
私の名前は中田浩司と申します。
今年で五十八歳になりまして、もうすぐ定年を迎える身です。
身体のあちこちがギシギシとさび付いているのを感じるたびに、「ああ、歳を取ったなあ」としみじみ思います。
もちろん仕事はまだ続けております。というか、辞めるわけにもいきません。
なんせ家のローンがあと数年残っておりますし、毎月の生活費だって、年金に頼るにはまだ早いです。老体にむち打って働くという表現が、今の私にぴったりな言葉です。
妻は佐知子といいまして、私より三つ年下の五十五歳です。明るくて、気が利いて、穏やかな性格の人です。長年一緒に暮らしてきたこともあり、最近では言葉を交わさずとも、お互いの考えていることがだいたいわかってしまう。そんな関係です。
結婚して三十五年が過ぎました。子どもは二人おりまして、どちらもすでに結婚し、それぞれの家庭を築いております。
ですので、今は夫婦ふたりだけの生活。静かなもので、朝も夜も、テレビの音が家のなかでいちばんにぎやかなくらいです。
私は仕事から帰ると、晩飯を食べ、風呂に入り、そのまま布団に直行する毎日です。
疲れていることもありますし、最近は眠気がやたらと早く訪れるんです。佐知子もその辺は理解してくれているので、あまりうるさくは言いません。会話はありますが、夫婦というよりも、長年連れ添った家族ですね。
いや、もちろん夫婦は家族なのですが、かつて感じていたような、男と女としての意識は、いつの間にか遠ざかってしまっていたように思います。
そんなある日のことでした。ちょうど日曜日で、私はひさしぶりに車の洗車をしました。午後からは妻とスーパーに買い出しに出かけ、午後は録り溜めたテレビを一緒に見ながら、のんびりと過ごしておりました。
そして夜。私はいつものように、先に布団へ入り眠っていました。
横になった途端、日ごろの疲れが訪れてきてすぐに眠ってしまいます。どれくらい寝たのでしょうか、そのときでした。
ふと、布団に誰かが入ってくる気配を感じたのです。振り返ると、そこには佐知子がいました。
妻は私の背中にそっと腕を回してきたのです。
私は一瞬、息を呑みました。こんなふうに妻が自分から距離を詰めてくるなんて、正直なところ何年ぶりだったでしょうか。
驚きと同時に、どこか嬉しさもありました。
ですが……身体は正直でした。疲労と眠気が限界だったのです。もちろん気持ちはありましたし、応えたい気持ちも確かにありました。けれど、その夜の私は、もう目を開けているのもつらくなるほどに、ぐったりとしておりました。
「……ごめん、今日は……」
そう言ったところで、私の意識は飛んでいました。
そのまま、私は眠りにつきましたが、朝になってから心のどこかに引っかかるものが残りました。あれは夢だったのか、現実だったのか区別がつきませんでいた。それに、せっかく妻が勇気を出してくれたのに、何も応えられなかったことが、情けなくて、申し訳なくて。
ああ、自分はもう、そういうことに応じるだけの男じゃなくなってしまったんだろうか。そう思うと、ますます気分が沈んでしまいました。
あの日から、私の中に小さなモヤのようなものが残るようになりました。
別に、口に出して何か言われたわけではありません。
佐知子はいつもと同じように台所に立ち、私の帰宅時には「おかえりなさい」と笑顔で迎えてくれます。
でも、どこか……そう、ほんの少しだけ、彼女の目の奥に寂しさのようなものを感じた気がしたのです。
きっと気のせいかもしれない、でも、あの夜の背中越しの沈黙が、私には妙に引っかかっておりました。
そんなある日のことです。その日も仕事でくたくたになって、駅からの帰り道をとぼとぼ歩いていたときのことでした。
ふと、目に留まったのは、お隣のご自宅の庭の奥に停めてあるワンボックスカーでした。いや、正確には「ギシギシと音を立てて揺れている車」でした。最初は気のせいかと思いました。風でも吹いていたのか、とも。
けれど、次の瞬間、私ははっきりと「ギシ、ギシ」と軋むような音を耳にしました。それに……声のようなものも、微かに聞こえた気がしました。
お隣さんの家には明かりがついていました。けれど、なぜ車の中に?家に誰かがいるわけではないのはわかっています。
私と同じ、夫婦ふたり暮らしのはずです。まさか、とは思いました。ですが、それ以外考えられませんでした。
私はそのまま家に入ったものの、どうしてもお隣さんが気になってスーツのまま、自室のカーテンの隙間からそっと外を見てしまっていたのです。何かが起きるのではないかと、期待するような目で。
しばらくすると、車のドアが開きました。そこから降りてきたのは、お隣のご夫婦でした。
何ごともなかったように、ごく自然な動きで家へと入っていきました。
……やはり、そういうことだったのでしょう。私の心は、なんとも言えない感情でざわつきました。
驚きと、戸惑いと、そして…私は興奮していました。
恥ずかしながら、その時の私は、ただただその光景に見入ってしまっていたのです。
あの年齢で、そういうことを、しかも車の中で。家の中に何か事情があるわけでもないと思うし。
もしかしたらあれは、ふたりの遊びなのかもしれません。ちょっとした刺激。
そういうものを、夫婦の間に取り入れているのかもしれません。
その夜、布団に入っても、私はずっとあの光景を思い出しておりました。佐知子はすでに寝息を立てて眠っていました。
静かな部屋の中で、私は一人、胸の中に渦巻く感情に戸惑っていました。
「…もしかして、あの夜、佐知子もお隣さんを見たのではないか」ふと、そんな考えがよぎったのです。
あのとき、あんなふうに私に寄り添ってきたのは、何かきっかけがあったからではないか。もしそうだとしたら。
あのとき、応えてやれなかったことが、やはり悔しくなってきました。
それからというもの、私は妙にお隣の車が気になってしまうようになりました。帰ってきたら異常な程ゆっくりと着替えながらお隣さんを覗くのが完全に習慣と化していたのです。
仕事から帰ってくると、まずあのワンボックスが庭に停まっているかどうかを確認する。車内はもちろん見えません。
ですが、揺れていたら……という期待が、どこかにあるのです。
今思えば、まったくもって恥ずかしい話です。まるで、男の矜持をどこかに置き忘れてきた中年が、よそさまの夫婦に影響されて心をかき乱されていたのですから。けれど、事実、私はそうなっておりました。そしてある日——
ついに、またその瞬間がやってきたのです。
その日も遅く帰ってきて、玄関を開けようとしたときです。「ん?」と、違和感を覚えました。視線の先には、あの車。
そして、車の軋み音が聞こえました。
私は、靴を脱ぐのもそこそこに、そっと窓際へと向かいました。そして……再び、その様子を見てしまっていたのです。
どれくらい覗いていたのか分かりません。そのときでした。
「何してるの?電気もつけないで」背後から声がして、びっくりして思わず肩が跳ねました。佐知子でした。
私は「いや、別に……」と口ごもりましたが、彼女の視線が、私の下半身に向けられているのに気づき、思わずごまかすように短パンをはきました。一階に降りました。
なぜか胸がドキドキしておりました。まるで、見つかってはいけないことをしていた少年のような気持ちでした。
そのときの佐知子の目は、何かを知っているようで、どこか不敵な笑みを浮かべているようにも見えました。
その夜のことです。いつものように風呂を済ませて、布団に入っておりました。
けれど、頭の中は妙に冴えておりまして、あの車の揺れ、佐知子の雰囲気が、ぐるぐると私の中で巡っておりました。
もしかして…。いや、間違いなく気づかれていたのだと思います。私が何を見ていたのか、どういう気持ちでそこに立っていたのか。寝返りを打ちながら、どうにも寝つけずにおりましたら、隣から、佐知子の声がふいに聞こえました。
「ねえ。お隣さんの、見てたんでしょ?」その問いかけは、あまりの直球でして、私は言い訳をしようかとも思いましたが、それも馬鹿らしく思えて、正直に「ああ」と、短く答えました。
すると彼女は、くすっと笑いました。笑っているのですが、どこか挑発的なような、見透かしているような、妙な色気を感じさせる笑い方でした。
「興奮してたの?」妻の言葉に思わず、返す言葉が詰まりました。否定したところで、すでにバレている。
なのに、どうしても素直に認めるのが恥ずかしくて、私はただ黙ったまま、枕に顔を向けました。
それが彼女にとっては、また面白かったのかもしれません。
くすっと笑い声が聞こえました。…それに対し私はなんだか、腹が立ったのです。いや、違いますね。
悔しかったのかもしれません。このまま、何もせずに寝てしまったら、またあの夜のように、私は何もできないまま終わってしまう。
そう思った瞬間、私は反射的に佐知子の布団をめくり、その身体をこちらへと引き寄せていました。
「ちょっと、なに……」彼女の驚いた声に構わず、私は佐知子の身体をそっと抱きしめました。
…あたたかかったです。そして、懐かしい匂いがしました。
若い頃にはよく感じていたはずの匂いなのに、長い年月のなかで、私はそれを忘れてしまっていたのかもしれません。
佐知子は、はじめは戸惑っていたようでした。けれど、私の腕が彼女の背中に回り、そっと抱き寄せたその瞬間、
彼女の身体も、力が抜け寄り添ってきてくれました。
「…久しぶりだね」妻は、ぽつりとそう呟きました。私は黙ったままでしたが、彼女の体温が少し上がったように感じました。
あれほど自信をなくしていた私の身体も、なぜか、いや、当然のように反応しておりました。この十年、私は自分を男として終わった人間だと思い込んでいました。でも違ったのです。
目の前にある温もりと気持ちとが重なったとき、人はこんなにも素直になれるのだと、はじめて気づきました。
ゆっくりと、ほんとうにゆっくりと、私たちは身体を重ねました。
ぎこちなかったですし、正直なところ、最初はどうしていいのか分からないような手探りでした。
でも、それでも、お互いに心を寄せ合うことが、こんなにも心地よいのだと、私は思い出しました。
「…大丈夫か?」途中、そう聞いた私に、佐知子は微笑んで「うん」と答えてくれました。
そのひと言が、どれほど嬉しかったか。まるで、許されたような気持ちでした。
行為が終わったあと、私たちはしばらく無言で横になっておりました。その沈黙がまた、心地よいものでした。
やがて、佐知子がぽつりとつぶやきました。
「…お隣さんね、たまに車でするんだって。マンネリにならないように、って」私は思わず吹き出しそうになりましたが、
「じゃあ、うちも今度やってみるか」と冗談を返しました。
すると佐知子は、くすっと笑って、
「やめてよ。うちは駐車場狭いし、ご近所さんにすぐバレちゃうわよ」そう言って、私の腕を軽く叩いてきました。
「じゃあどっかに行ってするか?」と、さらにからかうように言うと、
彼女は少しだけ顔を赤らめながら、「バカ」と言って、布団のなかに顔を埋めました。
…ああ、これだ。この感覚こそが、ずっと忘れていた夫婦の時間だったのだと、私はそのとき心から思いました。
その夜を境に、私たち夫婦の間に、なにか小さな変化が生まれたように思います。
もちろん、毎晩のように抱き合うような関係になったわけではありません。
そういうのは、若い頃のようにはいきませんし、体力も気力も、正直昔ほどは続きません。
けれど、あの夜に交わしたぬくもりと、あのときの言葉のひとつひとつが、
私たちの間に、ゆるやかな温度を取り戻してくれたような気がいたします。
それ以来、佐知子の表情も少し柔らかくなったように感じます。
朝起きたとき、「おはよう」と声をかけてくれるその響きが、どこかほんのり甘くなった気がして、
それだけで、私はなんだか照れくさいような、うれしいような気持ちになります。
私のほうも、気がつけば、帰宅するとすぐ着替えずにリビングに座って、
佐知子が作ってくれるお茶をゆっくり味わうようになりました。
たわいもない会話が、以前よりも少し増えたような気がします。
彼女の好きなドラマの話や、近所の花壇の花が咲いたこと、最近読んだ本のこと。
そんな小さな話題が、夜の食卓にぽつぽつと並ぶのです。
そして、ハグ。これが不思議なことに、毎日の習慣のようになりました。
寝る前、佐知子が私の腕にそっと自分の手を絡めてくるのです。
最初は驚きましたが、すぐに私もその手を包み込むようになりました。
抱きしめるというほどではありませんが、それでも十分です。
言葉を交わさなくても、手と手で気持ちを確かめ合う。
そんな夜のひとときが、今の私にはとても愛おしいものになりました。
先日、ふたりで近所のスーパーに買い物に出かけた帰り道、
ふとした拍子に佐知子がこう言いました。
「ねえ、今度さ、どこか出かけない? 少し遠くの温泉とか。昔みたいに」私は驚きましたが、うれしかったです。
あの佐知子が、そんなことを言ってくれるなんて。
思わず私は、「いいね。今度の連休にでも行くか」と答えました。
たぶん、私たちはこれからも年老いていくのでしょう。
白髪も増えますし、耳も遠くなるかもしれません。
そのうち、どちらかが先に弱っていく日が来るのだと思います。
でも、だからこそ、今こうして、もう一度夫婦として向き合えたことは、
何ものにも代えがたい「贈り物」だったのだと感じています。あの夜、お隣の車が揺れていたこと。
まさかそんな出来事が、私たちの関係に火を灯すきっかけになるとは、思ってもいませんでした。
もちろん、お隣のご夫婦には感謝すべきかどうか微妙なところですが…心のどこかで、「ありがとう」と思っている自分がいるのも事実です。
私たち夫婦は、まだまだ先があると思っています。
あと何年一緒にいられるかはわかりませんが、
きっとこの先も、小さな変化を楽しみながら、少しずつ新しい夫婦の形を築いていける気がします。
「浩司さん、これからもよろしくね」ある晩、布団の中で佐知子がそう言いました。
私はそのとき、手を握り返して、こう返しました。
「ああ、長生きしような。」
この手の温もりを、いつまでも忘れずにいられるように、私は佐知子の手を、もう一度強く握り直しました。