私の名前は森田小夜子、61歳の主婦です。夫の健一さんとは結婚して40年近く、一緒に歩んできました。子どもたちも巣立ち、今は夫婦二人で静かな暮らしを楽しんでいます。この町は田舎ですので、昔から近所付き合いが盛んで、人とのつながりが温かい場所です。10年程前に隣に引っ越してきた田淵さん夫妻も、その環境にすぐ溶け込むような方々でした。奥様は社交的で明るく、どんな人とでも笑顔で話せるような気さくな方でした。ご主人も控えめながらも礼儀正しく、素敵なご夫婦だなと感じていました。
ところが最近、その奥様をぱったり見かけなくなったのです。そして洗濯物を干しに庭に出るたびにどこかからか、視線を感じるようになりました。ふと顔を上げると、じっとこちらを見ている田淵さんの姿があり、目が合うと慌ててすぐに隠れるのです。それが毎日のように続き、次第に私は気味が悪くなっていきました。洗濯物も干していないし、物音もしないし生活感が無いのです。奥様がいない理由も気になりますが、ご主人のその行動が不安を募らせました。
ある日、田淵さんの家に回覧板を届ける日がやってきました。正直言って怖かったのですが、避けるわけにもいきません。意を決してチャイムを鳴らすと、田淵さんがドアを開けました。「こんにちは。回覧板をお持ちしました」と声をかけると、彼はぼそぼそとした声で「ありがとうございます」とだけ答えました。ふと、勇気を出して尋ねました。「最近、奥様をお見かけしないようですが…何かあったんですか?」と質問すると、「あ、あぁ…今はいないんですよ」と言葉を濁します。何かがおかしいと思いながら帰ろうとした瞬間、私は田淵さんに腕を掴まれました。「誰にも言わないでください」と低い声で囁かれ、あまりの恐怖に私は「はい」としか答えられませんでした。
走って家に戻り、夫にそのことを話すと、「なんだそれは、もう絶対に一人でいくなよ」と優しい言葉をかけてくれました。そして夫も「そういえば最近奥さん見てないな。入院でもしてるのか?」と心配そうに言いました。田淵さんの家はまだ10年も住んでいないのに奥様はこの町でも評判の社交的な方で、近所中の人と顔見知りだったのに、こんなに長く姿を見せないのは明らかに異常でした。家も徐々に荒れ始め、庭にもゴミが目立つようになってきました。そしてこの時、夫には言わなかったのですが、家を空けた瞬間何とも言えない異臭がしていたのです。今思うとこの時に行っておくべきだったのです。そんなこともあり私の不安は募るばかりでした。
それから数カ月、同じようにずっと見られている気配を感じていました。カーテン越しに明らかに覗いています。何度か夫も同じように見られていたことがあったそうです。
そしてついに、また田淵さんの家に尋ねないといけないことが用事が出来ました。それは自治会費を集める役目でした。運悪く今年は私が班長なんです。でも、どうしても一人では怖くて、夫には一歩下がって付き添ってもらうことにしました。チャイムを鳴らすと、田淵さんがドアを開けました。「自治会費をお願いします」と声をかけると、彼は何事もなかったようにお金を渡してくれました。ところが、その直後、突然私の腕を掴み引っ張り、後ろから抱きついてきたのです。「あなた…」と必死に声を上げると、夫が異変に気付いて駆け寄り、「何してるんだ!」と田淵さんに体当たりをしました。夫と田淵さんがもみくちゃになりながらも夫は田淵さんを押さえつけました。「小夜子!警察を呼んで!」と夫が叫びました。この騒動を聞きつけたご近所さんが出てきて一緒に田淵さんを抑えていてくれました。私は恐怖で震えるばかりで、立ちすくんでしまって正直何もできませんでした。こんなにも夫が頼もしく見えたのは結婚して初めてのことでした。
その後、警察が来て田淵さんは連行されていきました。家に戻ると、夫が私を優しく抱きしめて「大丈夫か、俺が守るから安心しろ」と言ってくれました。その言葉が胸に染み渡り、良い年して夫の胸で泣いてしまいました。この時私は改めて夫の存在の大きさを感じました。その晩、私たちはお互いの気持ちが盛り上がっていたのか、久しぶりに愛し合うことになりました。数十年ぶりの出来事でした。久々の夫婦の時間はお互いの気持ちを深く確かめ合い、夫婦の絆を再確認する時間を過ごせました。もしかしたら危険な目に合ったので「なんちゃら効果」というものが出ていたのでしょうか。でもこんなにも頼りになる夫と、これからも一緒に生きていきたいと心の底から思いました。
そして後日、驚くべきニュースが届きました。田淵さんの奥様は、あの荒れた家の中で亡くなっていたそうです。事件性があるのか、事故なのか、病死なのかは今の所まだ分からないとのことでした。思い返せば、田淵さんの視線や不審な行動、そしてあの時の出来事が全てつながり、背筋が凍る思いです。田淵さんが戻って来たらどうしようかとずっと不安に思っていたのですが、田淵さんの息子さんたちが家を売ったのかすぐに空き家になっていました。
しかし、私たち夫婦はあの出来事をきっかけに、以前よりも強い絆で結ばれた気がします。あれから週に何度か夫婦の生活が蘇りました。何があっても夫は私を守ってくれる、そう信じられることができたのは本当に幸せなことです。これからも夫と共に、穏やかな日々を歩んでいきたいと心から願っています。