私は香織。58歳の主婦だ。結婚生活30年以上。今、その長い年月が終わりを迎えようとしている。夫とは離婚に向けて話し合いを進めている最中だ。結婚当初は、夫と過ごす日々に少なからず幸せを感じていた。だけど、いつからかそれはすっかり色あせてしまった。
今朝もいつものように、夫が不機嫌そうに朝食をとっていた。無言で新聞を広げ、私に背を向けるようにしてコーヒーを啜る。彼が仕事から帰宅する頃には、私はいつも通り夕食の準備をして待っているのに、帰ってくるなり「疲れた」と一言だけで自室にこもる。言葉を交わすことなんてほとんどなくなった。
結婚生活がこのようになったのは、もう何年も前のことだ。最初は小さな不満だった。例えば、彼が私の作った料理に一言の感謝も言わず、いつもただ無表情で食べるだけ。それが徐々に、互いに無関心な態度へと変わっていった。私が話しかけても、彼は適当に相槌を打つだけ。次第に私は、何を話しても無駄だと感じるようになり、会話することさえも減っていった。
お互いに少しずつ距離を置くようになったのは、自然な流れだったのかもしれない。だが、それは無言のうちに蓄積された違和感や苛立ちの結果であり、気づけば私たちの関係は修復不可能なほどに冷え切っていた。それでも30年以上も夫婦を続けてきたのは、惰性だったのだろう。生活の一部として互いを必要としながら、心の中ではすでに別々の方向を向いていた。
そんな私を心配してくれたのは、意外にも夫の友人であるマサノリさんだった。彼は私たちの結婚の仲人も務めてくれた人で、昔からよく知っている。最近、夫から私たち夫婦の関係がうまくいっていないという話を聞いたらしく、電話をくれたのだ。
「香織さん、大丈夫かい?」正則さんは、電話越しに穏やかな声で尋ねてきた。私は少し驚きながらも、自然と胸の内に溜め込んでいた思いを話し始めていた。夫との距離感、言葉のない日々、そして離婚を考え始めた理由を。
「……離婚するしかないと思ってるんです。もう修復は無理だから。」そう言い切った時、私は自分の心が少しだけ軽くなった気がした。しかし、正則さんの返事は私を驚かせた。
「それなら、最後に一度だけ、夫婦交換を試してみるのはどうかな?」
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。夫婦交換?そんなことをして何になるのか、まったく想像もつかなかった。
「正則さん、それは一体どういう……」
「いや、無理にとは言わないよ。ただ、こういう方法で関係が改善した夫婦を何組か知ってるんだ。少し荒療治かもしれないけど、試してみても損はないと思うんだよ。」
正則さんの提案は、まるで冗談のように聞こえた。しかし、彼の真剣な口調から、これが本気の提案であることが伝わってきた。正直、私は迷った。夫婦交換なんて聞いたこともないし、そんなことをしたところで私たちの関係が良くなるとは思えなかった。それに、相手は正則さん夫婦だ。彼の妻はどんな気持ちになるだろうか。
「……それで、何か変わるとは思えないんですけど。」
「確かに、そう簡単なことじゃない。でも、もしかしたら新しい発見があるかもしれないよ。考え方が少し変わるだけで、また違った見方ができるかもしれない。」
正則さんの言葉には説得力があった。彼はこれまでも何度か私たち夫婦の仲を取り持ってくれたし、その度に本当に親身になって考えてくれた。だからこそ、彼が私たちの関係に対してここまで積極的に提案してくれるのが、何かのきっかけになるのかもしれないとも思えた。
「……わかりました。やってみます。」
私は、正則さんの提案に応じることにした。心のどこかで、これが最後のチャンスかもしれないという思いがあったのだろう。こうして、私たちの奇妙な夫婦交換生活が始まることになった。
正則さんとの生活が始まって数日が経った。最初はやはり違和感があったし、どう接していいのかも分からなかったが、彼は終始穏やかで、自然と私を気遣ってくれた。驚いたのは、正則さんが私の夫よりも家事ができることだった。私の夫は、家事を全く手伝わない人だった。
夕食を作っても、食べ終わった後に「ありがとう」の一言すら言わずに自分の部屋へ戻るのが常だった。それが普通のことだと思っていた私は、いつしか夫に何も期待しなくなっていたのだと思う。
しかし、正則さんは違った。朝、私がまだ眠っているときには、既にキッチンからお湯の沸く音が聞こえてきて、起きると朝食の準備が整っていた。卵焼きにサラダ、そして湯気の立つ味噌汁。彼はにこやかに「おはよう」と声をかけてくれる。その姿に、私は初めて新鮮な気持ちで朝を迎えた気がした。
ある日、買い物に出かけて少し遅くなってしまった時のことだった。いつもなら、夫はそんな私に不機嫌な顔をして「遅かったな」と言うのが常だったが、正則さんは何も言わずに「おかえり」と笑顔で迎えてくれた。そして驚いたことに、台所には既に夕食の支度が整っていた。煮魚に煮物、温かいご飯とお味噌汁。どれも私の好物ばかりだった。
「夕食、用意しておいたよ。遅くまでお疲れ様。」
そんな風に言われたのは、結婚して初めてのことだった。私は思わず涙が出そうになった。こんなに丁寧に誰かが私のために何かをしてくれるなんて。ずっと夫の世話をしてきた私にとって、その反対のことをされるのがどれほど心に沁みるものか、自分でも驚いていた。
正則さんと過ごす時間が増えるにつれて、彼の優しさや気遣いに次第に心が惹かれていった。夕食を一緒に食べながら、たわいもない会話を交わす。お互いの好きな料理や、昔の思い出話、そして正則さんが最近ハマっている趣味の話。そんな日常が、いつの間にか私の心を暖かく満たしていくようだった。
思えば、これまでの結婚生活で私たち夫婦はこんな風に会話を楽しんだことがあっただろうか。ふと、昔のことを思い返してみる。離婚の危機が何度かあったけれど、その度に正則さんが間に入って仲裁してくれた。いつも、彼がさりげなく助け船を出してくれていたおかげで、私たちはなんとか持ち直していたのだ。
「どうして、あの時気づかなかったんだろう…」
夜、一人になってベッドに横になった時、そんな思いが頭をよぎった。私にとって本当に大事に思ってくれていたのは、実は夫ではなく、正則さんだったのかもしれない。そう気づいた時には、もう心の中で答えが出ていた。
次の日、正則さんに思い切って気持ちを打ち明けることにした。夕食が終わり、二人で食器を片付けているときだった。私は深呼吸をして、正則さんの方を見つめた。
「正則さん、私…今の生活がすごく心地よいんです。今まで感じたことのない温かさがあって、あなたと一緒にいると安心できる。だから…すべてを捨てて、私とこれから生きてほしい。」
正則さんは少し驚いた顔をしたが、すぐにいつもの穏やかな表情に戻った。そして、少しの間沈黙が流れた後、静かに口を開いた。
「香織さん…ありがとう。でも、俺には愛している妻がいるんだ。彼女を裏切ることはできない。だから…ごめんな。」
彼の言葉はとても優しかった。でも、その優しさが逆に胸を締め付けた。私の心の中に広がっていた温かな感情が、静かにしぼんでいくのがわかった。正則さんの言葉に、何も言い返せなかった。ただ、黙ってうつむくだけだった。
その夜、私は自分の愚かさを噛みしめながら泣いた。これまで、夫との関係にすがってきたのも、自分が寂しさを埋めたかっただけだったのかもしれない。そして、正則さんの優しさに心が救われたのも、ただ自分が愛されたいと思っていたからに過ぎない。
でも、その優しさに期待をしてしまったのは私の勝手で、正則さんには彼自身の幸せがあった。
それから数日後、私の生活は元に戻った。夫と顔を合わせると、やはり会話はなく、重苦しい沈黙が流れるだけ。正則さんと過ごした時間がまるで夢のように感じられた。でも、その夢はもう手の届かない場所に消えてしまった。
「これでよかったんだよね…」
自分にそう言い聞かせながらも、心の中にはぽっかりと大きな穴が開いていた。正則さんの言葉が胸に深く刻まれて、私は再び夫との生活に戻るしかなかった。振られた悲しみが、まるで潮が引くように私の心に冷たく押し寄せてきた。
でも、それを口に出すこともできない。ただ、一人で受け止めるしかなく、私はまた夫のいる日常に戻るのだった。
それにまた夫と離婚の危機に陥れば彼に会える……