私の名前は山田隆一、62歳です。結婚してからもうかれこれ35年くらいでしょうか。子どもたちもそれぞれ家庭を持ち、今は妻の理恵子と二人きりの静かな生活が続いています。数年前に私は会社を早期退職して、家にいる時間が格段に増えました。家の中はいつも静かで、夜になればしんとした空気が満ちてきます。働いている時と何ら変わらないのにこんなふうに二人きりで過ごすのも久しぶりだなと思う一方で、何とも言えない寂しさが胸に漂うのを感じていました。
妻と私の間には、35年の間にすっかり「空気」ができてしまったようです。安心感があるのは確かですが、それと同時に、お互いがわざわざ言葉にしなくてもわかるだろう、とどこか思い込んでしまっている。会話がないわけではないのですが、昔のように心が通い合っているかといえば、そうでもないような気がしていました。ほんの少しずつ、二人の距離がずれてしまったような、そんな気持ちがあったのです。
そんなある夜、夕食を終えて茶をすすっていると、理恵子がふとこちらを見て、照れたような表情で言いました。
「今夜、一緒に寝ても良い?」
その一言に、私は心臓がドキリと跳ねました。もうずいぶん、こんなふうに誘われることなんてないと思っていたのです。年齢を重ねると、夫婦というのは落ち着いてしまうもので、日々の生活の中で「夜を二人で過ごす」という考え自体が遠のいていました。昔なら、ただ「うん」と答えて、なんの気負いもなく彼女の期待に応えられたかもしれません。でも今は、素直に応じることがなんだか少し恥ずかしいような、照れくさいような気持ちがあったのです。
「うん」と返事をしたものの、心の奥には複雑な感情が渦巻いていました。妻の思いに応えたい気持ちはあるけれど、果たして今の自分にそれができるのだろうかという不安が頭をもたげてきたのです。私の体は年齢とともにすっかりと衰え、かつてのように男としての自信はもうありませんでした。そうもう反応が無いのです。彼女の期待に応えられないことが怖いのか、自分でもはっきりわからないまま、私は少し情けない気持ちでその夜を過ごしていると、妻がお風呂から上がってくるまでの間に眠りに落ちてしまっていました。
翌朝、妻は何事もなかったかのように振舞って何も言いませんでした。ただいつもと同じように朝ごはんを準備してくれていたのですが、どこかいつもより質素でした。そして彼女の背中が、少しだけ寂しそうに見えました。
申し訳ないことをしたとそんな気持ちを抱えたまま数日が過ぎた頃、古い友人の山本と飲む機会がありました。彼は若い頃からの親友で、仕事も同じ会社で頑張ってきた間柄です。私は思い切って、今の自分が抱えている悩みを打ち明けてみました。
「実はさ、最近、妻がこう…誘ってくれてさ。でも、俺はもう若くないし、なんだか自信がなくてさ。昔と違って、応えられないしさ…」
そう話しかけると、山本は私の話を聞いてふっと笑いました。「お前、まだそんなこと気にしてんのか?」と、どこか呆れたように言うのです。
「なあ、昔と同じでなくてもいいじゃないか。お前らにはお前らにしかできないやり方があるだろ?無理に若い頃と同じことをしようとしなくたって、今だからこそできることだってあるんじゃないのか?」
その言葉を聞いた瞬間、私はハッとしました。ずっと「男としての役割」に囚われていた自分には、山本の言葉が驚くほど新鮮に感じられたのです。昔の自分じゃなきゃダメだと、無意識にそう思い込んでいた自分に気づかされました。年齢を重ねた今だからこそできることがある……そう考えると、少しずつ気持ちが軽くなったように思えました。
家に帰った私は、妻が求めているのが本当に「若い頃と同じこと」なのだろうかと考え始めました。もしかしたら、ただ一緒に過ごすことや、静かに心を通わせること……そういったことが彼女にとっての「ゆっくりする」ことなのかもしれない。そんな思いに駆られ、私は自分なりに「年齢を重ねた夫婦の時間の過ごし方」について調べてみることにしました。
いろいろな体験談やアドバイスを読み進めていくうちに、ただ身体的な関係だけが夫婦の絆ではないと、改めて気づかされました。心を通わせること、そっと触れ合うこと……そういったシンプルなことが、いつの間にか私の中から抜け落ちていたように思えたのです。思い返せば、妻はずっと私を支えてくれていました。仕事に忙殺され、家では疲れて眠るだけの日々が続いていたのに、彼女は私に文句一つ言わず、ずっとそばにいてくれました。それを「当たり前」だと感じてしまっていた自分が情けなく思えました。
次の週末、妻がまた「ねえ。」と照れくさそうに誘ってきたとき、私は今までよりも少し落ち着いた気持ちで、彼女の手を取ることができました。山本に背中を押されて自分なりに考えたことで、肩の力が抜けたのかもしれません。焦らず、ただゆっくりと、彼女の手にそっと触れてみました。彼女の指先が私の手に触れるたび、温かな気持ちがじんわりと伝わってくるのを感じました。
妻も、少し照れくさそうに微笑みました。その微笑みを見た瞬間、私も思わず肩の力が抜け、少し恥ずかしさが和らいだのです。こうして二人で静かに寄り添っているだけで、昔のように「何かをしなければ」というプレッシャーから解放されるような気がしました。そのプレッシャーから解放されたのか、私の体は少しずつ若いころの力が復活するようになりました。
それからというもの、私たちは新しい形で夫婦の時間を楽しむようになりました。若い頃と同じでなくても、年齢に合った私たちなりの方法で心を通わせることができるのだと実感しています。妻も、以前よりどこか明るくなったようで、会話の中でふと私の名前を呼ぶことが増えました。「隆一さん」と呼ばれるたびに、私は少し照れくさくも、どうしようもない幸せが胸に広がるのを感じています。
結婚して35年。こうしてまた新しい段階に進めたのは、山本の言葉と、ほんの少しの勇気のおかげだと思います。この先、どれだけの時間が残されているのかはわかりません。でも、二人で同じ景色を見て、季節の移ろいを感じながら歩んでいけたら、それが何よりの幸せだと感じています。静かな家の中で、妻がそっと私の名前を呼ぶたびに、胸の奥で小さな幸せが花開いているのです。
これからも、二人の間に温かな明かりがともり続けてくれたら、それが私たちにとっての何よりの宝物なのかもしれません。