
私の名前は桑田宗次、今年で63歳になりました。
定年を迎えてもうすぐ3年になりますが、まあ、日々はそれなりに静かに過ぎていきます。
妻の小枝子と二人暮らし。子どもたちは、もうずっと前に家を出て、それぞれに家庭を持ちました。
家の中はいつも整っていて、食事も三度三度きちんと出てくるし、洗濯物もいい香りで綺麗にたたまれている。
小枝子は昔からきちんとした人で、そういうところにまったく抜かりがない。ありがたいことなんです、本当に。
けれど…こう言っては罰が当たるのかもしれませんが、あまりにもキチキチとし過ぎて、時折、ふと窮屈さのようなものを感じることがあるんです。
あれは定年して少し経った頃だったでしょうか。暇を持て余していた私に、小枝子がぽつりとひと言、
「ずっとぼーっとしていないで、何か外に出ること考えたら?」と。確かにその頃、家でぼんやりテレビを眺めてはうたた寝してばかりの私に、少し、いえ、かなり嫌気もさしていたのでしょう。
そういうこともあり、以前から誘われていた、近所でやっていた地域の清掃ボランティア活動に顔を出してみたんです。
公園の落ち葉掃除や花壇の手入れ、草むしりなんかを、週に二回ほど集まってやるんですが、思ったよりも、いや、ずいぶんと居心地も良くて楽しかったんです。
最初はね、正直に言えば、ただの暇つぶしのつもりでした。
でも、参加してみると、思った以上に顔なじみの人たちと笑いながら話せて、自然と気分も軽くなっていったんです。
義務じゃないので気楽に過ごせますし、年齢も似たような人が多くて。皆さん冗談を交えながら、黙々と箒を動かしたり、おしゃべりしてはを繰り返したりと、以外にも自由で開放的だったんです。
ああ、こういうの、久しぶりだなあって、胸の奥がほっとするような気がしたのを覚えています。
そんな中で出会ったのが――渡辺真理子さんでした。
初めて彼女を見たときは、正直、少し浮いているようにも見えました。
長袖のシャツの腕をまくって、泥のついた膝を気にせずしゃがみ込む姿が、どこか子どもっぽくもあって。
でも、花の名前を口にするときの目の輝きや、冗談を言って笑うときのちょっとした間合いに、何とも言えない魅力がありました。
「私ね、独り身なんですよ」そう、ある日ふと、彼女は言いました。
独身のまま、家族も近くにはおらず、ずっとひとり暮らしをしてきたと。
「気楽でいいですよ」と笑っていましたけれど、その笑顔の奥にあるものを、私は見逃しませんでした。
たぶん、私はそのときから、彼女のことを気にかけるようになっていたんでしょう。
気づけば作業のあと、一緒に自販機のコーヒーを飲んだり、帰り道を並んで歩いたりするようになっていました。
妻にはもちろん話せなかったけれど、それは…私にとってちょっとした“秘密の楽しみ”だったのかもしれません。
それからというもの、真理子さんとは、ボランティアのたびに一緒に作業をするようになりました。
週に二度の活動。晴れていれば公園の落ち葉掃除、曇りなら花壇の草取り。天気の話なんかをしながら、同じ場所に腰を下ろして黙々と作業をしていると、不思議と心が安らぐんです。
最初のうちは、皆の前でも私語を慎んでいたつもりでしたが、気づけば自然と隣に立っているのは真理子さん。
「桑田さんは本当に体力ありますね」なんて、冗談めかして言われても女性に褒められると、つい顔が綻んでしまいました。
彼女は、よく笑うんです。けれど、ふとした瞬間に黙り込んで、遠くを見つめるような仕草をするんです。誰もいない方向を、まるで何かを思い出すように。その横顔を見るたびに、私の中で何かがざわつき始めました。
それでも、その時点では自分の気持ちが何なのか、その時点でははっきりとはわかっていなかったと思います。ただ、会うのが嬉しくて、隣で作業できるだけでなんだか安心して。ほんの些細なことでも彼女が褒めてくれると、それが一日中、胸のどこかでぽっと灯るように残っていたんです。
そうな感じで、季節が一巡り、気づけば、彼女と出会ってもう3年近くが経っていました。
会のメンバーともすっかり打ち解けて、ちょっとしたサークルのような雰囲気になっていました。活動のあとには、誰かが「飲みに行こう」なんて言い出して、居酒屋での一杯が恒例行事みたいになっていたんです。
私も、妻には「みんなで飲んでくるよ」とだけ伝えて、参加するようになりました。正直言って、その時間が…楽しかったんです。
酔いが回ってくると、皆それぞれ昔話を始めて、笑って、時々しんみりして。
真理子さんも、そんな時にはぽつりと心の奥を見せてくれることがありました。
「恥ずかしながらお付き合いしたことが無いの」と、そんなことをぽろっと言ったこともあります。
最初は冗談かと思いました。けれど、彼女の目は笑っていなかったんです。
長いこと独りで生きてきたその背中には、私には計り知れない時間が流れていたのだと思います。
その時ようやく気づいたんです。私の気持ちはただの同情ではなく、恋心だということを。
たとえボランティア活動中に会うだけの関係でも、隣で笑っていられる時間が、こんなにも尊いものだったとは。
そして私は、彼女の笑顔をもっと見たいと、心のどこかで思い続けていたのだと改めて気付かされました。
妻の小枝子には、もう何年も言えずにいたような言葉を、彼女には自然にかけられる。不思議なものです。本当に。
もちろん妻を裏切っているという罪の意識がなかったわけではありません。でも、その気持ちは、やがて理屈よりも強くなっていきました。それでも私は、行動に移すことはない。そう思っていたのです。あの夜までは。
あれは、春先のことだったと思います。
少し肌寒い夜で、でも、空気にはどこかやわらかな香りが混じっていて。桜ももう終わりかけで、店を出た歩道には、風に吹かれて花びらがちらほらと舞っていました。その日は、いつもよりも少しみんなで長く飲んでいました。
皆が帰ったあと、なぜか真理子さんだけが残っていて、私も「少しだけなら」と付き合うことにしたんです。
「今日は、飲みすぎちゃったかも…」そんなふうに笑いながら、真理子さんは私の肩に、ふわりと頭を預けてきました。
驚きましたよ。でも、振り払えなかった。いや、正直に言って嬉しかったんです。
彼女の体温が、想像していたよりもずっと近くて、柔らかくて。良い香りで。
手を握ることすらしたことのない関係だったはずが、そのときは、もう全身の血が煮え立つくらいで何も考えられませんでした。
「私ね…」ぽつりと彼女がつぶやきました。
「男性が怖かったの」耳を疑いました。そんな風には見えませんでした。分け隔てなくお話されてもいましたし、でも、すぐにその言葉の重みが伝わってきて、私は何も言えなくなってしまった。彼女は、赤らんだ顔を伏せたまま、小さな声で続けました。
「私の事女として見れますか?今日だけは…甘えちゃダメですか?」その言葉を最後に、私は…抑えていた気持ちを止めることができませんでした。気づけば、彼女の肩をそっと抱き寄せていました。彼女は少しだけ、身体をこわばらせましたが、拒みはしなかった。
そのまま、近くのホテルに足を運んだのは、まるで夢の中を歩くような感覚でした。
部屋の中、ぎこちない空気の中で、彼女がシャワーを浴びて出てきたときの姿が、今でも目に焼きついています。湯気の残る肌、潤んだ目、ほんのり震える指先。
「こんな歳で、初めてなんて…変ですよね」そう言って、少し笑った彼女が、愛おしくてたまらなかった。
その夜、私は…妻のことを忘れていました。すべてを投げ出してしまったような感覚。理性や常識なんてものは、何もかも霞んでしまって。一度きりの、背徳。けれどそれは、ただの過ちとは言い切れないほど、強くて、切なくて、そして温かい時間でした。
ベッドの中で、彼女は私の胸に顔を埋めて、何度も小さな声で「ありがとう」と繰り返していました。
私はその髪を静かに撫でながら、どうしようもなく罪深い幸福を感じていたんです。
帰宅はかなり深夜になってしまいました。妻も既に寝ており、私はホッと気持ちが落ち着いたのを今でも覚えています。
翌朝、目を覚ますと小枝子はいつもと変わらぬ笑顔で迎えてくれました。
「昨日は遅かったのね。朝ごはん、あっためる?」その声が、やけに胸に響いたのを覚えています。
そしてその日の午後、私のスマートフォンに、真理子さんからのメッセージが届いたのです。
《昨日のことは…どうか、忘れてください。》
たった一行の、その言葉に、心臓をぎゅっと鷲掴みにされたような気がしました。
何かが、ぽっきりと折れたような音が、耳の奥で聞こえたような気がして。
メッセージを読んでから、しばらく私は、何も手につきませんでした。忘れてくれ、だなんて。そんなこと、できるわけがない。
あの夜の彼女の声、体温、震える指先。何もかも、まだ肌に、心に、残っているというのに。
「ちょっと出かけてくる」と昼過ぎには家を出て、気づけば私は、真理子さんの家の前に立っていました。
勝手な男だと思います。けれど、どうしても、このまま終わりにはできなかったんです。せめて、顔を見て、ちゃんと話をしたかった。それだけだったんです。
チャイムを鳴らすと、少ししてからドアが開きました。
彼女は部屋着姿のまま、驚いたように目を見開いて、そして――ゆっくりと視線を落としました。
「…来ちゃったんですね」
「…ああ。ごめん。どうしても、聞きたいことがあって」玄関先で、靴も脱がずに、私たちはしばらく黙っていました。
すると、真理子さんがぽつりと呟きました。
「ごめんなさい。私……酔ってたとは言えあんなこと…」
「…つい、甘えて…奥さんがいるのに……ごめんなさい。」彼女の言葉に、私は何度も口を開こうとして、でも、うまく言葉が出てきませんでした。そんな私を見て、真理子さんはうっすらと微笑みました。とても、寂しげに。
「でもね……あなたで、よかったです。優しくしてくれてありがとうございました。」彼女の目には、涙が溢れていました。
細い肩が、すこし震えていて、その姿を見ているだけで、胸が締めつけられるようでした。
「……私、実家に戻ります」突然の言葉に私は呆然と立っていました。
母が寝たきりになって、父が介護していたけど、最近はままならないとのことでした。
その言葉を聞いて、私はようやく、すべてを理解しました。彼女は、きっと、最初からそのつもりだったんだろうと。
あの夜も、もしかすると――別れの前の、ひとしずくの贈り物だったのかもしれません。
「ありがとうございます。わたし、桑田さんに出会えて本当に……良かったです」そう言って、彼女は、そっと頭を下げました。
私は、言葉にならないまま、その姿を目に焼きつけていました。
ほとんど何も言えない私に、笑顔で彼女は送り出してくれました。
「さあ、お家に帰って下さい」玄関の扉が閉められてから、私は、深く、長く、ようやく息を吐きました。
そしてその日の夜、何も知らずに微笑む小枝子の横顔を見つめながら、心の奥でひとつの扉が閉じる音を聞いた気がしました。
あれから、季節は巡りました。真理子さんの姿が消えた公園には、今も変わらず季節の花が咲いています。
私は相変わらず、清掃のボランティアに参加しています。あの時のことは誰も知らないまま、誰にも語らないまま、日々を過ごしています。
妻の小枝子は、いつも通りです。変わらず、穏やかで、よく笑って、よく食べて。
時折、私の腕にそっと手を添えてくる、その温もりに、私は心から感謝するようになりました。
ある日、小枝子がふと、こう言いました。
「あなた、最近優しくなったわね」私は、少し照れくさくなって、笑ってごまかしました。
あの夜のことは、私だけの秘密です。
いや、秘密というには、あまりにも大きな記憶です。
絶対に忘れることはないでしょう。私は一つの重みを背負って今日も、こうして生きています。
手を差し伸べてくれる妻がいて、それだけで、もう十分なんだと。
秋風が、どこか切なく吹く午後。
私は小枝子の隣で、何も言わずに空を見上げました。
高く澄んだ空の下、心にしまった人の記憶を抱えて――
それでも、前に進んでいくことを、私は選びました。