
私の名前は長岡 彬です。定年まであと少しとなりました。60歳を過ぎたことで、責任ある立場からは離れています。長年勤めた会社のため気苦労も少なく、仕事は流れ作業のように淡々とこなしています。特に大きな不満があるわけではありませんが、心が躍るようなこともない毎日です。毎日毎日が同じことの繰り返しでした。
そんなある日、久しぶりに同期の田村と飲みに行きました。彼とは同い年で、入社からずっと一緒に働いてきた仲間です。若い頃は飲み会のたびに馬鹿騒ぎをしたものですが、この歳になると酒の席で話す内容も変わるものです。健康のこと、老後のこと、定年後の過ごし方。そうした話をひと通りしたあと、田村がふいに言いました。
「なあ、長岡。お前、まだ奥さんと関係あんのか?」不意を突かれ、手にしていたグラスを少し傾けてしまいました。
「え?あるわけないだろ……」言葉を濁しました。考えてみれば、最後に妻と関係を持ったのはいつだったか。思い返すと、それはもう5年以上前のことでした。特別な理由があったわけではなく、ただ気づけば途絶えていた、というのが正直なところです。
「俺はまだ続いてるぞ。まあ、たまにだけどな」田村はあっさりとそう言いました。驚きました。田村も私と同じ61歳、奥さんとは40年近く連れ添っているはずです。それなのに、まだ夫婦としての関係を続けているとは思いもしませんでした。
「奥さん嫌がったりしないのか?」思わず尋ねると、田村は肩をすくめました。
「ハグしたり一緒に寝たりしないのか?それだけの話だろう?」軽く笑いながら言いましたが、私にはその言葉が妙に引っかかりました。
一緒に寝る?確かに、それだけのことかもしれません。でも、そう簡単にできないからこそ、いつのまにか月日が経ってしまったのです。
家に帰ると、妻の小百合がいつも通りキッチンに立っていました。湯気の立つ鍋をかき混ぜながら、「おかえり」と言います。その声を聞くのは、もう何十年も続いているはずなのに、ふと、その言葉に何か距離を感じました。
こんなに長く一緒にいるのに、最近、彼女の顔をじっくり見たことがあったでしょうか。小百合が振り返り、「どうしたの?」と首を傾げました。
私は答えに詰まりながらも、改めて彼女を見ました。58歳になった彼女は、少しずつ年齢を重ねたものの、変わらず穏やかで、昔の面影を色濃く残していました。それなのに、なぜか手を伸ばすことができなくなってしまっている自分がいました。夫婦なのに、気安く触れることができない。そんな関係を、このまま続けていくのだろうか。
どうにかしたい。その気持ちは、飲み屋で田村の話を聞いて以来、胸の奥にくすぶっていました。なので私は旅行の計画を立てることにしました。
「今度、旅行にでも行かないか?」そう切り出すと、小百合は驚いた顔をしました。まるで、私からそんな提案が出るとは思ってもいなかった、というように。
「え……旅行?」しばらく間を置き、彼女はふわりと微笑みました。
「いいの?」そんな顔を見たのは、いつぶりでしょうか。
「たまにはな」そう答えると、小百合はすぐにタブレットを持ってきて、あれこれと楽しそうに話し始めました。「ここもいいし、あそこもいいわね」と言いながら指でなぞる姿を見ていると、少し安心しました。
この旅行が、何かを変えるきっかけになるかもしれません。いや、変えなければならないのです。妻の横顔を眺めながら、そんなことを考えていました。
旅行は2泊3日で宮城県に行くことになりました。
旅行の日が近づくにつれ、小百合の様子はどこか浮き立っているように見えました。
「旅行の準備、どうしようかしら」そんなふうに独り言のように呟きながら、新しい服を買いに出かけたり、旅行バッグを引っ張り出したりする姿を見ていると、どこかくすぐったい気持ちになりました。まるで、若い頃に戻ったような気分です。
そういえば、新婚当時はよく二人で旅行をしたものでした。列車の中で隣に座る小百合の横顔を眺めながら、何気ない話をする時間が好きでした。
けれど、子どもが生まれ、生活に追われるうちに、二人だけで過ごすことは減り、それがいつの間にか当たり前になっていました。そして、気づけば夫婦としての関係も途絶えていたのです。今さら、遅いだろうか。そんな不安が、心のどこかにありました。
旅行当日、私たちは新幹線に乗り込みました。普段乗り慣れていない新幹線にてんやわんやです。
それでも「こうやって二人で出かけるのっていつ以来なのかしら」小百合は車窓から流れる景色を眺めながら、ぽつりと言いました。
「そうだな」何気なく返事をしましたが、その言葉の奥に、小百合の寂しさのようなものが滲んでいる気がしました。
新幹線に乗っている2時間の間、昔話に花を割かせ、あっという間に目的の駅まで付きました。そこからはレンタカーで宿まで向かいます。道中観光をしながら、ここでも小百合はずっと楽しそうに過ごしていました。
宿に着くと、部屋には広い和室が用意されていました。窓の外には海が広がり、波の音が心地よく響いていました。
「いい部屋ね」小百合は嬉しそうに窓を開け、潮風を感じるように深く息を吸い込みました。その仕草がどこか艶やかに見え、私は思わず見とれてしまいました。
ここ最近で、こんなふうに彼女を見つめることがあったでしょうか。夕食を終え、温泉に入り、部屋に戻ると、旅館の布団が二組敷かれていました。この並んだ布団の距離が、妙に遠く感じました。
「……さあ明日の為に今日はもう寝よっか」小百合がそう言いながら布団に横になると、私はなんとなく言葉を返すことができませんでした。
この旅行の目的は、彼女との関係を昔のように戻すことだったはずです。けれど、いざこうして向き合うと、どうすればいいのか分からなくなっていました。
3年のブランクは、想像以上に大きかったのかもしれません。隣の布団に移動すればいいだけなのに全く動くことすらできませんでした。動くことも声を掛けることもできないまま、私は小百合の寝息を聞きながら、ただ天井を見つめていました。
このまま何も変えられないまま、旅行を終えてしまうのだろうか。焦りのようなものが胸を締めつけました。
翌朝、目が覚めると、小百合はすでに布団から出ていました。部屋の窓を開け、朝の光を浴びながら海を眺めていました。風に揺れる髪が、どこか若々しく見えました。
「おはよう」そう声をかけると、小百合はゆっくり振り返り、微笑みました。
「おはよう。すごく気持ちのいい朝ね」確かに、昨夜の迷いを忘れてしまいそうなほど、清々しい朝でした。
朝食を済ませたあと、二人で散歩に出かけました。静かな海沿いを並んで歩くのは、なんだか懐かしい感覚でした。若い頃なら手を繋いでいただろうか。そう思いながらも、今はただ、肩を並べて歩くだけでした。
しばらく歩いたあと、私はふと、小百合を見ました。
「楽しいか?」そう聞くと、小百合は少し驚いたような顔をしてから、穏やかに笑いました。
「楽しいわよ。あなたは?」
「……ああ」私はそう答えながら、自分の胸の内を探っていました。本当に楽しいのか。それとも、この旅行に期待しすぎて、空回りしているのか。このままでは、何も変わらないまま帰ることになる。
その焦りが、どうしようもなく心をかき乱していました。温泉街で観光と、昼食をとり、その後は部屋で少し休むことにしました。
「温泉ゆっくり入ってきてもいい?」そう言って小百合が立ち上がるのを、私は見送ることしかできませんでした。
このままではいけない。けれど、どうすればいいのか。迷いながらも、私は立ち上がり、部屋の外に出ました。
ふと、宿の廊下で、小百合の背中が見えました。温泉へと向かうその姿を、私はしばらく見つめていました。
若い頃のように、ただ求めればいいのか。そんなことができるほど、もう無邪気ではない。それでも、小百合をひとりの女性として見ている自分がいることに気づいていました。
その夜、私たちはまた、並んだ布団に横になりました。昨夜と同じ距離。けれど、昨夜とは違う心のざわめきがありました。
私は、意を決して、小百合に声をかけました。
「……なあ」小百合が、こちらを向きました。
私は、一度唇を噛み、それから静かに言いました。
「こっちに来ないか」言葉にすることで、ようやく自分の気持ちがはっきりしました。小百合は、一瞬驚いたような顔をしました。そして、しばらく私を見つめたあと、ゆっくりと、穏やかに微笑みました。
「……うん」そう言ったあと、小百合はそっと布団から出て、こちらの布団に入ってきました。迷いも、戸惑いも、もうなかった。ただ、小百合の温もりだけを、私は感じていました。
彼女の手が、そっと私の肩に触れました。その仕草は、どこかぎこちなく、けれど拒むものではありませんでした。私は息を飲み、そっと彼女を抱き寄せました。
3年ぶりに感じる妻のぬくもりは、思っていたよりも柔らかく、どこか懐かしいものでした。
「……久しぶりね」小百合が小さく呟きました。その声には、少しの恥じらいと、少しの安堵が混じっているように感じました。
私は何か言葉を返そうとしましたが、それよりも、ただ彼女の体温を感じたくて、そっと髪に触れました。
昔は、こんなふうに彼女を抱きしめることが当たり前でした。それがいつからか、こうして向き合うことすらなくなっていたのです。
「お前に、触れたかったんだ」正直な気持ちを口にすると、小百合はほんの少し目を伏せ、それから静かに微笑みました。
「言ってくれたらよかったのに……」そう言った彼女の言葉が、胸にじんと染み渡りました。
長い時間をかけて、ようやく戻ってこられた。そんな気がしました。夜の静寂の中、波の音が遠くで響いていました。その音を聞きながら、私はそっと小百合の手を握りました。彼女の指先が、ゆっくりと私の手を握り返しました。
久しぶりの妻との時間は我を忘れて求めてしまいました。妻も私を受け入れてくれたことに私の心は満たされていき、
妻から「ちょ、ちょっとストップ」と言われるまで無我夢中でした。
「もう若くないんだから、これからはもっと優しくしてよ」それだけで、もう十分でした。この旅行に来てよかった。そう思いました。
きっと、またすぐに日常が始まるでしょう。仕事もあるし、忙しない毎日は変わらないかもしれません。けれど、今の私は、もう5年前の私ではありませんでした。
隣には、変わらず妻がいる。けれど、その存在を、もうただの「家族」として見ることはないでしょう。
私は、小百合の体温を感じながら、静かに目を閉じました。翌朝、目が覚めると、彼女は私の腕の中で眠っていました。
こんな朝が、また訪れるとは思ってもいませんでした。
私はそっと微笑みながら、小百合の頬にかかる髪を指で払いました。
「おはよう」彼女がゆっくりと目を開け、私を見上げました。
柔らかく微笑むその顔は、昨日よりもずっと、昔のままの妻のように見えました。
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