
私の名前は、大沢明子、61歳。
夫の明弘は63歳になったばかりで、つい先日、長年勤めた会社を退職しました。
本当は、もう少し働きたいと言っていたけれど、私は早めに仕事を終えて、残りの人生をゆっくり過ごす方がいいと思っていたから、内心ほっとしていました。
けれど、いざ夫が家にいる生活が始まると、思い描いていた穏やかな日々とは少し違っていました。
ゆっくり寝るのはいいとしても、パジャマはいつまでも着たまま、布団も干せないし、ご飯の支度だって、彼が起きてこないと始められない。
長年家族のために働いてくれたことには感謝しているけれど、だからといって私だけが気を遣って、我慢するのもなんだかおかしい。
そんな思いが少しずつ積もっていって、気がつけば私の態度にも表れていたのか、家の中がどこかギスギスとした空気に包まれていました。
そんなある日、夫がぽつりと言いました。
「スキー、行かないか?」思わず顔を上げると、夫は少し照れたように笑っていました。
スキー。昔、よく二人で行ったものでした。子どもが生まれる前までは、冬になると必ずどこかのゲレンデに出かけていた。
「日帰りで行こう。昔みたいにさ」その言葉に、私は思わずうなずいていました。
そして迎えた当日。40年ぶりのスキーは楽しかったものの、体力は正直でした。
帰り道、運転する夫の顔が疲労で真っ青に見えました。
「昔はへっちゃらだったのにな……」そうつぶやく夫。
「ちょっと、どこかで横になってもいいか……?」
私はうなずいて、「どこか道の駅とか休憩できることろ、探すね」と言いながら走り出しました。
しばらく山道を走っていると、ふいにネオンが目に入りました。
一軒のラブホテル。田舎の山道に、ぽつんと立っているその建物。
「あれ……」と私は指をさしました。
「ねえ、あそこに入ろう」夫が驚いた顔で私を見ました。
「え?……ここって……」
「覚えてる?」
「もちろん」そこは、私たちが初めて愛し合った場所でした。初めて二人でスキーに出かけて、初めてお泊りをしたホテルでした。あれからもう35年も経っていますが、まだ若かったあの頃の思い出。
「本当に入るのか?」そういう夫に、
「ちょっと寝てから帰りましょ」と入るように促しました。
中に入ってみると、昔の雰囲気とは全然違っていました。昔は部屋の中もギラギラした今でいう昭和感満載でした。外観とは裏腹に、内装はすっかりリニューアルされていて、どこかシティホテルのような洗練された雰囲気になっていました。
「ずいぶん雰囲気が変わったね」そう言いながらも、どこか懐かしさが込み上げてくるのを感じていました。
部屋に入ると、夫は少し照れくさそうに笑っていました。私も、自然と笑ってしまっていた。
「明子……」
「なあに?」
「なんか……久しぶりだな」夫からの言葉に、ふと、昔のあの頃の気持ちがよみがえってくるのを感じました。
夫婦として長く生きてきたけれど、こうして向き合うのは、ずいぶん久しぶりだったように思います。
私はそっと夫の手を取りました。彼の手は、昔よりも少ししわが増えていたけれど、温かさは変わっていませんでした。
「たまには、一緒にお風呂でも入る?」
「え?良いのか」夫はなんだか子供のような笑顔で喜んでいました。
そして夫は私を抱っこして抱え上げてきました。
なんだか35年前に戻ったようでした。
お互い体は、あの頃のように張りはありません。ちょっとお互いお肉がついてしまっていますが、
私達は一緒にお風呂を楽しみました。
あの夜、あの部屋で、35年前の自分たちに少しだけ戻った気がしました。
明かりを落とした部屋の中で、私は夫の隣に横になりながら、胸の奥がじんわりと温まるのを感じていました。
あの頃と同じように、でも少し違う、ゆっくりとした時間の流れ。
「ねえ」私は小さな声で呼びかけました。
夫は少し笑って、そっと私の手を握りました。その手は、大きくて、温かくて、昔と変わらない。
しばらくそのまま無言でいたあと、私は布団の中で身体を夫に寄せました。
夫に抱かれるなんて何年振りでしょうか。もう覚えていません。
お互いスキーで体中疲れ切っているのに、なんだか体が火照ってしまっていました。
の手が熱く、こんな歳にもなって恥ずかしいですが、私は素直にそのぬくもりに身を預けていました。
「……明子」私の名前を、夫がこんなふうに呼ぶのは、いつ以来だったでしょうか。
ゆっくりと、まるで確かめるように私の頬をなで、髪を撫でるその指先は、どこまでも優しく、懐かしく、心の奥に染み込んでいくようでした。
その腕の力強さに、思わず胸がきゅっとしました。歳を取ったと思っていたけれど、心はこんなにも、あの頃のまま。
しわが増えた肌も、少し緩んだお腹も、恥ずかしいとは思いませんでした。むしろ、ここまで一緒に過ごしてきた年月の証のようで、どこか誇らしくさえあったのです。
部屋が静かに暗くなり、ただお互いの吐息だけが響く空間。
視線を交わすこともなく、言葉も交わさず、ただ手をつなぎ、指を絡めて、身体を少しずつ寄せ合いました。
長い年月を経て、夫婦として培ってきたものが、今このひとときに凝縮されているような、そんな気がして。
唇が触れた瞬間、胸がぎゅっと痛むほどに、嬉しくて、愛おしくて……涙が出そうになりました。
「明子……大丈夫か?」夫がそっと囁きます。
「うん、大丈夫。……ありがとうね」
何がありがとうなのか、自分でもよく分からないけれど、ただ言いたかったのです。
一緒にいてくれて、ここまで歩んできてくれて、今日、スキーに誘ってくれて。
私達は、無理のない範囲で、でも確かに愛し合いました。
若い頃のような激しさではなく、ゆったりとした、穏やかで、それでいてどこか熱のこもったひととき。
お互いの変わっていない部分を、そして変わってしまった部分を、確かめるように触れ合いました。
時折、ふっと笑ってしまうようなこともありました。夫が腰を痛そうにしていたのです。
私もちょっと限界でした。
やがて、疲れた身体を重ねたまま、私は夫の胸に顔をうずめ、そっと目を閉じました。
心の奥まで、あたたかな湯に浸かったような、じんわりとした幸福感が広がっていくのを感じながら。
夫は何も言わず、ただ私を抱きしめてくれました。その腕の中で、私は安心しきっていました。
明かりの落ちた静かな部屋の中。窓の外では雪が静かに降っているようでした。
あの頃と同じ、でも少し違う夜。
きっと、これからも、こんなふうに時々、二人で思い出しながら、生きていけたらいい。
そんな願いを胸に、私はそっと、夫の腕の中で眠りにつきました。
静かな夜でした。心地よい疲れと、満たされた安心感に包まれて、
まるで35年前に戻ったような――そんな不思議な一夜でした。
ところが目が合い、お互いに苦笑しました。
そう、スキーと久しぶりの行為で二日後、二人とも動けませんでした。
若くないってことを、改めて思い知らされつつも、
なんだか妙にうれしくて、ふたりで笑い合いました。
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