
町内会の旅行なんて、正直あまり乗り気じゃありませんでした。
なにしろ、昔からそういう「団体行動」というものが得意ではなかったんです。
それでも今回、参加することにしたのは、恵子が「たまにはいいじゃない」と言ったからでした。
妻の言う「たまには」は、案外意味深だったりします。
そう言って微笑む顔は、昔から変わらない。あの目尻の柔らかな線や、笑うと少し右にだけ傾く口元。年を重ねても、恵子の笑顔は、どこか少女のような可愛らしさを残していました。
バスに揺られて海沿いの温泉旅館に到着したのは、午後三時過ぎでした。
十数名の町内会の面々。顔見知りが多く、すぐに和やかな空気が広がっていました。
チェックインを済ませたあと、部屋で少し休み、それぞれが浴衣に着替えて宴会場に集まるという流れ。
旅館のスタッフが並べた料理は、海の幸がふんだんに使われていて、どれも見た目が鮮やかでした。
乾杯の音頭を皮切りに、酒が入り、笑い声が広がっていきます。私も初めのうちは、ただ静かに酒を飲みながら、恵子の様子をちらちらと眺めていました。彼女はいつものように、誰にでも明るく、柔らかく接していました。
特別派手な格好をしているわけでもないのに、不思議と目を引く。
町内の年配の男性たちが、彼女の周りに自然と集まってくるのが分かりました。
妻は昔からそうなんです。特別に美人という訳では無いのですが、愛想がよく、笑顔を絶やさず、でもどこか隙があるように見えるのかすごくモテるのです。そういう雰囲気だからなのか、相手はつい、もう一歩近づきたくなるのかもしれません。
私はそれを、嫉妬というよりも、どこか誇らしいような気持ちで見ていました。
この歳になっても、妻が誰かの目に「可愛い」と映るという事実が、悪い気はしなかったんです。
だからでしょうか。
私もふと、向かいの席で談笑していた女性たちの会話に加わってみたくなったのです。
世間話をしながら、お酌を受けたり、こちらから注いだり。
いわゆる“社交辞令”のようなものですが、なんだかんだで悪い気はしませんでした。
けれど、時間が経つにつれて、まだ五十代前半ばくらいの、きれいな人でしたお向かいの奥さんが、少しずつ私との距離を縮めてくるのが分かりました。
浴衣の袖がわざとらしく私の腕に触れるたび、私はわずかに身を引きました。
しかし、酒の席というのは、時に不自然なほど馴れ馴れしさを許容してしまうものです。
笑ってやり過ごせばいい、そう思っていたのですが、相手はだんだんと「他の人には見せない笑顔」を私に向けてくるようになりました。
私は焦っていました。
正直に言えば、全く嬉しくなかったわけじゃありません。
でも、その気持ちに応えるつもりもありませんでした。
それなのに、場の空気を壊したくないという気遣いから、適当な愛想笑いを浮かべてしまったんです。
そのときでした。背後から声がして、私は思わず振り返りました。
「修ちゃん、ちょっと来て」恵子でした。
浴衣の裾を揺らしながら、私の腕をぐっと引いて立たせました。
「えっ」と声を出す間もなく、私は彼女に連れられて席を後にしました。
そのまま宴会場を出て、旅館の玄関へ。
涼しい夜風が、むっと熱のこもった身体に気持ちよく吹き抜けます。
玄関を出ると、すぐそこには静かな海岸が広がっていました。
月が海面を照らしていて、波の音が一定のリズムで耳に届いてきます。
恵子は何も言いませんでした。
ただ黙って歩き続け、私もそのあとをついていきました。
ときどき、浴衣の裾が風にあおられて、彼女のふくらはぎがちらりと見えました。
その一瞬一瞬が、なぜか妙に艶めいて見えたのです。
歩きながら、私は思っていました。
あぁ、やっぱり俺の妻は、今でも魅力的なんだなと。
それはきっと、他の誰かの目に映ったときよりも、今日の自分がはっきりと気づかされたことでした。
海風と波音の中、何かがじわじわと、私の中で目を覚まし始めているような、そんな感覚がありました。
海岸の砂は、日中の熱をまだ少しだけ残しているようで、浴衣越しの足の裏がほんのりとあたたかかったです。
波打ち際からは少し離れたところ、旅館の明かりも届かない岩場のあたりまで、私たちは黙ったまま歩いていきました。
恵子はずっと無言でした。何を考えているのか分からない。
怒っているのか、呆れているのか、それともただ風にあたりたかっただけなのか――
それでも、何かを言い出すきっかけをつかめず、私もまた口を閉ざしていました。
でも、分かっていました。
あのとき、私が誰かに寄り添われていたあの光景を、恵子は見ていたのです。
見て、感じて、そして黙ってはいられなかった。
それだけの理由で、こうして私を外へ連れ出したのだと。
岩陰に着いたところで、恵子がふと立ち止まりました。
潮の香りが少し濃くなってきて、風は海からのものに変わっていました。
その場に立ったまま、彼女はふいに振り返り、口を開きました。
「……どうして、ヘラヘラしてたの」その声には、怒りよりも、寂しさのほうが強く滲んでいたように思います。
私はすぐに答えられませんでした。
本当のことを言えば、はっきりとした理由なんてなかったのです。
ただ、流れに任せてしまっただけ。
でも、それが一番たちが悪いことも分かっていました。
「そんなつもりはまったくないよ」と言ったところで、言い訳にしか聞こえないのだろうと、自分でも思いました。
けれど、恵子はすぐに言い返してきました。
「私は、べたべたなんてしてないよ」少し怒ったような口調でしたが、語尾にはどこか拗ねたような響きがありました。
ああ、この人は――そう思ったとき、胸の奥が締めつけられるような感情で満たされていきました。
私はそっと、彼女の肩に手を置きました。その感触は思っていたよりも頼りなくて、でもあたたかくて――
まるで壊れやすいものを扱うように、私は恵子を後ろから抱き寄せました。彼女の身体は、最初、ぴんと張っていました。
「やめて」と言われるかもしれないと思いました。
そして実際、「離して」と小さく、でも確かに言われました。
けれど、私はすぐには手を離しませんでした。
無理やりではなく、ただそっと、肩を抱いたまま、静かに立っていました。
恵子の鼓動が、胸を通して伝わってくるのが分かりました。
ゆっくりと、呼吸が落ち着いていく。そして、やがて――その肩から力が抜けていきました。
私はそのとき、自然と顔を近づけていました。気がつけば、唇が重なっていました。
あまりにも久しぶりすぎて、最初は戸惑いさえありました。
でも、それは確かに、私たちが長い時間を越えてふれあう、最初の一歩でした。
あれは、七年ぶりのキスだったのです。
それだけのことなのに、心の奥が熱くなって、少しだけ手が震えました。
恵子の唇は、変わらず柔らかくて、懐かしい匂いがして――
私の中の何かが、ゆっくりと溶けていくのを感じました。
あのとき、潮騒も風も、すべてが静かに後押ししてくれていたような気がします。
そんな不安がまるで火に油を注ぐように、私たちの間にある何かを熱くさせていきました。
心と体が、もう止められないほどに近づいていく。
長いあいだ、封じ込めていた想いが、一気にあふれ出していきました。その夜、私たちは、思いがけず、いや、生まれて初めて、外で愛し合うことになったのです。誰かが来るかもしれない。その点もかなり燃えた原因かもしれません。
ふたりの間に、言葉はありませんでした。
いや、必要なかったのかもしれません。
恵子の肩越しに聞こえてくる声を我慢している吐息と、私の胸の鼓動だけが、夜の砂浜に寄り添うように響いていました。
潮風は少し冷たくなっていて、浴衣の隙間から忍び込んでくるその感触が、妙に心地よかったのを覚えています。
身体の奥にまだ残る熱と、その冷たさの対比が、余計に「生きている」という実感を際立たせていたようでした。
恵子は、顔を伏せたまま黙っていました。
恥ずかしさなのか、怒りの名残なのか、それとも、まだ夢から覚めていないのか。
けれど、私には分かっていました。あのとき、彼女もまた、私と同じくらいの熱を抱えていたということを。
「部屋に戻ろうか」そう声をかけると、恵子は小さくうなずきました。
その目はまだ潤んでいて、でもどこか満たされたように見えました。
旅館の廊下を、ふたりで静かに歩きました。
あれほど賑やかだった宴会場もすでに静まり返っていて、すれ違う人もいませんでした。
部屋に戻って、浴衣を着直し、布団に並んで横になったとき――私はどうしても、もう一度触れたくなってしまったのです。
恵子の肩に、そっと手を置きました。彼女は一瞬だけ驚いたように身をこわばらせましたが、そのまま私のほうに体を向けました。
言葉はありませんでした。ただ、それだけで十分でした。
ふたりとも、まるで若い頃のように――いや、あの頃以上に、燃え上がっていたのだと思います。
久しぶりに肌と肌が触れ合うたび、お互いの存在を何度も確かめ合うように、何もかもを分かち合いました。
すべてが終わったあと、私は枕元に肘を立てながら、ぼんやりと恵子の横顔を眺めていました。
月明かりが障子越しに差し込み、彼女の髪にやさしく触れていました。
その顔は、まるで若いころのままでした。いや――むしろ今のほうが、もっと美しいと感じたのです。
「俺には、恵子しかいらないよ」ぽつりとつぶやいたその言葉に、恵子は何も返しませんでした。
けれど、彼女の手が、そっと私の腕を掴みました。
指先に込められたぬくもりが、何よりの答えでした。
そのまましばらく、ふたりで並んで横になっていました。
時計の針の音も、外の風の音も、すべてが遠く感じられるような、静かな静かな時間でした。
しばらくして、私はふと立ち上がり、「温泉に行こうか」と声をかけました。
恵子は小さくうなずき、ふたりで露天風呂へ向かいました。
湯気の立ち上る岩風呂に身を沈めたとき、身体だけではなく、心までほどけていくような気がしました。
上を見上げれば、星がいくつも瞬いていて、どこまでも静かでした。
「こんなことが、あるんだな」心の中で、私はそう呟きました。
この歳になって、もう一度、こんな夜が来るなんて。
長年連れ添ってきた人に、あらためて恋をするような気持ちになるなんて――
誰が想像できたでしょうか。
温泉から戻ったあとも、私たちの中にあった火は、まだ消えていませんでした。
その日はまるでスイッチが入ってしまったかのように、何度も求め合いました。
恥ずかしさも、年齢も、理性さえも、すべてを超えて、ただただ相手を感じていた夜でした。
朝、障子の隙間から差し込む光に、私はゆっくりと目を開けました。
隣にいる恵子の寝顔が、まるで別人のように見えました。
頬はほんのり赤く、まつげが静かに揺れていて、あたたかな吐息が私の胸元にかかっていました。
何年ぶりだろうか。こんなふうに、妻の寝顔を、じっと見つめたのは。
昨日のことが夢だったのではないかと、ふと不安になるほどでした。
けれど、恵子の手が私の腕にそっと添えられていて、布団の中でぴたりと身体を寄せている。
その事実が、あれがすべて現実だったのだと、優しく教えてくれていました。
私は声をかけることなく、しばらくそのまま、恵子の温もりを感じながら横になっていました。
なんだか、起こしてしまうのがもったいないような気がしたのです。
やがて、恵子がまぶしそうに目を細め、「……おはよう」と、小さな声で言いました。
私は「おはよう」とだけ返し、起き上がりました。
支度をして、「朝ごはん、行こうか」と声をかけると、恵子は少し頬を染めながらうなずきました。
浴衣の帯を結び直す手が、いつもより少しだけぎこちなかったのが、なんだか可笑しくて、でも愛おしくて――
私はその後ろ姿を見ながら、心の中でそっと呟きました。
「ほんとうに、昨日のことは夢じゃなかったんだな」と。
朝食会場に入ると、すでに何組かの夫婦が席についていました。
私たちの隣の席には、昨日、少し距離の近かったあの奥さんも座っていました。
私たちを見るなり、恵子のほうへ顔を寄せて、何かを囁いていました。
「……声、もれてましたよ」
そう言ったのでしょう。私は聞こえなかったけれど、恵子の顔がみるみるうちに真っ赤になったので、すぐに分かりました。
恵子は何も言い返さず、ただお味噌汁のお椀に顔を向けたまま、耳まで赤くなっていました。
私はその様子を見て、思わず笑いそうになりました。
なんだか、ものすごく幸せな気持ちになったのです。
朝食を食べ終え、食後のコーヒーをふたりでゆっくり飲んでいるとき、恵子がふと、私の方を見て小さく笑いました。
それは、若い頃によく見せていた、少しだけ照れくさそうな、あの笑顔でした。
私は心の中で、静かに呟きました。これから先、どれだけ時間を重ねても、俺はきっと忘れない。
これが「老い」なら、そんなに悪いものじゃない。
むしろ、こんなふうにふたりで過ごせるなら、これからの時間も、そんなに怖くはないと思えた朝でした。
そして私は、今一度、はっきりと心に刻みました。
恵子には、これからもずっと、女でいてほしい。
そして、男としての自分も、まだ終わってなんかいないと。
そう思えた旅の終わりでした。
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