私は英子。56歳の主婦です。結婚してから30年。この30年間、いろいろなことがありましたが、気がつけば毎日があっという間に過ぎ去っていたように感じます。子どもたちは成長し、それぞれの道を歩み始め、今は夫と二人だけの生活に戻りました。そんな静かな時間の中で、私はふと、これまでのことを振り返っていました。
私と夫が結婚したのは、お見合いがきっかけです。今ではあまり聞かれなくなったかもしれませんが、当時の私はまだ若く、結婚について特に強いこだわりもなく、ただ周りの流れに身を任せていたように思います。私の実家は、田舎で小さな商店を営んでいました。長女として生まれた私は、幼い頃から両親の手伝いをしながら育ちました。家族の中では一番しっかり者とされていましたが、内心ではあまり目立ちたくないと思っている部分もありました。周囲に迷惑をかけたくないから、期待に応えようと頑張るけれど、どこか不器用で、上手く立ち回れないところがあったのです。
結婚に対しても、「いずれはするのだろう」と漠然と考えていましたが、相手が誰なのか、どんな人なのかという具体的なことまでは考えていませんでした。そんな私に、ある日、母が「お見合いの話があるんだけど、どうかしら?」と声をかけてきたのです。
その話は、父の友人を通じて持ち上がったもので、相手の男性は会社員で、私より少し年上だということでした。どこか他人事のように聞いていた私は、母の勧めもあって「会うだけなら…」と気軽な気持ちで応じました。お見合いの日が近づくにつれ、少しずつ緊張してきたものの、正直なところ特別な期待はしていなかったのです。
お見合いは、近くの料亭で行われました。両家の親同士が和やかに話す中、私はずっと緊張しながら相手の到着を待っていました。そして、いよいよその男性が部屋に入ってきた時、私の第一印象は「普通の人だな」というものでした。派手さもなく、かといって特に地味でもない、まさにどこにでもいるような男性。それが今の夫でした。
彼の名前は「雄二」さん。清潔感のあるきちんとしたスーツ姿で、初めて私に向けて微笑んだその瞬間、私は少しだけ安心したのを覚えています。何を話せばいいのか、どんなふうに振る舞えばいいのかまるでわからなかった私に、雄二さんは、ゆっくりとした優しい口調で話しかけてくれました。「緊張しているんですか?僕も、実はこういう場は初めてで…」と。
お互いに初めてのお見合い。そう思うと、少し気持ちが楽になりました。それからは、ぎこちなさがありながらも、少しずつ会話が弾むようになりました。趣味の話や仕事の話、お互いの家族のことなどを話していくうちに、私は彼の落ち着いた雰囲気に安心感を覚えるようになりました。
雄二さんは、仕事では営業をしていると話してくれました。「仕事柄、人と話すのは得意だと思われがちなんですけど、実はそうでもないんです」と、少し照れたように笑ったその表情が印象的でした。私は、そんな彼の飾らない態度に好感を持ちました。それに、雄二さんは私の話をよく聞いてくれました。決して無理に話を合わせるのではなく、自然な流れで質問をしてくれるので、私も素直に話せたのだと思います。
お見合いが終わった後、家に帰って母に感想を聞かれましたが、私は「話しやすい人だった」とだけ答えました。まだ具体的に結婚のことを考えるほどの気持ちはなく、ただ「もう一度くらい会ってもいいかな」という程度の気持ちだったのです。
その後、私たちは何度かデートをしました。デートといっても、派手な場所に行くわけではなく、地元の喫茶店でお茶をしたり、公園を散歩したりといった、静かな時間を一緒に過ごすものでした。雄二さんは、特に大きな話題を持ち出すわけでもなく、穏やかにその時間を楽しむタイプの人でした。最初は少し物足りないと感じていたのですが、次第にその穏やかさが心地よくなっていきました。
ある日、彼が「僕たち、これからもこうして一緒に時間を過ごしていけたら、嬉しいです」と、少しだけ緊張した表情で言ったのです。その言葉を聞いたとき、私ははっとしました。結婚に対して、ずっと漠然としたイメージしか持っていなかった私が、初めて「この人となら、一緒にやっていけるかもしれない」と感じた瞬間でした。
その後、私たちは正式に結婚を決めました。家族や親戚に祝福されながら、私と雄二さんの新しい生活が始まりました。お見合いから始まった二人の関係は、決して華やかではありませんでしたが、私にとっては大切な出発点でした。そして、その穏やかな時間は今でも続いています。
あれから30年。振り返ると、楽しいこともあれば、困難なこともたくさんありました。でも、あの時感じた「この人とならやっていけるかもしれない」という直感は、間違っていなかったのだと思います。
結婚してから30年、私たち夫婦はお互いを支え合いながらここまで歩んできました。日々の生活は穏やかで、特別に華やかなことがあるわけでもありませんが、それが私にとって心地よい日常でした。
朝は夫よりも少し早く起きて、朝食の準備をするのがいつもの習慣です。台所でお味噌汁を作りながら、テレビのニュースをぼんやりと聞いていると、決まって「おはよう」と雄二さんの声が聞こえてきます。寝癖が少し残った髪を手で押さえながら、コーヒーを淹れる姿が私にはとても馴染んでいて、その風景があるからこそ、一日の始まりを感じることができるのです。夫婦の会話は特別なものではありません。最近見たテレビ番組の話や、孫たちの話、スーパーで見かけた美味しそうな食材の話。そんな何気ないやりとりが、気づけば私たちの日常の一部になっていました。結婚したばかりの頃のように、熱心に語り合うことは減りましたが、何も話さなくても一緒にいるだけで安心できる、そんな関係に変わっていったのだと思います。私たちの関係は、きっと他の人から見れば平凡で、特に親密なものではないかもしれません。でも、それでもいいのです。30年という時間の中で積み重ねた信頼があるからこそ、こうして変わらない日々を送ることができるのだと、私は思っています。
結婚30周年を迎えるということで、翌日には子どもたち家族が私たちのためにお祝いをしてくれることになっていました。息子夫婦も娘夫婦も、わざわざ時間を作ってくれるのですから、本当にありがたいことです。でも、その前に「夫婦だけで少しリッチな食事をしよう」と、雄二さんが言ってくれたのです。
当日、私たちはちょっとおしゃれなレストランに出かけました。普段はどちらかというと質素な食事が多いので、こうして二人で外食するのは久しぶりでした。シャンパンのグラスを傾けながら、ゆっくりとした時間を過ごしていると、結婚したばかりの頃のことが自然と頭に浮かんできました。「こうして二人で食事するのも、なんだか新鮮ね」と私が言うと、雄二さんは少し照れたように笑いました。
最初は、いつもと変わらない他愛のない話をしていました。仕事のこと、孫たちのこと、そして昔よく行った場所のこと。少しだけ昔話に花を咲かせた後、デザートが運ばれてきた頃、ふと雄二さんが真剣な顔をして私を見つめました。
「英子、30年間、ありがとう」
その言葉に、私は一瞬驚いてしまいました。結婚生活の中で、感謝の気持ちを直接伝えられることはあまりなかったからです。それから、雄二さんはポケットから小さな箱を取り出し、中から綺麗なイヤリングを見せてくれました。ささやかな光を放つそれを見た瞬間、私は言葉が出ませんでした。
「これからも、よろしく頼むよ」と、少しだけ照れくさそうに言いながら、イヤリングを私に手渡してくれました。まるで若い頃に戻ったかのように、私は顔が熱くなるのを感じました。そんな私の様子を見て、雄二さんは少しだけ笑っていました。
「はい…お願いします」
それだけが私の口から出た言葉です。でも、それだけで十分でした。雄二さんの心がしっかりと伝わった気がしたからです。長い結婚生活の中で、何度もお互いの気持ちがすれ違ったり、ぶつかったりしたこともありました。それでもこうして、30年経ってもお互いに「ありがとう」と言える関係でいられることが、何よりも幸せだと思います…
その夜、帰り道を歩きながら、私は静かに手元のイヤリングを見つめていました。明日、子どもたちが集まってくれるときにつけていこうと思いながら、この先もずっと、こうして雄二さんと穏やかな時間を過ごせたらいいなと願いました。
私たち夫婦は、決して派手な愛の表現をするわけではありません。お互いに、言葉少なに思いやりを持って接するのが心地よいのです。でも、そんな日常の中に、たまにはドキッとするような瞬間があってもいい。今日のように、思いがけないサプライズで胸が高鳴ることが、たまにはあってもいいのだと思いました。
これからも、雄二さんとは変わらない関係でいたい。そして、ときどきこんなふうに、お互いに少しだけ照れくさい気持ちを感じられる瞬間があるなら、きっとこれからの生活も楽しいものになるだろう。そう心の中で感じながら、私は夫と並んで家路を歩いていきました…