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私の名前は田代裕子、58歳の専業主婦です。子供たちはすでにそれぞれ家庭を持ち、夫と二人だけの暮らしになってからもう数年が経ちました。夫は今年60歳になり、公務員としての長い勤めを終えました。本当はその後も働けるところがあったのですが、天下りと言われて後ろ指刺されて働きたくないと断ったのです。
そんな、少し正義感が強い夫です。
「本当にお疲れさま。これからは二人でゆっくりしようね」と声をかけたとき、夫も「そうだな」と頷いてくれて、私はこれからの老後が穏やかで楽しいものになると信じて疑いませんでした。
ところが、そんな私の期待を裏切るような出来事が起こったのです。
ある日の夕食後、夫が新聞を畳んで私に向き直り、唐突に言いました。
「俺、今度の選挙に出ようと思うんだ」
「えっ?」と思わず聞き返しました。選挙? 何を言っているのか一瞬理解できませんでした。退職してからまだ間もないというのに、そんな話をするなんて予想だにしていなかったからです。
「どうして選挙に出たいの?」と私が尋ねると、夫は少し困ったような顔をして、それでも真剣な目で私を見つめました。
「俺たちも妊活に苦労しただろう?その費用を少しでも抑えられるような政策を実現したいんだ。どれだけ時間とお金がかかったか。俺たちはなんとか乗り越えられたけど、周りには妊活を諦めざるを得なかった人たちもたくさんいる。そういう人たちを助けたいんだ」
その言葉を聞いた瞬間、胸がぎゅっと締め付けられるような思いがしました。私たち夫婦も長い間、子供ができずに悩みました。妊活にかかる高額な費用や、周囲の無理解、心ない言葉に傷ついたこともありました。それでも夫が隣にいてくれたから乗り越えられました。それが今度は、他の人たちのために役立ちたいという気持ちに繋がったのだと分かりました。
夫の気持ちは痛いほど分かります。それでも私は戸惑ってしまいました。「老後は二人でゆっくり過ごしたい」と心のどこかで思ってしまっていたのです。だけど、そんな自分の気持ちを素直に口にするのは難しく、私はとりあえずこう言いました。
「挑戦してみたいなら応援するけど……いきなり選挙に出るのは難しいから、コネを作るために今回はボランティアとか、そういうところから始めてみたらどう?」
夫は少し驚いた顔をしましたが、しばらく考えた後、「それもそうだな」と頷いてくれました。正直、ほっとしました。選挙という世界に飛び込む夫が誹謗中傷や厳しい現実に晒されるのを、私は心の底から恐れていたのです。
そして夫は、本当に市議のボランティア活動を始めることになりました。それからの彼は、毎日朝早くから晩まで出かけていき、ビラを配ったり、応援演説の準備を手伝ったりしていました。その様子はまるで現役時代のようで、夫自身も楽しそうにしていました。
そんな夫の姿を見ているうちに、私は少しだけ応援してあげてもいいかなと思うようになりました。退職してからどこか手持ち無沙汰にしていた夫が、こんなにも生き生きと働いている姿を見ると、やっぱり彼には何かを頑張る場が必要なのかもしれない、と感じたのです。
けれど、現実はそう甘くありませんでした。夫が応援していた市議が選挙で落選したのです。
選挙が終わった日、夫は肩を落として家に帰ってきました。玄関に入るなり、何も言わず靴を脱ぎ、そのままリビングのソファに腰を下ろしました。夕飯の支度をしていた私がキッチンから様子をうかがうと、夫の背中はどこか小さく見えました。
「おかえりなさい」
そう声をかけても、夫は「ただいま」と小さくつぶやいただけで、あとは何も言いませんでした。
しばらくの沈黙のあと、夫がボソッとつぶやきました。
「裕子……やっぱり議員になるのは辞めるよ」
その声には、どこか深い疲労と諦めが滲んでいました。選挙活動の厳しさ、応援していた市議の落選、そして想像以上の誹謗中傷。それらすべてが夫を押しつぶしてしまったのでしょう。その気持ちを考えると、私には軽々しく言葉をかけることができませんでした。
何か言わなければいけない、でも、どんな言葉を選べばいいのか分からない…そんな迷いの中で、私はそのままそっと後ろから抱きしめたのです。
夫の背中は一瞬ビクッとしましたが、やがて力が抜け、私の腕に身を委ねるようにして座り直しました。
「……よく頑張ったわよ。見てたから分かる。人のために一生懸命だったもの」
涙をこらえたつもりでしたが、夫の肩に顔を押し付けると、ポタリと涙が落ちてしまいました。それでも、私は抱きしめる手を緩めませんでした。
夫は何も言わずに頷きました。
それから数週間、夫はどこか元気をなくしたままでした。新聞を眺めてはため息をつき、テレビのニュースを見ても表情は浮かない。それでも、少しずつ日常に戻ろうとする姿を見て、私は静かに見守ることにしました。
ただ、それから数週間たったある日、夫が突然
「なぁ、畑をやってみようと思うんだ」
突然の提案に少し驚きましたが、私はすぐに「いいじゃない、健康にもいいし」と笑顔で賛成しました。
それからしばらくして、夫が「何を育てたらいいかな」と聞いてきたので、私は少し考えてから答えました。
「じゃあブロッコリーや小松菜なんてどうかしら? あとは落花生もいいかもしれないわね」
夫は首をかしげて、「なんでその三つなんだ?」と尋ねてきました。私は少し照れくさくなりながら言いました。
「妊活には葉酸が大事なのよ。議員になって直接支援はできなかったけど、こうして野菜を作って配れば良いじゃない」
夫は少し驚いた顔をしましたが、すぐに柔らかく微笑んで、「なるほどな。そうか、それならやってみよう」と言ってくれました。その顔には、久しぶりに見た穏やかな笑顔がありました。
それから夫は小さな畑を始めることにしました。土を耕し、種を蒔き、水をやる日々。私も時間があれば夫を手伝います。
「いつもありがとうな」そういいならが夫は私をハグしてきました。
私が夫をハグしたあの日から、夫は自然にハグをしてくるのです。始めは正面からはなんとなく気恥ずかしかったけど、今ではそれが習慣になりました。
本当にこうして夫婦二人で支え合いながら過ごす日々が、私にとって何よりの宝物になっています。
思っていた以上に老後の穏やかでささやかな幸せになりました。これからもこの幸せがずっと続くことを願っています。
でもあの時、夫が応援している方が選挙に落ちてくれてよかった。そう思ってしまっているのは夫には内緒です。