私の名前は大岩静子72歳です。隣にいるのが大岩光春、76歳。今でこそこうやって縁側でふたりお茶を飲むなんてことをしていますが、若い頃はこんな未来があるとは思っていませんでした。
私と光春さんはいわゆるお見合い結婚でした。正直に言えば、私はあまり結婚に興味がなかったのです。この時代の女としてはかなり珍しい方でしょう。女は結婚して子供を産んで一人前と考えられていた時代でしたからね。私も子供の頃から母や祖母に『女の幸せ』について聞かされて育ちました。皮肉なもので、その育て方が逆に私から結婚への興味を奪っていたことを母や祖母は気付いてもいないでしょう。
親戚のおすすめでお見合いをした人が今の夫、光春さんです。どうやら彼も家族や親戚から結婚が遅いと心配されてお見合いを用意されたそうです。写真でも誠実そうな人だと思いましたが、実際に会ったら予想以上に優しそうな人でした。ただ、ひとつだけ心配だったことが母親の言いなりだったということです。光春さんは「このお見合いも母に言われたんですよ」と隠さずに言ってきました。隠しごとがないのは良いことですが、逆を言えば母親の言いなりのような印象を受けました。だけど、私も親戚から結婚を急かされることに嫌気がさしていたこともあって、光春さんとのお見合いを受け入れてとんとん拍子に結婚をしました。
結婚して数年、義父母との同居も相まって私の生活はなかなか大変なものでした。特に結婚して数年経つのに子供ができないことで義母からは色々といびられてきたものです。今では些細なことでもハラスメントで問題になる時代ですが、私が若い頃は『女は子供を産んで当たり前』『子供を産まない嫁は役立たず』と言われていた時代です。しかも、光春さんの家はそれなりの名家で跡取りとなる男の子を産めと何度も言われていました。
「役立たずの嫁に与えるご飯はない」と言われて、ご飯を食べられない日もありました。ただ、私にとって幸いだったことは光春さんが私の味方だったということです。ご近所さんの話と聞くと「うちの夫は母親の言いなりで私の味方をしてくれない」という人が多かったです。実際にこの時代の男性は妻よりも実の母親を優先する人が多くいたので珍しくはなかったです。だから、私の味方をしてくれていた光春さんの方が珍しい方だったのです。
義母が私をいびっていると「母さん、子供は授かりものなんだから彼女のせいだけじゃない」と言って間に入ってくれたことも嬉しかったです。そのたびに義母は「母親よりも嫁を優先するなんて!」と怒っていましたけどね。光春さんが庇ってくれているから、私は「まだこの家で頑張れる」と思えていたのだと思います。
そして念願の子供に恵まれて、私も光春さんも喜んでいたのですが義父母は「女か」とあからさまにがっかりしていました。そして「跡取りを産むまでは嫁とは認めない」なんて言われてしまいましたけどね。この頃になると、義父母からいびられてつらいという気持ちよりも「はいはい、なんとでも言いなさいよ」と思う気持ちの方が強かったかもしれません。元々の私は気が強い方なので、こんな気持ちを持つことができたのかもしれませんけどね。その証拠にご近所さんに嫁いできた人たちからは「あんな仕打ちされてつらくないの?」と言われることが多かったですから。だけど、光春さんが味方でいてくれたことで私の心の最後の柱は折れることがなかったんだと思います。
娘が生まれてから5年後に息子が生まれました。その時の義父母は見たこともないような喜び方をしていたんです。だけど、光春さんは自分の親のそんな態度を冷めた目で見ていました。そして「娘が生まれた時はそこまで喜んでくれなかったのに」と言って、同居解消を求めたんです。まさか同居解消を求めるなんて思わず、義父母だけではなく私も驚きました。義父母は慌てて「何を言っているんだ!」と言っていましたが、光春さんの心は変わらず、息子のお披露目から1ヶ月経たないうちに少し離れたところに引っ越すことになりました。
光春さんは「もしも両親に介護が必要になってもしなくていい」と言ってくれました。光春さんが言うには、いつか義父母が私を認めて仲良くしてくれるんじゃないかと期待があったそうです。だけど、娘と息子の喜び方の差を見てからそんな未来はありえないと感じ取ってしまったのだと話していました。光春さんは長男なので義父母の介護は私の仕事という思い込みもありました。それと同時に「あんな仕打ちをした人たちの介護をなぜしなければいけないの?」と思う気持ちがあったことも事実です。だから、光春さんの言葉はすごく嬉しかったんです。両親よりも私のことを最優先してくれたということが、自分で思っていた以上に嬉しくて涙がぼろぼろとこぼれたことを覚えています。
同居解消してからも義父母からの連絡は途絶えませんでした。何度も電話をしてきて「孫に合わせろ」や「お前が息子をたぶらかしたんだろう!」など自分たちが悪いとは一切思っていない言葉ばかりでしたね。義父母から連絡が来たら教えてと言われていたので、逐一光春さんに伝えていました。そのため、連絡があった後は義父母に連絡をして、光春さんからお叱りの言葉を受けていたようです。
「これまで間に入るだけで根本的な解決をしてこなかった俺が悪かったんだ、ごめん」
「光春さんはいつも私の味方をしてくれていたじゃない」
「でも味方をするだけで何もできなかったよ」
「ううん、光春さんがいてくれたから頑張ろうって思えたんだから」
これは本音です。光春さんが庇ってくれていなかったら、きっと私の結婚生活は早々に終わりを告げていたことでしょう。宝物である娘や息子にも会えないまま離婚していたはずです。それに最終的に同居解消を選んでくれた光春さんには感謝しかありません。ちなみに、義父母はひとり息子から同居解消を申し出られたということでご近所さんや親戚からも白い目で見られるようになっていたのだそうです。この頃は何よりも世間体を大事にする時代だったので、義父母にとっては何よりの制裁になっていたのではないでしょうか。私の子供たち、特に娘は幼いながらも冷遇されていたことを覚えているのか父方の祖父母に会いたいとは一度も言いません。息子も何かしら事情があると察しているのか、父方の祖父母のことは何も言いませんでした。
ただ、今の私は70代。私も義母と同じ姑の立場になってから、少しだけ義母の気持ちが分かる部分があるんです。自分の子供が可愛くて何でも口出しをしてしまう気持ちは私にもあります。だけど、義母からされたことがあるので息子や娘、そして結婚相手には過度な干渉をしないようにしています。それだけではなく、娘や息子に「自分の結婚相手よりも母親を優先させる人になってはダメ」と子供たちがある程度大きくなってから言い聞かせ続けていました。例え、結婚相手の方が悪かったとしても一方的に母親の味方をしてしまえば余計に関係は悪化してしまいます。だけど、まずは自分のお嫁さんや夫が味方をしてくれたら気持ちが落ち着く部分もあるはずです。
「光春さん、大好きですよ」
「ど、どうしたんだ、突然……」
「うふふ」
光春さんにとっては突然の言葉かもしれませんが、私はずっと思っていました。こうやって幸せをかみしめられるのは光春さんの優しさのおかげなのだと。これまでの長い人生、そしてこれから先の人生もずっとこうやって穏やかに過ごせることを願っています。