
私の名前は大川拓郎、61歳です。会社勤めを終えた今は、のんびりと畑仕事をしながら静かな日々を送っています。
妻の弥生とは結婚して35年。二人の息子も独立し、夫婦二人きりの生活にはすっかり慣れていました。そんな平穏な日々を一変させたのは、あの震災でした。その日、私はいつものように畑で作業をしていました。揺れ自体は何とか問題ありませんでしたが、弥生が慌てた様子で家から飛び出してきて、「大変なことになってる」と息を切らして言いました。急いで家に戻り、テレビをつけると、信じられない光景が映し出されていました。町が、車が、家が、すべて波に飲み込まれていく――その町は、妹夫婦が住んでいる場所でした。血の気が引くのを感じながら、すぐに電話をかけました。しかし、何度かけても繋がりません。
「大丈夫、きっとどこかで避難してるわよ」弥生がそう言ってくれましたが、不安は募るばかりでした。
それから一週間、私は生きた心地がしませんでした。朝起きても、食事をしても、何をしていても、妹夫婦のことが頭から離れません。ようやく妹から連絡が来たのは、震災から4日が経った頃でした。
「お兄ちゃん……」電話の向こうから聞こえてきた妹の声は、かすれ、震えていました。
「生きてたか……よかった……!」それだけ言った瞬間、今まで押し殺していた感情が一気にあふれました。涙が出そうになるのをこらえながら、妹の話を聞きました。妹夫婦は津波から逃げ、避難所で過ごしていました。家は跡形もなく流され、仕事も失い、着の身着のままの状態でした。私はすぐに「こっちに来い」と言いましたが、妹は「迷惑をかけるからいい」と頑なに断りました。
「何言ってるの。遠慮しないでおいで」弥生がとなりでそう言うと、妹は少し沈黙した後、「……ありがとう」と小さく呟きました。
それから3日後、妹夫婦が私たちの家にやってきました。
「お兄ちゃん、ありがとう……」玄関先で妹は泣きながら頭を下げました。「何言ってるんだ。無事でいてくれただけでいいんだ」私は妹の背中を軽く叩きました。妹の夫、慎一も、「すみません……」と申し訳なさそうに頭を下げました。
私たち夫婦は、二人の息子が家を出たあと、空き部屋がいくつもあったので、妹夫婦を迎え入れるのに何の問題もありませんでした。
ただ、彼らは仕事を失い、しばらくはボランティアとして住んでた町を往復しながらボランティア活動をしていました。生活をすぐに立て直せる状況ではありませんでした。それでも、家族がこうして一緒にいられるだけで、少しずつ元の生活に戻れるはずだと信じていました。
妹夫婦が我が家で暮らし始めてから二週間ほど経ちました。生活も少しずつ落ち着き、夜の余震も減り、ようやく安心して眠れる日が増えてきました。しかし、その夜は違いました。寝ていると、突然「ミシミシ……」と家が軋む音が聞こえました。
私はハッと目を覚まし、隣の布団で寝ていた弥生と目が合いました。
「……地震?」弥生が小さな声で呟きました。確かに、何かが揺れているような気もします。
しかし、耳を澄ませると、また「ミシミシ……」と音が鳴ります。私は一瞬、微かな余震かと思いかけましたが、次の瞬間、気づきました。これは地震ではない。弥生も同じことに気づいたのか、目を見開いて私を見ました。
私たちの寝室の真上にあるのは、妹夫婦の部屋。そう、これは地震ではなく――妹夫婦が愛し合っている音だったのです。
弥生はとっさに布団をかぶり、私もそっと目を閉じました。けれど、布団の中で目を閉じても、妙に意識してしまいます。
「まあ、当たり前のことか……」妹夫婦は一回り年が離れていなので、そう思いながらもどこか居心地の悪さを感じていました。
それと同時に、私はふと考えました。
「俺たちは、いつからこういうことをしなくなったんだろう?」
50歳くらいまでは、まだそういう時間があった。けれど、いつの間にか、触れ合うこともなくなっていた。それが「当たり前」になっていたのです。
いや、今さら考えても仕方ない。私はそう自分に言い聞かせ、何もなかったように目を閉じました。
しかし、その夜、私はなかなか寝付けませんでした。布団の中で、ただ天井を見つめるばかりでした。
妹夫婦が住み始めてからというもの、あの「ミシミシ」という音は、週に2、3回は聞こえるようになりました。
もちろん、聞こえてしまっても意識しないふりをするしかありません。けれど、聞こえるたびに、どうしても考えてしまうのです。
ある夜、音が響いたあと、私は何気なく天井を見上げました。隣にいる弥生も、わずかに寝返りを打ちました。目を閉じたままでしたが、その呼吸がいつもより浅いのがわかりました。
私はいつからか、妹夫婦の音を聞くたびに、妙に落ち着かない気持ちになるようになっていました。
あの音を聞くことで、すっかり忘れていた感覚が蘇ってしまうのです。
不満があったわけではありません。ただ、そういうものだと受け入れていたのです。
そんなある夜のことでした。私は寝ていて、ふと気配を感じました。目を開けると、弥生が私の布団に入ってきたのです。驚きました。彼女は何も言わず、ただそっと私に寄り添いました。私は息を呑みました。けれど、そのぬくもりを感じた瞬間、すべてがわかりました。
私も、弥生も、何も変わっていなかったのです。ただ、お互いに遠慮していただけでした。私は、そっと彼女の手を握りました。
弥生は、ほんの少しだけ緊張したように指を動かしましたが、すぐに私の手を握り返しました。
そして、私たちは10年ぶりに愛し合いました。
それからというもの、私たちは、妹夫婦と同じタイミングで愛し合うようになりました。音が紛れて気づかれにくいということもあり、自然とそうなっていきました。まるで若い頃に戻ったような気分でした。無理はしません。
けれど、こうしてお互いを求め合うことが、これほど心を満たしてくれるものだとは思いませんでした。
私たちは、ただの「家族」ではなく、夫婦だったのだと、改めて感じました。
妹夫婦が我が家を離れたのは、それから一年後のことでした。ようやくアパートを借りることができたのです。
「お兄ちゃん、本当にありがとう」妹がそう言いながら、目を潤ませていました。
「気にするな。元気でやれよ」私はそう言って、妹の頭をぽんと叩きました。慎一も、「本当に世話になりました」と頭を下げました。
二人が去り、家の中はしんと静まり返りました。久しぶりに二人きりの生活が戻ってきたのです。その夜、私は布団に入りながら、ふと気づきました。静かだ。あの家の軋みが聞こえないのです。
私は横を見ると、弥生と目が合いました。
「……静かね」弥生がぽつりと呟きました。
「……ああ、そうだな」私は思わず笑ってしまいました。
すると、弥生もくすっと笑いました。
そして、彼女はそっと私の手を握りました。まるで、あの夜のように。
「ねぇ……」
「ん?」
「これからも、…たまには、ね?」私は少し照れながら頷きました。
家の中は静かでしたが、私たちの間には、あたたかい空気が流れていました。弥生の手をしっかりと握り返しました。
夜の静寂の中、私たちは久しぶりに笑い合いました。