僕の名前は渡瀬良治68歳です。妻は渡瀬雪乃64歳。僕たちは子供に恵まれず、夫婦ふたりで穏やかな老後を過ごそうと若い時から決めていました。だけど、その願いすら叶わないことが分かってしまったのです。なぜなら、雪乃は厄介な病気を患ってしまい、幸せな老後を過ごすほどの余命が残されていないと医者から言われてしまったからです。年齢的に友人や親戚がこの世を去っていくのも珍しくありませんでしたが、雪乃が余命宣告をされるということは予想もしていませんでした。誰だってずっと健康なわけではないのに、僕は僕の人生の中で雪乃が先に逝ってしまうということを考えたことがありませんでした。
「あなた、そんなに気落ちした顔ばかり見せないで?」
雪乃は余命宣告をされる前から入退院を繰り返していましたが、今はもう退院の目処すらたっていません。雪乃は穏やかに笑っていますが、先生は相当な痛みがあるはずだと言っていました。だからきっと今も痛みやつらさを我慢して微笑んでいるのでしょう。それが分かっているから、余計に僕は涙が出そうになってしまうのです。
「ほら、この病室の窓から桜が見えるの」
雪乃が見せた方に視線を向けると、ハラハラと桜が舞っていました。もうすぐ桜も完全に散ってしまうことでしょう。桜が舞うのを雪乃が寂しそうに見ていると胸が締め付けられます。
「そういえば、まだ若い頃にあなたとふたりでお花見をしましたね」
まだ子供を諦めていなかった頃、子供ができずに悩んでいる雪乃を連れて夜の散歩をしました。冷蔵庫から缶ビールふたつ持って、近くの公園で夜桜で花見をした覚えがあります。あの頃はあまりお金にも余裕がなくて居酒屋なんて行くことができませんでした。
「家から缶ビールを持っていって、ぬるくなった頃に乾杯したんだったな」
「私はあの時のお花見、すごく楽しかったんですよ。夜に出かけることってあまりなかったから、柄にもなくドキドキしていたのを覚えているわ」
ドキドキしていたことも事実だろうけど、子供ができなくてつらかった時期です。雪乃にとってはあまり思い出したくない時期だったはずなのだが、そんなことは一言も口にしませんでした。
「……あまり思い出したくない頃だろう」
「ふふ、そうですね。子供ができなくて一番悩んだ時期でしたから。だけど、あなたはそんな私を気遣って夜のお花見に連れ出してくれたんでしょう?」
「まぁ、ただもう少し気の利いた場所に連れていければ良かったんだけど」
「私はあの時のお花見ほどきれいな桜は今まで見たことがありませんよ」
雪乃は外の桜を見ながら遠くを懐かしむような声で言ってきました。今であれば有名な旅館に宿泊することもできるのに、雪乃にとってはあの時の夜桜が一番いいのだと言います。その理由は驚くほどあっけないものでした。
「だって、あなたと寄り添いながらお花見ができたんですから。あれから何度もお花見はしましたけど、忙しかったりしてゆっくり楽しむことなんてできなかったでしょう?」
雪乃の言葉に振り返ってみると、確かにそうだったかもしれない。会社の後輩やお互いの友人を交えた花見は何度もしたけど、ふたりきりでゆっくり花見ができたのはあの夜だけだったかもしれません。僕としては寂しくないように賑やかになるよう人を呼んだりしていたのですが、もしかしたら雪乃はふたりきりでゆっくり花見を楽しみたかったのではないでしょうか。ただ、今さらそんなことに気づいてもやり直すことはできないので後悔しかありません。
「勘違いしないでね?賑やかなお花見も楽しかったんだから。ただ、年を重ねれば重ねるほど、ふたりきりの時間というものは少なくなっていったなぁって思っただけ。その点を考えれば、こうやってふたりきりでいられる病室というのも悪くないかもしれないわね」
雪乃はいたずらっぽく笑いながら言うが、その冗談に付き合えるほど心に余裕はありませんでした。俺の気持ちが分かったのか「からかってごめんなさいね」とまるで母親が子供にするように頭を撫でてきたのです。
「私はあなたより先に逝ってしまうけど、それは悲しいことじゃない。この年齢までずぅっとあなたと一緒にいられたことが奇跡のようなものなんだから」
テレビや映画で似たようなセリフを聞いた時は、特に何も思いませんでした。だけど、その言葉を雪乃から聞いたとなると話は違います。悲しくないわけがない。何十年も一緒にいて、悲しいことも苦しいことも一緒に乗り越えてきた相手なんですから。
「どうして雪乃は自分の最後を受け入れられるんだ?僕はどう頑張っても、きみがいなくなることを受け入れることなんてできない。僕はひとりぼっちになってしまう」
僕も雪乃も身内という身内はいません。お互いに両親は早くに亡くしてしまったし、兄弟もいないから天涯孤独と言っても過言ではないほどです。雪乃がいなくなったら、家族と呼べる人がいなくなるから余計に僕はひとりになることが怖いのかもしれません。
「笑ってもいいよ。この年齢になっても死が怖い。自分の死じゃなくて、きみがいなくなることが怖いんだ。もう、こんなに爺さんなのにおかしいね」
震える俺の手を握りしめながら「そういうのは年齢じゃないと思うよ」と言ってきました。
「逆の立場だったら、私はもっと泣きわめいていると思うもの。自分は生きているのに、あなたがいないなんて想像もしたくないもの。だから、私はすごく自分勝手なことを言ってるの。自分では悲しまないなんてできないのに、あなたには悲しむなって言ってるんだから」
そこで初めて雪乃の手が震えていることに気づきました。
「私がいなくなってもあなたが悲しまないって分かっていないと、心配で心配でどうにかなりそうなのよ。何十年もあなたと夫婦でいたから、あなたが寂しがりで泣き虫だって誰よりも知っているし……」
だからね、と雪乃は言いながら言葉を続けました。
「私が安心してあなたの元を去れるようにしてほしいの。これはあなたのためじゃなくて、私が安心できるためのこと。だからすごく自分勝手なことだって分かってる。ね、あなたは私を恨んでもいい。ウソでもいいから悲しまないって、私に言って?」
僕は馬鹿でした。気丈な雪乃だから僕を心配させないようにしているというところまでは分かっていたけど、ここまで不安を抱えていたなんて想像もしていなかったんです。だけど、少し考えれば分かることです。誰だって死を目前にして気丈にふるまえるはずがありません。それこそ、そんなことができるのはテレビや映画の中の登場人物だけでしょう。普通であれば死んでしまうのは怖いし、大好きな人に忘れられるんじゃないかという不安もあるはずです。
僕は自分の不安ばかりを前面に出していて、雪乃の不安に寄り添うことができませんでした。一番不安で怖いのは雪乃自身だというのに。
「雪乃、毎日散歩しよう」
「え?」
「あの時の公園まではいけないけど、車いすを押すから病院の中庭までいこう。少し散り始めているけど、桜吹雪が幻想的できれいかもしれないよ」
僕は雪乃がいなくなったらどうしようという気持ちばかりでした。まだ雪乃は頑張ってくれているというのに。だからこれからは、雪乃が安心できるように少しずつ元気を取り戻そうと思います。悲しんだり不安になったりするのは雪乃の前じゃない。ひとりの時にするべきだったんです。だから、これからはそういう不安な場面を見せないようにしたいと思います。雪乃がいなくなることを考えるとつらくて仕方ないですけど、一番つらいのは本人だということを忘れないよう、雪乃との最後の思い出を作っていきたいです。