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私の名前は森信二、61歳。このたび、長いサラリーマン生活を終え、定年退職を迎えました。
仕事人間だった私にとって、これからの人生がどんなものになるのか正直想像もつかず、不安もありました。そんな時、妻の麻衣子が「せっかくだから定年祝いに旅行でも行こうよ」と明るく提案してくれたのです。麻衣子は58歳。子育てが終わり、夫婦二人きりの生活になって数年経ちますが、こうして二人で旅行なんて新婚旅行依頼でした。
旅行先は麻衣子が決めてくれました。山奥の温泉旅館で、美味しい食事と静かなひと時を楽しむプランです。普段は都会暮らしの私たちにとって、自然に囲まれた場所でリフレッシュできる絶好の機会でした。宿の予約やルートの確認など、準備は私が担当しました。すべて完璧に整えたつもりでした――そう、あの日までは。
当日は快晴で、絶好のドライブ日和。車に荷物を積み込み、朝早く出発しました。久しぶりの遠出に麻衣子も楽しそうです。道中、緑豊かな景色を楽しみながら山間の観光地に立ち寄り、少し早い昼食には名物の山菜そばをいただきました。写真を撮り合ったり、地元の野菜を買ったりして、二人だけの時間を満喫。車内で流れるラジオの音さえ心地よく感じられました。
道中観光したとはいえ、約8時間の移動でした。かなり疲れた状態でようやく目的地である温泉旅館に到着しました。しかし、ここで予期せぬ事態が起きたのです。
そう。予約が入っていなかったのです。フロントで告げられた言葉に、私は耳を疑いました。確かにネットで予約手続きをしたはずです。けれどもスマートフォンを確認すると、予約完了のメールが届いていないことに気付きました。完全に私のミスでした。
「申し訳ありません、満室でして……」とスタッフが申し訳なさそうに言います。慌てて近隣の宿を紹介してもらいましたが、山奥の立地ゆえに数少ない宿泊施設はどこも満室でした。時刻もすでに19時近く、辺りは薄暗くなり始めています。
「とりあえずご飯でも食べに行こ」と麻衣子は焦るそぶりも見せずなんだか楽しそうでした。私のせいで旅行が台無しになってしまった。そんな思いが頭を巡り、何も言葉が出てきません。
仕方なく車を走らせながら店を探しましたが、この山奥では食事処すら見当たりません。1時間ほど走ったでしょうか。ぽつんと光る看板が目に入りました。それは小さなラーメン屋でした。
「ここにしよ」と麻衣子が促し、店内に入ると古びた木造のカウンター席が並んでいました。本当なら豪華な和会席を楽しむはずだったのに、こんなラーメンとは……情けなく思いながらも、私は無言でラーメンを注文しました。
「おいしいね!」と笑顔で箸を進める麻衣子。その姿に、私は少しだけ救われる気がしました。けれども、自分の不甲斐なさを思うと胸が痛みます。
食事を終え、再び車を走らせましたが、当然ながら田舎に宿泊施設などそうそう見つかりません。ここまで来るのに8時間ほどかかっています。帰りはまっすぐ帰るとはいえ、5時間はかかると思います。疲れ切っていて、正直これ以上運転する自信はありませんでした。そのとき、麻衣子が「あそこで休も!」と叫んだのです。
それは「道の駅」の標識でした。到着すると、広めの駐車場にキャンピングカーやワンボックスカーが何台も停まっており、車中泊ができる場所のようです。
「ここで休もうか」と麻衣子が提案してくれ、私は車を駐車しました。トイレを済ませ、顔を洗って仮眠の準備を整えました。私の車もワンボックスなので車の後部座席を倒せば横になるスペースは十分ありましたが、なかなか気が休まらず眠れなかったのです。
「眠れないの?」と麻衣子が声をかけてきました。「いいじゃん、眠たくなるまで話してようよ」と笑顔で言います。そんな明るい彼女に、私は少しだけ気が楽になり、「そうだな」と応じました。
麻衣子が「ほら、見て!」とサンルーフを開けると、そこには一面の星空が広がっていました。無数の星が瞬く光景に、私は言葉を失いました。「すごいね、こんなに星が見えるんだね……」と麻衣子が感嘆の声を上げます。その時、静かな夜に微かに何かの声が混じりました。
サンルーフを開けたことで、車内にひんやりとした夜の空気が入り込みます。星空の美しさに見とれながら、ふと耳に微かな声が届きました。何だろうと思い耳を澄ませると、どうやら少し離れた車からエンジン音と共に男女の声が聞こえてくるようです。はっきり聞こえるわけではないものの、それがどういう種類の声かはすぐにわかりました。
麻衣子と私は顔を見合わせました。互いに何も言わず、数秒の沈黙が流れます。その後、麻衣子が「すごいね……」と小さく笑いました。その言葉に私も思わず吹き出してしまいました。
麻衣子のその無邪気な笑顔を見た瞬間、私は何とも言えない感情が胸に込み上げました。
気がつけば私は麻衣子に近づき、そっとキスをしていました。麻衣子は驚いたような表情を見せましたが、すぐに微笑み、私たちの距離は不思議と縮まっていました。
麻衣子も少し照れくさそうにしながら「こういうの、久しぶりね」と呟きます。その声がどこか柔らかく、心地よい響きに聞こえました。そして、いつの間にか私たちは自然に身を寄せ合い、まるで若い頃に戻ったような感覚で、生まれて初めての車の中で、若い子たちのように親密な時間を過ごしてしまいました。
外の夜空と星々が見守る中、私たちだけの小さな世界が広がっていました。普段とは違う非日常の環境のせいか、どこか大胆な気分になっていたのかもしれません。「こんな歳で何をやってるんだ」と頭の片隅で思いつつも、それ以上に新鮮な感覚と麻衣子への愛情に満たされていました。
行為が終わった後、私たちは顔を見合わせ、恥ずかしさでお互いに笑い合いました。まるで若い恋人同士のような気分でした。「こんなこと、人生で初めてだね」と麻衣子が小声で呟き、私も「そうだな」と答えました。そのまま寄り添いながら、いつの間にか眠りに落ちていました。
朝、まだ明るくなる前の薄暗い時間、他の車が動き始める音で目が覚めました。横を見ると、麻衣子が穏やかな寝息を立てて眠っています。昨日のことを思い返すと、改めて自分たちの間にこんな温かい瞬間が残っていたのかと感慨深くなりました。
「旅行は失敗したと思ってたけど、最高の思い出になったな……」
そう心の中で呟きながら、麻衣子の寝顔をそっと見つめました。こんな予想外の旅でも、彼女の明るさと優しさで乗り越えられるれたのです。私は心の底からそう感じました。
少しして麻衣子も目を覚まし、「おはよう」と笑顔を見せてくれました。その笑顔は昨日よりも柔らかく、優しく見えました。これからの人生、退職後の新しい時間も、きっと二人なら楽しくやっていけるだろうとそんな確信が胸に湧いてきました。
「帰りはどこ寄り道しようか」と麻衣子が言い、私は「そうだな、いろいろ寄り道しようか」と応じました。二人で一緒に食べる朝ごはんの計画を立てながら、道の駅を出発しました。
山奥の旅は思わぬ展開となりましたが、私たち夫婦にとって忘れられない特別な一日となったのは間違いありません。