
私の名前は中村武史60歳です。私はマンションの15階に一人で住んでいます。景色はいいけれど、冬になると風がよく唸ります。一人で住むには、広すぎるだけで寂しい空間です。
家の中は物音一つなく、壁に反響する足音だけが自分の存在を知らせてくれるようでした。長年働いた会社では、毎日何かに追われ、時間が過ぎていくのが早かった。「孤独」なんてものを、感じる暇もないほど、日々の雑務に追われていました。
でも、退職して数日もすると、ただただ孤独。誰とも話さない生活。友達はまだ昼間は働いている。社会から取り残された感覚に陥っています。
実は若い頃に結婚をしました。彼女と体の関係をもったのは初夜の時だけでした。それでも彼女は妊娠し、これから父親として頑張っていこうと思った矢先、子どもが生まれた途端に離婚を言い渡されました。別れたあと、その子とはまったく会っていません。もう30年以上。子供に会わせてくれることもなく、養育費だけ20年間払い続けました。会いたいとも言われず、気付けば、私は自分が父親だと思えるようなことは何一つありませんでした。
「元気でやっていれば、それでいい」そう自分に言い聞かせてきたはずでした。でも、今になって思うのです。
今ではあの時の子供は自分の子では無かったのではないか、そう思ってさえいます。
そんなふうに過去ばかりを見ていたある日のことでした。
いつものように郵便受けの中に、あるチラシが入っていました。
《定年退職された方へ 新しい交流を始めてみませんか?》
老人会みたいなものか。そう思いましたが、その時なんだかここに行けば、何かが変わるかもしれない。そう思ったのです。
まあ、ただ誰かと話したいという願望のようなものだったのかもしれません。
集まりが開かれているのは、団地の敷地内にある自治会館でした。正直に言えば、入る前は少し気後れしていました。こういう会には昔から馴染めない自覚がありましたし、妙な期待を持って来たわけでもありません。ただ、誰かと話したい。それだけだったのです。
部屋の中には十数人が集まっていて、年齢は私とそう変わらないようでした。思いのほか皆、明るくよく笑い、話題のテンポも速く、想像していたお年寄りの集まりとは違いました。ちょうど、このマンションができた頃に入居した世代が、今ちょうど定年を迎え始めている。そんな人たちの集まりを見て、なんだか不思議な気分になりました。
そんな中、ふと視線を上げると、お隣の席に一人の女性が座っていました。控えめな淡いピンクのカーディガンを羽織り、静かに湯飲みに口をつけるその仕草が、妙に印象に残りました。派手でもなく、目立つわけでもないのに、なぜかその存在だけが、ぽつんと浮かび上がって見えたのです。彼女の名前は竹内真由美さん。独身で、私と同い年。そして同じようにちょうど退職したとのことでした。何度か会に参加するうちに、私は自然と真由美さんと席を並べることが増えていきました。
特別なきっかけがあったわけではありません。それなのに、不思議と気づけば隣にいて、何となく近くの席に座ることが多かったのです。
だからと言って、ずっと話しているわけではなく必要に応じて話すという感じでした。
でも、その空気感が私にはなんだか心地よかったのです。無理におしゃべりしなくても良いし、彼女はむしろ、沈黙そのものを受け止めてくれるような人でした。それは、私にとってすごく気持ちが楽だったのです。
あるとき、会のメンバー数人と一緒に近所のカラオケへ行く機会がありました。
冗談を言い合いながら順番が回ってくる中で、私は不意に、真由美さんの歌声を聞きました。
細くて、たどたどしくて、でもまっすぐで、年甲斐もなくちょっとドキッとしてしまいました。
彼女が少しだけ照れたように笑うのを見て、なぜだか胸が詰まりました。
いくつ目かの季節が少しだけ進み、街の空気が乾いてきた頃でした。
いつもの集まりの帰り道、真由美さんとふたり、並んで歩いていました。中庭に沈む夕暮れは優しく、風に揺れる木々の音が、やけに心にしみました。
帰ろうとしたとき、私はなぜか、言葉が口をついて出ていました。
「よかったら、今度お出掛けしませんか?」
無理に誘うつもりはなかったんです。でも彼女は少しだけ照れた表情でOKしてくれました。
車で向かった先は、郊外の小さな湖でした。典型的なドライブコースです。
湖のそばにある展望台に車を停めました。窓を少し開けると、冷たい風がゆっくりと入り込んできます。
秋の風は、やわらかくて、少しだけ湿っていて、胸の奥まで届くような気がしました。
結構沈黙する時間などもあったのですが、ひとつも嫌な感じがしないのです。
私は、何度も彼女の手を握りたくなってしまってはいましたが、その日は何も起こりませんでした。
でもその翌週、私は思い切って真由美さんを部屋にくることになったのです。
理由は簡単でした。15階の景色ってキレイんだろうなと言ったので、すかさず誘ったのです。
いきなりすぎたかと思ったけれど、それでも彼女はゆっくりと頷いてくれました。
私の部屋は、物が少なくて本当に何も無いんです。趣味もないし、だから本当に何もない。
掃除をしたくらいで、いつも通りの部屋に、いつも通りの自分のまま、彼女を迎えました。
ふたりでベランダに立ち、並んで景色を眺めていました。高速道路を走る車が、流れるように見えて、時折聞こえる電車の音が、この部屋にも現実のリズムを運んできていました。
私は、彼女の肩越しに目を向けながら、自然と手を伸ばしていました。彼女は少しだけ戸惑いながらも、その手を受け取ってくれました。手のひらの温度が、思ったよりも高くて、鼓動がやけに近く感じました。そして、真由美さんが、静かに口を開きました。
「……私、男性とお付き合いしたことがないんです」
その言葉は、何かを恥じるようでもなく、誇るようでもなく、ただ、真っ直ぐに事実だけを差し出すような声でした。
私はビックリしました。60歳だというのに若々しくて、私なんてこんなにドキドキしているのに。でも、心の中では、彼女がその一言を口にするまで、どれだけ勇気をためていたかが、痛いほどわかってしまったんです。だから私は、強くもなく、優しすぎもせず、ただ静かに彼女の手を握りました。「僕も似たようなものなんですよ」そう言いました。あまり深いことを言葉にしなくても、それがちゃんと伝わった気がしました。
あの日、夕陽が見える部屋の中で、私たちはゆっくりと時間を重ねました。真由美さんの手を取ったあと、私はほんの少しだけ身体を傾けました。驚かせないように、焦らせないように、まるで何かを撫でるような静かな気持ちで。彼女は、一瞬だけ肩をすくめ、それから、ほんのわずかに目を閉じてくれました。唇が触れ合ったのは、それが初めてというほど淡く、浅く、でも温かいものでした。そのとき私の感情は“強くなる”のではなく、“深くなる”のだと、初めて知ったような気がしました。
ひとつずつ、まるで時間を解くように、彼女と向き合いました。肌に触れ、息づかいを感じ、言葉を交わさずに伝えることばかりを選びました。彼女は震えていました。後で聞いた話ですが、本当に男性に触れるのすら初めてだったそうです。でもそれでも彼女は、頑張ってくれました。私自身も、ほとんど経験が無い男ですので、少しガサツだったかもしれません。ただ、壊れそうな彼女を壊さないように優しく彼女を抱きました。本当はあまりに興奮しすぎて一回失敗しちゃったのですが、それもご愛嬌です。でもそんなところも彼女にとっては良かったのかもしれません。その夜、私は彼女を抱きしめたまま眠りました。何年ぶりかに、夢を見ずに、深く眠った気がしました。
翌朝、目覚めると、彼女はキッチンに立っていました。湯気の立つケトルと、少しだけ緊張した背中。私は黙ってマグカップを手渡し、ふたりでテーブルに向かいました。
窓の外はやわらかな朝日。マンションの影が伸び、日差しがじんわりと床を照らしていました。
「筋肉痛、大丈夫ですか?」私は、もう全身が筋肉痛でした。特に股関節。歳には勝てないものです。筋肉痛は本当ですが、私は軽く冗談のつもりで言ったのですが、彼女は思わず吹き出してしまい、それにつられて、私も大笑いし、二人で笑いが止まらなくなりました。こんなに大笑いしたのは本当に久しぶりで、なんだかつきものが取れた瞬間だったかもしれません。
それからというもの、私たちは少しずつ日々を共有するようになりました。
時には私の部屋で、時には彼女の3階の部屋で。荷物を運んだわけでも、契約を交わしたわけでもないけれど、
心のどこかでは「一緒に生きている」と思えるようになっていきました。
真由美さんは、何も急がない人でした。
何かを証明しようともせず、ただ丁寧に生きている人でした。
そんな彼女の静けさが、私の人生にようやく“呼吸”をもたらしてくれたのです。
私たちは、もう若くはありません。
でも、だからこそ、この穏やかな日々を大切にしたいと思えます。