私の名前は上田稔、65歳になります。妻の佐和子とは結婚して40年。長い年月を共に過ごし、最近では二人で穏やかで静かな日々を楽しんでいました。
幸い、大きなトラブルもなく定年を迎えられた私は、「これからは少しずつ新しいことに挑戦してみよう」と、妻に料理を教えてもらう計画を立てていたのです。けれど、その平穏な日常が崩れたのは、妻が何でもない段差で転んで骨折し、入院生活を余儀なくされたことがきっかけでした。たった2cmほどの段差なんです。実際私もよく躓くので、私たちも年を取ったものです。少し頭も打ったのですが幸い頭には異常はありませんでした。ただ、骨盤を骨折しており退院には時間がかかると言われ、リハビリも必要とのこと。それを聞いたとき、不安と寂しさが一気に押し寄せてきました。
家事を少しずつ始めようとしていたとはいえ、家事なんてこれまでほとんど妻に任せっきりで、掃除も洗濯もどうすればいいのかさっぱり分からない私。最初の数日は何とか頑張ってみましたが、洗濯物は山積みになり、食事はレトルト食品や惣菜ばかり。そんな生活が続くうちに、家の中は荒れていき、気持ちまでどんよりしていくのが分かりました。正直、どうにかしなきゃと思いながらも、何がどこにあるのかもわからないし、手がつかない日々でした。
そんなある日、弟の隆から久しぶりに電話がありました。
「兄貴、ちょっと相談があるんだけどさ……」 電話越しに聞かされたのは、弟夫婦が自宅をリフォームする間、仮住まいとして実家にしばらく滞在したいという話でした。弟はまだ50代の為仕事を続けていて、その代わり、弟の奥さんである美沙さんが家の家事をするからとのことでした。
「兄貴も佐和子さんが入院中で大変だろ? うちの美沙に家事を任せれば、少しは楽になると思うよ」 そう言われて、「どのくらいの期間いるんだ?」そう聞き返すと、大体2カ月くらいだそうです。ちょうど妻が帰ってくるころだと思い、私は安易に了承してしまいました。それくらい私は一人でいるのが辛かったのです。しかし実際に美沙さんが来る日が近づくと、どこか緊張している自分に気づきました。弟の妻とはいえ、美沙さんは弟よりも10歳近く年下でまだまだ若い40代の女性なんです。そんな人と一つ屋根の下で過ごすなんて、なんだか落ち着かない気持ちがしたのです。
妻の見舞い中にそのことを伝えると、「美沙さんに迷惑をかけちゃだめよ。少しくらい自分で頑張ってよ」と少し注意されてしまいました。勝手に家に泊まらせることを怒っているのでしょうか。
美沙さんが実家にやって来た日、玄関先で彼女は明るい笑顔を見せてくれました。 「お義兄さん、これからお世話になります! 家事は全部任せてくださいね。何かあったら遠慮なく言ってください」 彼女のその笑顔に、一瞬で緊張がほぐれる一方で、どこか妙に意識してしまう自分もいました。
「すまないね、いろいろ散らかしっぱなしで」
「これくらい全然大丈夫ですよ!あの人も全く家事出来ないんで!任せてください!」
そういうと初日から美沙さんは朝早く起きてテキパキと動き、慣れた手つきで溜まっていた掃除や洗濯をこなし、1日で全て終わらせてしまいました。その上さらに夕食まで準備してくれました。その日の夕飯には魚の煮付けが出されました。 「お義兄さん、この味付けで大丈夫ですか? 薄いようだったら次はもう少し濃くしますね」 そう言って、美沙さんが私に味見をするように箸で煮つけの切れ端を食べさせてきました。その自然な仕草に、一瞬戸惑いながらもそのまま煮つけを咥え、一口食べて「うん、美味しいよ」と答えるのが精一杯でした。久しぶりに自宅で手料理を味わいながら、どこかホッとした気持ちと、不思議な気恥ずかしさが混じっていたのを覚えています。
それから数日が過ぎ、美沙さんが家事をこなしてくれるおかげで家の中はすっかり片付き、気持ちも少しずつ落ち着いてきました。けれど、こんなに美沙さんに頼りっぱなしでいいのだろうか……そんな思いがふと頭をよぎります。自分が情けなくなる一方で、妻がいた頃の家の温かさがどれほど大きかったか、改めて痛感していました。そして、そんな気持ちに反して、彼女の無邪気な言動や仕草に時折心が揺れる自分がいることに戸惑いを感じることもありました。
ある日、美沙さんが庭で洗濯物を干している姿を見かけました。軽やかに動く彼女の手元や、風に揺れる髪が妙に印象的で、思わず目を向けてしまいました。 「お義兄さん、ちょっとこれ、手伝ってもらえますか?」 そう呼びかけられ、慌てて駆け寄ると、彼女が満面の笑みで振り返りました。その笑顔がどこか眩しく感じられ、一瞬だけ自分の心が揺れたような気がしました。
弟が仕事から帰ってくると、私は自然とほっとしている自分に気付きます。「今日はどうだった?」と弟に聞かれ、「特に何もないけどすごく助かってるよ」と感謝しつつもそっけなく答える自分がいました。そんな風に日々を過ごしながら、妻の佐和子が戻る日を心待ちにしています。
翌日の見舞いの時に早く戻ってきてくれよと妻に伝えると、
「もう、私がいないと駄目なんだから」と嬉しそうにしていました。そして
「ごめんね、この間は冷たく言っちゃって」と謝罪してきました。どうやら妻は若い美沙さんと二人きりになることにやきもちを妬いていたようです。
「私、リハビリ頑張るね」そう笑顔で言った妻の姿に、不意に胸が熱くなり、気がつけば抱きしめていました。病室で人目があるにもかかわらず、そんなことはどうでもよくなっていたのです。妻が笑いながら「もう、恥ずかしいわよ」と小声で囁いたのが、耳に心地よく響きました。
正直、妻がいない家の中は想像以上に静かで、心細いものです。美沙さんが来てくれたおかげで本当に助けられましたが、やっぱりこの家には妻がいないとダメなんだと、つくづく感じています。
早く佐和子が戻ってきてくれることを願いながら、今日も少しだけ賑やかになった我が家で、静かな夜を過ごしています。