私の名前は大江孝雄、63歳です。妻の佐千恵と結婚して早35年が経ちました。
気がつけば子どもたちも独立して、今は妻と二人だけの静かな暮らしをしています。家の中は驚くほど静かで、朝は鳥のさえずりと、妻がキッチンで立てる音くらいしか聞こえません。若い頃は子どもたちの笑い声や泣き声で家中が賑やかだったのに、こんなにも静かになるなんて、不思議なものですね。
そんな私ですが、65歳まで働ける職場を少し早めに退職しました。その理由は妻の一言です。
「孝雄さん、もう貯えもあるんだし無理して働かなくてもいいのよ。健康なうちにゆっくりしたらどう?これからは二人でゆっくり楽しい時間を過ごしましょうよ。」
そう言って微笑む妻を見たときに、「そうか、そろそろ自分もそういう年になったのか」と素直に思いました。正直、最初は少し戸惑いました。それは仕事を辞めることで、社会から取り残されるような不安があったからです。でも、妻の言葉には不思議と力がありました。彼女の穏やかな笑顔に背中を押される形で、退職を決めたのです。
退職後の最初の1か月は、私にとってどこか新鮮でした。朝はゆっくり散歩をして、午後は庭の手入れをしたり、妻と小旅行を楽しんだりと、何でもないことが楽しかったのです。妻も「あなたが家にいると安心できるわ」と嬉しそうにしてくれて、穏やかな日々が続きました。私の周りの友人は家にいると邪魔者のように疎まれるという話を聞いていたので、私は幸せなのだと思います。
でも、2か月が過ぎたころでしょうか。どこか胸の中にぽっかりと穴が開いたような気持ちを感じるようになりました。何かが足りない、そんな漠然とした違和感が、ふとした瞬間に襲ってくるのです。そうそれは男としての欲です。
正直50歳を過ぎたころから仕事の疲れや心労で、そういうものは終わったのだとばかり思っていました。
それが一番強くなったのは、ある朝のことでした。庭で花を摘んでいる妻を眺めていると、風が吹いて彼女の髪がふわりと揺れました。その瞬間、「ああ、妻と一緒に過ごして35年が経つんだな」と思ったのと同時に、私の中に何かが湧き上がってきたのです。
それは、40代半ばから途絶えていた夫婦の営みのことでした。
自分の中でそんな感情がまだ残っているとは思っていなかったので驚きました。でも、もっと驚いたのは、その思いが次第に強くなっていったことです。妻ともう一度、あのころのような時間を取り戻したい。そう思うようになりました。ただ、それを妻にどう切り出せばいいのか、全くわからなかったのです。
60歳を過ぎた夫が妻に「もう一度、そういう時間を持ちたい」なんて言うのは、気持ち悪がられそうだし、身勝手に思われるのではないか。若いころのような情熱を今さら妻に求めるのは、無神経だと思われないか。そんなことを考えているうちに、言葉が喉に引っかかってしまい、どうしても口に出せませんでした。
そんな日々を過ごしている中、思い切って外食を提案しました。妻が好きなイタリアンレストランを予約し、窓際の席を選びました。外の街灯がテーブルクロスに淡い影を落としていて、少し気恥ずかしい気分になりましたが、これもいい機会だと思いました。
食事が終わったころ、意を決して口を開きました。
「退職してからの生活……ずっといることでうっとおしくなっていないか?」
すると、妻は少し驚いたように目を丸くしてから、クスリと笑いました。
「うっとおしいはずなんてないわよ。あなたが家にいてくれるだけで安心できるもの。でもね、最近ちょっとなんだか悩んでない?」
その一言に、私はドキリとしました。やっぱり妻には見抜かれていたのです。長年連れ添った夫婦というのは、本当に不思議なものですね。
私は深呼吸をしてから、思い切って妻に伝えました。
定年してから体が癒されたのか、男としての欲情が蘇ってきたこと。それをおまえに伝えて気持ち悪がられないかなど全ての気持ちを伝えました。
言葉にしてしまうと、なんだか恥ずかしくて顔を伏せました。でも、妻の反応が気になり、恐る恐る顔を上げると、彼女は少し驚いたような顔をしていましたが、次の瞬間には柔らかい笑みを浮かべていました。
「そうだったのね……。私も少し気づいていたの。でも、どう話せばいいかわからなかったのよ。」
その言葉を聞いた瞬間、心の中がぱっと明るくなるのを感じました。妻も同じようなことを思ってくれていたのだと知り、胸がじんと熱くなりました。
その日の帰り私たちは数十年ぶりに大人のホテルに入りました。もちろん若いようにはいきませんでした。
ただ、妻とのつながりが心身ともに強くなったような気がしました。正直に思っていることを妻に伝えて良かったと思います。
それから私たちは、少しずつ新しい時間を取り戻していきました。ある日は古いアルバムを開いて、若いころの写真を見ながら思い出話をしました。別の日には一緒に料理を作りました。慣れない手つきで包丁を握る私を見て、妻が笑い転げている姿を見ているだけで、私は幸せを感じました。
そんな中、ある夜、妻がふとこう言いました。
「ねえ、ずっと健康でいてね。まだまだ二人でいろんなことをしたいの。」
その言葉に、私は熱くなりました。思わず妻をそっと抱き抱えて、「ありがとう」とだけ返しました。それだけで、気持ちは十分に伝わったと思います。
結婚して35年。これからも、私たちは新しい形を少しずつ見つけながら歩んでいくのでしょう。若いころの情熱はないかもしれません。でも、今のこの穏やかな関係こそ、私が本当に大切にしたいものだと心から思っています。今日も妻の笑顔を見ながら、穏やかな気持ちで眠りにつくことができそうです。