
私の名前は根室敦子、もうすぐ59歳になります。夫とは結婚して35年近くになります。子どもたちは独立し、今は二人で静かに暮らしています。
今回は久しぶりに用事があり私の実家へ行くことになりました。両親も高齢になり、なかなか頻繁には顔を出せなくなっていましたが、そろそろ顔を見せておこうと思い、夫と車で向かうことにしました。
片道約8時間の長旅です。朝早く出発し、途中のサービスエリアで軽く休憩しながら、私は助手席で景色を眺めていました。天気が少し気になっていましたが、予報では午後から雪の予報が出ていたものの「まあ大丈夫でしょう」と楽観的に考えていました。
ところが、4時間ほど走ったところで、高速道路が雪のため通行止めになってしまったのです。
まさかと思いました。夫はラジオの交通情報を確認しながら「これは当分動かないな」とため息をつきました。しばらく待ちましたが、すぐの通行解除の見込みはなさそうでした。
「仕方ないな、一般道に切り替えるか」
夫がナビを見ながら迂回ルートを探します。でも、どの道も雪が積もっていて、スムーズに進める保証はありません。私も改めて外を見ました。雪はしんしんと降り続け、路肩の標識もすでに雪に埋もれかけています。
「こんなに降るなんて思わなかったな」夫がぼそっとつぶやきました。私もここまでの積雪は想像していませんでした。
一般道へ出てみたものの、山道は凍結していて、スピードを出すのも怖く、慎重に走るしかありませんでした。しばらくすると周りの景色はすっかり暗くなり、民家の灯りもまばらになってきました。時計を見ると、出発からすでに10時間近く経っていました。
「ねえ、これ今から行っても着くの夜中じゃない?」
「うん、たぶん真夜中になるよな」
「どうする? どこかで泊まる?」
「でも、こんな田舎で宿なんてあるか?」
夫の言葉に、私はまた外を見回しました。ビジネスホテルどころか、コンビニすら見当たりません。そもそも、こんな雪の中で営業している宿があるのかも分かりません。
そんなとき、夫が「ここにしよう」と指さしました。
目の前にあったのは、ラブホテルでした。
私は思わず目を疑いました。
「えっ……?」夫は落ち着いた様子で「あそこなら空いてるだろ」と言いました。
私は一瞬、冗談かと思いました。でも夫の表情は真剣そのものです。
「他に泊まれるところ、ないしな」たしかに、この雪道を無理に進むのは危険ですし、車中泊も寒さを考えると現実的ではありません。夫はかなり疲れているようでした。私はしばらく迷いましたが、結局、入ることになりました。
駐車場に車を停め、建物の入り口に向かいました。私はなんとなくうつむきながら歩きました。こんな歳になって、夫婦でラブホテルに入るなんて、誰かに見られたらどうしよう。そんな気持ちだったのです。
ちらりと夫の様子を伺うと、彼は妙にスムーズに入り口を通過し、迷いなく部屋のパネルを選んでいました。その手際の良さに、私は違和感を覚えました。
でも、今は考えないことにしました。とにかく休める場所が確保できたことにホッとするべきだと自分に言い聞かせました。
部屋に入ると、意外にも普通のホテルのような内装でした。派手な装飾や怪しい雰囲気もなく、落ち着いたインテリアに整えられています。
「思ったより普通の部屋ね」私は少しホッとして言いました。夫も「ああ、そうだな」と返しました。
しばらくすると、夫が「お風呂、溜めてきたから先に入ってきたら?」と言いました。
「じゃあ、お言葉に甘えて」私は浴室に入りました。
驚いたことに、バスタブは広く、足を伸ばしてゆっくり浸かることができました。ビジネスホテルだと狭いユニットバスしかないことが多いのに、ここは快適です。しかも、入浴剤まで用意されていました。私はお湯に浸かりながら、ふーっと息を吐きました。
ところが、そこでふとある疑問が浮かびました。
「……夫、なんでこんなにスムーズだったの?」チェックインのときも、部屋を選ぶときも、手慣れた様子だったのが気になります。
「まさか……来たことあるの?」私は急に不安になりました。いや、でもそんなはずは……。でも、どうしても疑いが拭えません。
お風呂から上がった私は、その疑問をぶつけずにはいられませんでした。
「ねえ、こういうとこに来たことあるの?」夫は目を丸くしました。
「は? なんで?」
「だって、なんかスムーズすぎるし!」私の言葉に、夫は困惑したような顔をしました。
「そんなわけないだろ……雑誌で見たことがあるだけだよ」私は夫の顔をじっと見つめました。
嘘なのか、本当なのか。夫の言葉が本当なら、私が疑っていること自体、失礼な話です。でも、どうしても納得できません。私は何も言わず、布団に入ってしまいました。夫はしばらく困った顔をしていましたが、何も言わずにお風呂へ向かいました。そのまま、私は目を閉じました。でも、心の奥が妙にざわざわとしていました。
夫がお風呂に入っている間、私は布団の中でじっと目を閉じていました。眠ろうと思っても、どうしてもさっきの疑問が頭から離れません。本当に夫はラブホテルに来たことがないのだろうか。
私は夫のことを信用しているつもりでした。でも、あのスムーズすぎる行動を思い返すと、どうしても心のどこかがざわつくのです。
こんなにスムーズに入れるものなの? 部屋の選び方も、チェックインの流れも、なんだか手慣れていたように思えてしまう。
私は考えれば考えるほど、納得できなくなってきました。
しばらくすると、浴室の扉が開く音がしました。夫が戻ってきたのです。
私は背中を向けたまま、何も言いませんでした。
夫は黙ったまま布団に入りました。おそらく、私がまだ怒っていることに気づいているのでしょう。しばらくの間、部屋の中は静まり返っていました。そして突然、夫がそっと私の肩に手を置きました。
「……敦子」夫の声は、いつになく真剣な響きを持っていました。
「本当に、来たことなんてないよ」私はその言葉を聞いて、思わず息を止めました。
「来るとしたら、敦子としか来ない」その言葉が、やけに静かに部屋の中に響きました。
私は夫の言葉をどう受け止めればいいのか分かりませんでした。でも、その手の温もりが、どこか懐かしいもののように感じられました。もう何年も、こうやって夫に触れられることがなかったことに気づきました。
夫はそのまま私の体を触っていました。求められていることを理解しました。
まさかこんな歳になって。私は、自分の中で忘れかけていた何かが、ふっと戻ってくるのを感じました。夫の腕に包まれながら、私は久しぶりに体を許したのです。八年ぶりの夜でした。もうそんなことはしなくなったと思っていたのに、触れられただけで、体の力が抜けていくのを感じました。夫のことを疑った気持ちなんて、どうでもよくなってしまいました。
ただ、今この瞬間が、なんだかすごく愛おしく思えたのです。
翌朝、目を覚ますと、夫が隣で目をこすっていました。
「おはよう」少し照れくさそうに挨拶すると、夫は「おはよう」と優しく微笑みました。
「朝風呂でも一緒に入るか?」夫がそう言いました。
「……朝から?」私は驚きました。でも、夫は恥ずかしそうに笑いながら、「せっかくだしな」と言いました。
結婚してから、夫と一緒にお風呂に入ることなんて、いつぶりでしょうか。
私は少し迷いましたが、「うん」と小さく頷きました。
浴室に入ると、昨夜の温かさがまだ残っているような気がしました。
お湯に浸かりながら、夫がそっと私の手を握りました。
「……昨日は、ごめんなさい」私は夫の顔を見ながら言いました。夫は何も言わずに、私をそっと抱き寄せました。
その腕の温もりを感じたとき、私は夫の言葉を信じようと思いました。
その後、ホテルを出て実家に着いたのは昼過ぎでした。思いがけない一泊でしたが、まさかこんな歳になってこんな経験をするなんて思ってもみませんでした。
そして、もう一つ。到着した夜には、私たちは筋肉痛で動けませんでした。
そんな、私たちにとって忘れられない思い出になりました。
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