
季節の変わり目というのは、年を重ねるほどに身体でわかるようになるものです。
ほんの少し肌に触れる風の質が違うと、ああ、もうすぐ春だなとか、もう夏が来るんだなとか、言葉より先に肌が教えてくれるようになります。
その年も、まさにそんな時期でした。妻とふたりで暮らしてきた家を建て替えることになり、半年ほど仮住まいをすることになったのです。家の傷みも目立ち始めていたし、子どもたちに負担をかけたくないという思いもあり、思い切って全面的に手を入れる決断をしました。
仮住まいとして選んだのは、駅から少し離れた古いアパートでした。築四十年以上。家賃の安さが決め手でしたが、初めて玄関を開けたときの、なんとも言えない湿った空気と木の軋み具合に、正直なところ「やれやれ」とため息をついたのを覚えています。
けれど、住めば都とはよく言ったもので、最低限のリフォームはされていて、荷物を運び込んでみると意外と居心地は悪くありませんでした。ふたり分の布団と最低限の家具、それとちょっとした家電があれば、案外なんとかなるものです。
ただ、しばらく暮らしてみてすぐに気づいたのは——とにかく壁が薄いということでした。
夜になると、隣の部屋からテレビの音がうっすら聞こえてきますし、誰かが咳払いをすれば、こちらも思わず喉を押さえてしまうほどの近さです。お互いさまだな、と苦笑いしながら、私は少し気を遣うようになりました。大きな声で話すのも控えるようになりましたし、くしゃみのひとつにも気を配るようになりました。
そんな生活が一週間ほど過ぎたある晩のことでした。
その日は妻が実家に泊まりで出かけており、私はひとりで夕飯を済ませ、録画しておいたドキュメンタリーを見ながら、缶ビールをちびちびとやっていました。静かな夜でした。風もなく、外の音もあまり聞こえませんでした。
ところが、ふと違和感を覚えました。テレビからではない、どこか不自然な音が耳に残ったのです。最初は気のせいかと思いましたが、テレビの音量を下げてみると、それが隣の部屋から聞こえてくるものだとわかりました。
言い表すのが難しい音でした。怒鳴り声でも、笑い声でもない。むしろ、それらとは正反対の、熱を帯びた吐息のような音でした。私は思わず身を起こし、耳を澄ませてしまいました。壁越しのその気配は、次第に生々しさを増してきて、夫婦のあの時の声だと、すぐに理解しました。もしかしたら動画とかを見ているのかとも思いましたが、明らかに違いました。それは家もミシミシと振動していたからです。
驚きと、戸惑いと、何とも言えない感情が胸に広がりました。
まさかこの年齢になって、こんなかたちで他人の私生活を感じ取ることになるとは思いませんでした。しかも、あまりにも堂々としていて、声を抑えるそぶりもない。こちらが気まずさを覚えるほどに、情熱的なものが壁越しに響いていたのです。
隣には、確か私たちと同じくらいか、やや上の年齢に見えるご夫婦が暮らしているはずでした。引っ越してきたときに軽く挨拶を交わしましたが、特に強い印象は残っていませんでした。どこにでもいる、普通の夫婦。私たちと変わらない、穏やかに年を重ねてきた夫婦——そう思っていました。
けれど、その夜聞こえてきた声は、そんな私の思い込みを静かに、でも確実に打ち砕いたのです。
私は驚くと同時に、自分の中にある感情が静かに揺らぐのを感じました。羨望のようなものだったのかもしれません。
あるいは、取り残されたような、焦りにも似た感覚だったのかもしれません。
妻と私は、もう10年以上、そういった関係を持たずに過ごしてきました。
互いに歳を重ね、言葉を交わすことはあっても、触れ合うことは減っていきました。日々の暮らしのなかで、気遣い合いながら静かに過ごすことが習慣になり、それはそれで悪くないと思っていました。
でも、妻がいないあの夜の「二人の声」を聞いたとき、私は初めて自分の心にぽっかりと空いた穴の存在に気づいたのです。
妻がいない夜でよかったと思う気持ちと、どこかで一緒に聞いてしまったほうがよかったのではないかという気持ちが、交互に波のように押し寄せてきました。
その夜は、なんとも落ち着かず、テレビを点けたり消したり、意味もなく冷蔵庫を開けては閉めたりして、なかなか眠ることができませんでした。
自分でも驚くほど、なんだかムラムラと心がざわついていたのです。何がこんなにも私を揺さぶっているのか、言葉にはできませんでした。ただひとつ、確かに言えることがありました。
——このアパートでの生活は、半年限りの仮住まいのはずだったのに、そのたった一晩で、私の中の“何か”が少しだけ動き出していたのです。
それから数日間、私はどこか落ち着かない気持ちで過ごしていました。
意識していないふりをしながらも、夜になると、つい耳を澄ませてしまうのです。生活音に混じって、またあの「声」が聞こえてくるのではないか。そんな思いが頭をよぎるたび、自分の中にある妙な好奇心と、それに対する嫌悪感がせめぎ合っていました。
とはいえ、私の生活そのものは何も変わっていませんでした。
朝は妻と食卓を囲み、洗濯物を干し、近所のスーパーへ買い物に出かける。
昼間は新聞を読んだり、テレビを観たり、軽く散歩をしたり。
そんな、何気ない日々の繰り返しです。
ただ、その中で——ほんの少しだけ、妻のことを今まで以上に意識するようになったのは、確かです。
たとえば、洗い物をしている後ろ姿。たとえば、テレビを見ながら小さく笑う表情。
そうした何気ない瞬間に、私はふと目を留めるようになりました。
思えば、私はずいぶん長い間、妻を家族として見ていたのかもしれません。一緒にいることが当たり前で、空気のように傍にあることに、安心と同時に鈍感さを持ってしまっていたのだと、今になって思います。
そんなある夜のことでした。夕食後、私は風呂を先に済ませ、妻が入っている間に何気なくソファで横になっていました。
すると——またしても、あの声が聞こえてきたのです。壁の向こうから、吐息とも、言葉ともつかない音が響いてきました。
前よりも少しだけ抑えられてはいましたが、それが逆に生々しく感じられ、私は思わず背筋を伸ばしてしまいました。
でも声の元が前回と違うような気がしました。耳を澄ますとお風呂場の方から聞こえます。
妻は湯船に浸かっているようでした。
お隣のご夫婦はお風呂場で行為をしているようでした。
妻が風呂から出てくる前に、この空気をどうにかしなければと焦りました。
テレビをつけ、音量を少し上げてみたものの、なぜかどの番組もしっくりこない。むしろ、その騒がしさが部屋に違和感をもたらし、私は思わず音量を下げました。
結局、私は風呂場の戸の前に立ち、戸をノックすることもできずに、そのまま何もせず妻が出てくるのを待ちました。
でも風呂から上がって来た孝枝は特に変わった様子もなく、いつも通りバスタオルで髪をくるみ、パジャマ姿でリビングに戻ってきました。私の心臓は妙に早く脈打っていたのですが、妻のほうは静かな顔でテレビのリモコンを手に取り、チャンネルを変えました。その姿を見て、私はもしかしたら——彼女も何かに気づいているのではないかと感じました。
けれど、お互いにそのことについては一言も触れませんでした。
私たちの間には、長年の生活で培った「黙ってやり過ごす」空気がありました。たとえば、ささいな喧嘩をしたときも、どちらともなく黙りこみ、数日後には何事もなかったように会話を再開する——そんな習慣が、いつの間にか染みついていたのです。
翌日、偶然にも、隣人のご主人とアパートの入口で鉢合わせしました。
郵便受けの前で軽く会釈を交わし、ほんの数言だけ立ち話を交わしたのですが、不思議と印象が違いました。壁の向こうで聞こえた“あの姿”とは裏腹に、その人は落ち着いた、礼儀正しい男性でした。
柔らかな口調と、ゆっくりとした目線の動き。どこか余裕のある話しぶりに、私は肩の力が抜けるような感覚を覚えました。
そのとき彼が、「よかったら、今度町内主催の食事会にでもどうですか。今度はうちが主催なんです」と誘ってくれたのです。
私は、即座に「ええ、ぜひ」と返していました。
理由はうまく言葉にできません。ただ、そのときの私は、このご夫婦に興味津々だったのかと思います。
妻には帰宅後に話しました。やはり最初は気が進まない様子でしたが、私が少し強めに「いい機会じゃん」と言うと、しぶしぶといった表情で頷いてくれました。
そして私は、どこかで期待していました。ご近所さんとの食事を通して、自分の中でくすぶっていたこの気持ちに、何かきっかけが出来るのではないかと。
次の夜、私たちは静かに玄関を出て、隣の部屋のチャイムを押しました。
隣の部屋のチャイムを押すと、すぐに静かな足音が近づき、ドアが開きました。
出迎えてくれたのは、柔らかな雰囲気をまとった奥様でした。クリーム色のブラウスに控えめなアクセサリー、髪もきれいにまとめられていて、どこか上品な印象が漂っていました。その奥から、ご主人が姿を現し、丁寧に会釈をしてくださいました。
私は、内心少し戸惑っていました。
あの“夜の声”の主が、この落ち着いた夫婦なのかと、やはり信じがたい思いがあったのです。もっと奔放で、感情を前面に出すような人たちを想像していました。けれど、目の前にいるのは、私たちとさほど変わらない、穏やかで気配りのあるご夫婦でした。
部屋に通されて、さらに驚きました。
築年数の古い同じアパートとは思えないほど、室内は整えられていました。家具の配置、カーテンの色合い、壁に飾られた小さな絵や観葉植物——どれもセンスがよく、居心地の良い空間を作っていました。照明も柔らかく、灯りの下でテーブルに並べられた料理の色合いが引き立てられていました。
手作りとは思えないほど丁寧な料理が並び、香りだけで心がほぐれていくような気がしました。私は妻の顔を横目でうかがいましたが、彼女もまた静かに目を見開いていて、少しだけ口元を緩めているようでした。
今回の参加者は私達夫婦を含めて4組の家族での食事でした。食事中の会話は、いたって穏やかなものでした。
海外での生活の話、退職後の時間の使い方、家庭菜園のことなど、年齢を重ねた者同士ならではの話題が、自然と交わされました。ご主人の語り口は穏やかで、奥様はときおり柔らかく相づちを打ち、夫婦の間に流れる空気がどこか心地よく感じられました。
私は、少しずつ緊張がほどけていくのを感じていました。
会話を交わしながら、あの夜の声の記憶が、少しずつ薄れていきました。
代わりに、「あの人たちもまた、歳月を重ねながら、自分たちなりの形で夫婦を続けているのだ」という当たり前のことが、じわじわと胸に染みてきました。
食事会は無事終了し2組のご夫婦は先に帰宅しました。私達には最後に、ハーブティーを出してくださった奥様が、ふと視線をこちらに向けて、少しだけ言いづらそうな様子で口を開きました。
「うるさくしていませんか」と、そんな言葉でした。
私は一瞬、返答に詰まりました。その一言が場の空気を一瞬だけ止めたように感じたのです。
けれど、奥様の目は真っ直ぐで、冗談ではなく、本当に気にしてくださっているのだということが伝わってきました。
その姿に、私は逆に恐縮してしまいました。
私達の態度を見て、ご主人も気付いたのでしょう。
ご主人も丁重に謝ってくれました。
ただ、その後私達はどうなのかといきなり聞かれたのです。私たち夫婦は言葉もなく思わず顔を見合わせました。
続けて、ご主人が話し始めました。
歳をとっても、男女の関係であることは大切ですよ——そんな思いを、恥ずかしげもなく語られました。それが健康で長生きの秘訣ですからと、押しつけがましくもなく、ただ静かな、けれど確かな想いとして伝わってきました。
私は、自分の中で何かがほどけていくような感覚でした。
歳だからとかきれいごとではなく、無理をしているのでもなく、ただ愛し合いたいと願う気持ち。それが、このご夫婦を包んでいたのだと、ようやく理解できた気がしたのです。
帰り道——といっても、ドアを一枚隔てただけの距離でしたが、私は妻の背中を見ながら、ずっと何かを言いたくて言えずにいました。
ありがとう、でもなく、ごめんでもなく、何かもっと近い、けれど名前のつけられない気持ちが胸の内でくすぶっていました。
妻もまた、衝撃過ぎたのか何も言いませんでした。けれど、その横顔には、少しだけ柔らかな色が差しているように見えました。
あの食事会で、劇的に何かが変わったわけではありません。
けれど、たしかに何かが静かに動き出した、そんな感覚がありました。
その日の午後、私は洗濯物を干しながら、ゆっくりと空を見上げました。
建て替え中の家の完成までは、まだ数週間あります。このアパートでの仮住まい生活は、一時的なものに過ぎません。けれど、このあいだに、自分の中で思っていた以上のことが動いているのを感じました。
歳をとるというのは、何かを失っていくことの連続だと思っていました。
若さ、体力、役割、そして——夫婦としての関係もまた、少しずつ静かに後ろに流れていくものなのだと、勝手に思い込んでいました。
でも、それは本当は、こちらが手放していただけなのかもしれません。
愛情というのは、言葉ではないのだと、今になって思います。
なんとなく妻と目が合う回数が増えた気がします。
今すぐ若い頃のように愛し合うということまで進めないかもしれません。
ただ、確実にお隣さんの声が聞こえてからお互いに意識しています。
もう枯れてしまっていたと思っていた私自身も、最近は蘇りつつあります。
今はリフォームが終わるまでの間に、もう一度妻と愛し合いたいとそればかり考えています。
遅すぎるかもしれません。でも、遅いからこそ、意味があるのかもしれない。
今だから、できることもあるのかもしれないと、そう思いました。
夜、ベッドに入る前に、私はテレビを消し、部屋の灯りをゆっくりと落としました。
そのとき、ふと妻の方へ目を向けると、彼女もこちらを見ていました。
何かを言おうとして、言わなかったような表情でした。
今はお互い、最後の一歩に踏み切れない状態です。
言葉にしなくても、伝わるものはある。むしろ、言葉にならないものこそ、夫婦にとっては大切なのかもしれません。
ここで愛し合うとご近所さんに聞こえてしまいますからね、どうしても私も踏み切れませんでした。
仮住まいの暮らしは、やがて終わります。早く新居に移りたいと心の底から今は願っています。
これだけじれったい気持ちになるのはいつ以来でしょうか…