
私の名前は神田毅、62歳です。この歳になっても、まだ現役で働いています。長年勤めた会社で、それなりに責任のある立場を任されているので、定年後ものんびりとはいかず、毎日忙しく過ごしていました。妻の美智子とは結婚して三十六年。
二人の子供も巣立ち、今では夫婦二人の生活になっていました。お互いの存在が当たり前になりすぎて、特に干渉することもなく、良く言えば気楽、悪く言えば無関心といった関係でした。そんなある日、職場で仕事をしていると、妻から電話がかかってきました。
「もしもし、どうした?」受話器を耳に当てると、すぐに異変に気づきました。
「あぁ、ううう…」か細い声で、うめき声が聞こえました。嫌な予感がして、思わず席を立ちました。
「どうした?」妻はうめき声をあげ続けました。心臓がドクンと跳ねていました。これはまずい。何かが起きた。私はすぐに救急車を手配し、会社の駐車場へ走りました。職場から自宅までは車で5分ほど。アクセルを踏み込みながら、最悪の事態が頭をよぎりました。
美智子は今、どんな状態なんだろう。意識はあるのか?息はしているのか?間に合うのか?
頭の中がぐるぐると不安でいっぱいになりながらも、車を飛ばしました。自宅に着くと、ちょうど救急車も到着するところでした。
家のドアを開けると、台所で妻が倒れていました。
「美智子!」私は駆け寄り、そっと肩を揺すりました。意識はある。けれど、顔色が悪い。顔もうつろで、言葉も出せない。
すぐに救急隊員が駆けつけ、処置を施しながら担架に妻を乗せました。
「ご家族の方も同乗されますか?」
「いや、車で後ろからついて行きます」私は急いで車に乗り込み、救急車の後を追いました。
病院に着くと、すぐに検査が行われました。診断は「脳梗塞」。
幸い、命に別状はなかったものの、右手足に麻痺が残る可能性があると言われました。まったく動かないわけではなく、力が入りにくい状態。どこまで回復できるかは、リハビリ次第だと言われました。
「美智子……」病室で横たわる妻の顔を見ながら、私は自分に問いかけました。
もし、あのまま気づかずにいたら、もし、電話をかけることすらできない状態だったら――
その考えに至った瞬間、背筋が冷たくなりました。
「ごめんな……辛い思いさせたな」私はそっと妻の手を握りました。
美智子は微かに目を開け、かすれた声で言いました。
「……大丈夫よ。すぐ、元気になるから」弱さを見せまいとする妻の姿に、私は胸が締め付けられるようでした。それから、美智子のリハビリが始まりました。そして、私は妻を看病するために仕事を退職しました。決して簡単な決断ではありませんでした。
会社に残る選択肢もあったし、周囲も「もう少し考えたら?」と言ってくれました。でも、もう迷いはありませんでした。
「もしかしたら、もう会えなくなるかもしれない」そんな恐怖を抱えたまま働き続けることは、どうしてもできませんでした。
妻は「大丈夫よ」と笑っていたけれど、やはり日常生活には不安がある。階段を上るときには私が後ろからつき、転ばないように支える。食事の準備も、妻ができない部分は私が代わりにやる。
「俺が口出すの嫌か?」冗談めかして聞いてみたことがある。すると、美智子はふっと笑って、こう言った。
「ううん安心する」その言葉が、思った以上に嬉しくて、私は不覚にも涙が出そうになった。
そんな日々の中で、もうひとつ、妻が怖がっていることがあった。
それはお風呂でした。どうしても足に力が入りにくいぶん滑ってしまいそうだとのこと。リハビリを始めてしばらく経った頃、ぽつりとそう言いました。
確かに、風呂場は転倒のリスクが高い。私も心配だったので、私も一緒に入って介助をすることにしたのです。
「一緒に入るの、恥ずかしいね……」最初は照れくさそうにしていたが、結局、安全のためということで一緒に入ることを許可してくれました。
妻のリハビリを手伝う生活にも、少しずつ慣れてきました。階段を上るときは後ろからそっと支え、お風呂では転ばないように気をつける。最初はぎこちなかったけれど、いつの間にか、それが自然なことになっていました。
お風呂に一緒に入るようになってからは、妻の髪を洗ってあげるのが日課になりました。
「自分でできるわよ」と言いながらも、私が洗うとくすぐったそうに笑います。
風呂上がりには一緒にビールを飲んで、少し落ち着いたらドライヤーで髪を乾かしてあげる。
そんな時間が、特別なものに感じられるようになりました。
ある日のことでした。いつものように妻の体を洗ってあげていると、ふとした違和感がありました。
なぜか、私の体の一部が反応してしまったのです。久しぶりに、そんな気持ちになってしまいました。
自分でも驚きましたが、どうにも抑えられませんでした。
気づかれないようにしようとしましたが、妻がちらりと私を見上げました。
すると、少し頬を染めながら「もう、何考えているのよ」と怒ったのです。
でも、本気で怒っているわけではなく、恥ずかしがって怒っている感じでした。
「すまん……」私は気まずそうに謝りましたが、妻はぷいっと横を向いてしまいました。
それでも、風呂上がりにはいつも通り一緒にビールを飲み、髪を乾かしました。
何事もなかったかのように過ごしましたが、私はずっと妻のことを考えていました。
その夜、寝る前に妻が突然聞いてきました。
「もしかして……したいの?」予想していなかった問いかけに、私は言葉を失いました。
「……いや、そんなこと……」
「ふふ、わかりやすいのよ、あなたって」妻はそう言って、小さく笑いました。
そして、少しだけ間を置いて、ぽつりと呟きました。
「我慢しなくていいのよ」その言葉を聞いた瞬間、私の理性は吹き飛びました。
どれくらいぶりだったでしょうか。
……いや、もう数えなくてもいいのかもしれません。
行為の後、妻はふっと笑いました。そして、静かに「ありがとう」と言いました。
「どうした?」私は少し驚いて聞き返しました。
すると、妻は「もう思い残すことがないわ」と呟いたのです。
「……おい、なんでそんなこと言うんだ」私は思わず怒りました。
「だって……もう一度愛してくれるとは思わなかったし……もう死んじゃうのかなって……」
妻は笑いながらそう言いましたが、私はそれが冗談だと思えませんでした。
「そんなこと言うな。お前は大丈夫だ」私は強く妻を抱きしめました。
妻は少し驚いたようでしたが、そっと私の背中に手を回しました。
お互い還暦を迎え、寿命があとどれくらいあるのかはわかりません。けれど、私は確かに思いました。
「俺は、これからも妻を愛し続ける」
今まで当たり前だった日常が、決して当たり前ではないことに気づきました。
そして、そのことに気づけたことが、何よりの幸せなのかもしれません。
静かな夜、私は妻の手をしっかりと握りました。
すると、妻は穏やかな顔で微笑みました。
その微笑みを見ながら、私は改めて思いました。
これからも、ずっと一緒に生きていこう。
夜の静寂の中、私たちは久しぶりに笑い合いました。