
私の名前は田中百合。61歳になりました。夫の達男は63歳、結婚して40年近くなります。早いものですね。子供たちもそれぞれ家庭を持ち、今は夫婦二人の静かな日々を過ごしています。達男は定年後、近所のホームセンターでアルバイトを始めました。私が言い出したことです。だって、家にいると暇を持て余して、「なあ、今日もいいだろ?」なんて毎日言われるんですもの。
正直、夫婦の関係がまだ現役なのは別に良いんです。むしろ、こんな歳になっても求められること自体はありがたいことだとわかっています。でも夫の性欲は凄まじく定年後は毎日要求してきました。さすがに毎日となると話は別です。結婚したての頃ならいざ知らず、35年の月日を経て、私も少々どころかかなり疲れます。
「エネルギーが余ってるなら少しは外で働いてきたら?」そう提案してみると、達男は意外にもあっさりと了承してくれました。「お前も働いてみたらどうだ?二人とも家にいない方がバランスが取れるだろ」と言われて、なるほどと思いました。ちょうどその頃、スーパーのパート募集の広告が目に留まり、私も働き始めることにしました。
退職金は受け取ったものの、年金が始まるまでの収入が無いというのはやっぱり不安です。それに、家にずっといるのは退屈ですから。新しい制服に袖を通し、少し緊張しながら初出勤の日を迎えました。
ところが、その初日を迎える少し前に、私はある異変に気が付きました。「あれ?生理が来ていない……」気がつけば、もう丸2カ月です。生理なんかあるか!と言われると思います。この歳なら閉経してて当たり前だと思うと思います。でも、私はつい最近までちゃんと生理が来ていたんです。むしろ、60を過ぎてもあることに、友人たちも自分でさえも驚いていました。
その時ふと頭をよぎったのが、以前テレビで流れていた話。70歳を超えての出産したという女性のニュースです。もちろんその方は医療の力を借りていたのでしょうが、それでも「70代で子供を産む」というフレーズが妙にリアルに響きました。「え?もしかして、私も……?」そんな不安が膨らんでいました。
夫にそのことを打ち明けると、「そんなわけないだろう!」と笑い飛ばされました。でも、私の顔が真剣だとわかると、「じゃあ病院に行こう」と言ってくれました。「俺も一緒に行くよ」とまで言ってくれたのです。その言葉には少し安心したものの、産婦人科に行くというのはこの歳になるとかなりの抵抗があります。夫も同じだと思います。それでも一緒に行こうと言える夫には感謝しかありません。
いよいよ病院に行く日がやってきました。待合室で順番を待つ場所は、若い女性たちばかり。明らかに場違いな気分で、ものすごく居心地が悪かったです。「田中さん、どうぞ」と名前を呼ばれたとき、私は思わず肩をすくめてしまいました。診察室に入ると、優しい笑顔の先生が迎えてくれました。私は緊張しながら、これまでの経過を説明しました。
先生は穏やかに話を聞き、いくつかの質問を投げかけました。そして、検査結果が出るまでの間、「ここまでお元気に過ごされているのは素晴らしいことですよ」と言われました。その言葉に少しだけ肩の力が抜けた気がしました。
検査の結果が出て、先生が優しく告げました。「妊娠ではありませんよ。安心してください。」その言葉を聞いた瞬間、私の体から緊張が一気に抜けました。「ただ、数カ月前まで生理があったというのは非常に珍しいことです。閉経が遅い人は長生きすると言われていますから良かったですね。ただ、これから体の変化が徐々に始まるので今まで以上に体を労わてくださいね。」とのことでした。先生の言葉には温かさがあり、私は何度も頷きました。
待合室に戻ると、夫が不安そうにこちらを見ていました。「どうだった?」と聞く彼に、「妊娠じゃなかったみたい」と答えると、彼の顔にもホッとした表情が広がりました。「だから言っただろう?」なんて笑っていますが、その目には少し心配の色が残っていて、それが妙に嬉しく思えました。
帰り道、私は車の助手席で窓の外を眺めながら、ふと夫のことを考えました。付き合い始めた頃、彼は不器用で口下手でしたが、いつも一生懸命で頼り甲斐がありました。結婚してからは、それが「無愛想」とか「鈍感」とか、私の不満になることも多かったけれど、今日みたいに私を気遣ってくれる姿を見ると、やっぱり優しい人なんだなと改めて感じます。
家に着くと、夫はそのまま台所に向かい、コーヒーを淹れてくれました。「ほら、甘いの入れといたから飲めよ。」そんな彼の言葉に、私は「ありがとう」と素直に答えました。
その夜、達男がぼそっと言いました。「お前がいなくなると困るからな。健康には気をつけてくれよ。」思わず笑ってしまいました。「いなくなるなんて…。先生には長生きするって言われたわよ。でも、ありがとうね。」その瞬間、何だか胸がじんわりと温かくなりました。
翌日からはスーパーの仕事にも少しずつ慣れ始めました。お客さんと接する中で、久しぶりに「ありがとう」と直接言われる喜びを感じています。単調な作業と思っていた仕事も、意外と楽しいものです。毎日の生活に少しずつ活気が戻ってくるのを感じました。
そんな中、ある日ふとロッカールームで同僚たちが話しているのが耳に入りました。「田中さんって、すごく若々しいよね。あの元気、どこからくるんだろう?」なんて声が聞こえてきて、思わず笑いそうになりました。そうか、これも夫が今も愛してくれているからなのかもしれません。
最近は仕事帰りにお気に入りのパン屋でクロワッサンを買い、家に持ち帰るのが最近の楽しみになりました。家に帰ると夫が「今日の戦利品は?」と茶化しながら聞いてきます。二人でクロワッサンとコーヒーを楽しみながら、こうして歳を重ねていくのも悪くないと思いました。
「ねぇ、達男さん。私たち、まだまだ現役よね?」と笑いながら聞くと、彼は少し照れたように「おう、そうだな」と短く答えました。その言葉が、妙に頼もしく感じられました。
これからもこんな風に二人で笑い合いながら、日々を重ねていけたら。それが、今の私の一番の願いです。