、家の中の重苦しい空気から逃げたかったこともあり、「ああ、いいぞ」と承諾しました。
当日、駅前のレストランで真奈と落ち合いました。私が到着すると、真奈はもう席についており、にこやかに手を振っていました。
「お父さん、最近どう?」と、久しぶりに顔を合わせた真奈は気遣うように話しかけてきました。私は退職後の生活や、芳乃との些細な口論についてぼんやりと話しました。
すると、真奈は少し眉をひそめながらこう言いました。
「お母さんね、この間の記念日のためにいろいろ準備してたのよ」
「準備?」と私は聞き返しました。
「そう。お父さんが喜ぶだろうって、昔の写真をアルバムにまとめたり、お料理も特別なものを作ろうとしてたみたい。それなのに、あんな風に言われたからショックだったんじゃないかな」
私はその話を聞いて、胸がぎゅっと締め付けられるような思いがしました。あの時の芳乃の表情が頭をよぎり、後悔の念が押し寄せてきました。
さらに真奈は続けました。
「お母さんね、お父さんのこといつも感謝してるって言ってたの。口には出さないけど、いつもお父さんが頑張ってくれたから私たちが幸せに暮らせたって」
その言葉を聞いて、私は何とも言えない気持ちになりました。芳乃がそんな風に思ってくれていたなんて、全く気付いていなかったのです。
「お父さん、ちゃんとお母さんと話してきなよ」と真奈に言われ、私は重い腰を上げることを決めました。
帰り道、家に向かう足取りは妙に重く、どうやって謝ればいいのか考えあぐねていました。それでも、謝らなければならないという思いだけは確かでした。
玄関のドアを開けると、芳乃がキッチンで何かを片付けている音が聞こえました。
「芳乃、ちょっと話があるんだ」
私の言葉に振り返った芳乃の顔には、ほんのわずかですが険しい表情が浮かんでいました。それでも何も言わず、タオルで手を拭きながら私の方に歩み寄ってきました。
「何の話?」
その問いに、私は少しだけ躊躇しました。謝るべきだという思いはあるのに、いざ言葉にするとなると妙に喉が渇き、心臓が早鐘のように鳴ります。それでも、ここで逃げるわけにはいきません。娘の真奈に背中を押された以上、これ以上自分の愚かさを見せたくありませんでした。
「この間のことだが、悪かった。本当に申し訳なかった」
頭を下げてそう言うと、芳乃は一瞬驚いたような顔をしていました。けれど、それも束の間、ふっとため息をつきながら椅子に腰掛けました。
「何が悪かったのか、ちゃんと言えるの?」
その問いに、私は一瞬たじろぎましたが、心を落ち着けて話を続けました。
「お前が結婚記念日のためにいろいろ準備をしてくれていたことも、真奈から聞いた。俺はそれを台無しにしたんだと思う。本当にごめん」
芳乃は黙ったまま、私の顔をじっと見つめていました。その視線に耐えきれず、私は思わず目をそらしてしまいそうになります。それでも、どうにか言葉を繋ぎました。
「俺が感謝を伝えるべきだったのに、くだらないことで言い争って、挙げ句に離婚だなんて…本当に馬鹿なことを言ったと思ってる」
その言葉を聞いた芳乃は、小さく首を振りながら微笑みました。どこか呆れたような、それでいて安心したような表情でした。
「浩介さんが謝るなんて、珍しいわね。最初からそうしてくれたらよかったのに」
私はその言葉に思わず笑ってしまいました。そう、最初から素直になっていればこんなにも苦しい思いをする必要はなかったのです。
「本当にそうだな。俺も年を取ったからか、頭が固くなってきたのかもしれない」
「年を取ったのはお互い様よ。私だって、すぐに怒ってしまったのは悪かったわ」
芳乃のその言葉に、ようやく肩の力が抜けました。これまでの言い争いが、徐々に過去のこととして薄れていくのを感じます。
「そうだ、これを見て欲しいの」
芳乃はそう言いながら、一冊のアルバムを持ってきました。それは真奈が言っていた結婚記念日のために用意されたものでした。私たちの若かりし頃の写真が、丁寧に並べられていました。
「これ、全部お前が作ったのか?」
「そうよ。真奈にも手伝ってもらったけどね。40年間の思い出がいっぱいで、選ぶのが大変だったわ」
アルバムをめくりながら、私は次第に懐かしさに胸が熱くなりました。最初の新婚旅行の写真から、真奈が生まれた日の写真、家族で出かけた海辺での一枚まで、どれも宝物のように感じました。
「こんなにたくさんの写真を見てると、俺たちもいろいろあったな」
「そうね。楽しいことも、辛いこともあったけれど…こうして振り返ると、全部いい思い出に思えるわ」
芳乃のその言葉に、私は深く頷きました。言い争いも、仲直りも、すべてが私たちの歴史の一部なのだと改めて実感しました。
「なあ、芳乃」
「何?」
「これからもさ、こうして喧嘩したり仲直りしたりしながら、二人で過ごしていこう。そんな関係が一番いい気がするんだ」
私のその言葉に、芳乃は少し照れくさそうに微笑みました。
「そうね。それが私たちらしいかもしれないわね」
こうして、私たちは再び新たな一歩を踏み出すことになりました。40年という月日を共に過ごしてきた夫婦の絆は、簡単に壊れるものではありません。これからもきっと言い争いをすることはあるでしょう。それでも、その度にこうして仲直りをして、また次の思い出を作っていける。そんな未来を想像しながら、私は芳乃と笑い合いました。