私は、山本美鈴。44歳、スーパーでパートをする主婦だ。家では、夫と二人きりの暮らし。なんの変化もない日常に、知らず知らずのうちに心が鈍くなっていくのを感じていた。朝、夫と顔を合わせ、短い挨拶を交わしてから、それぞれの時間が静かに流れ出す。夕方になれば私が夕食を作り、夫が帰ってきて、それを黙々と食べるだけの会話の少ない食卓。
毎日、何もない普通の日々。ただただ時間だけが過ぎていく。
そんな生活が虚しいと気づき始めたのは、数年前に起きたある出来事がきっかけだった。夫が浮気をしたのだ。知ったのは偶然だった。ある日、夫の携帯電話を何気なく覗いた時、そこに見知らぬ女性とのやりとりが残っていた。読み返せば読み返すほどに、私の中で確信が強まっていく。震える指先で画面を閉じたあとも、心臓の鼓動だけが体の中で響き続けた。
「どうして……?」と問いかけることもできず、私はただ夫を責めることもなく、そのことを飲み込むしかなかった。夫は泣きながら謝り、やり直そうと言ってくれたが、その言葉を信じていいのか、それともただ彼を許してしまった自分を責めるべきなのか、答えは出ないまま時間だけが過ぎていった。一度開いてしまった心の穴は、どうしても埋まらず、その隙間から冷たい風が吹き込み続けていた。
そんな中で出会ったのが、新しい店長の高橋さんだった。50代前半で、背が高く、少し日に焼けた肌と、穏やかでどこか人懐っこい笑顔が印象的な人だった。初めて会ったときは、正直あまり興味も湧かなかった。どうせ新しい上司なんて、自分とは関係のない存在だと決めつけていたのだ。けれど、彼は私の生活に踏み込んできた。
高橋さんは、ただ「上司」ではなかった。忙しいときも、パート仲間が困っているとさりげなく手を貸し、若いスタッフにも丁寧に言葉をかけ、疲れた顔をしている人には「大丈夫?」と軽く声をかけていた。その優しさは、何かを見せつけるような派手さではなく、ただそこにいるだけで場を和ませるような、自然体のものだった。ある日、私が重い荷物を抱えてよろけたとき、彼はすっと手を差し伸べ、少し照れたように「無理しないでくださいね」と微笑んでくれた。ふと、心が温かくなるのを感じた。
彼との会話も、少しずつ増えていった。仕事がひと段落した休憩時間や、終業後にエレベーターで二人きりになったときに、他愛のない会話を交わすことが楽しみになっていく。高橋さんは、話し上手というわけではないが、人の話を黙って聞くのがうまかった。私が自分のことを話し始めると、彼はただ頷きながら、「それで?」「そうなんですね」と相槌を打つ。夫にはもう、こんな風に話を聞いてもらった記憶すらない。高橋さんと話していると、私の中で何かがほぐれていくようだった。
そんなある日、休憩室で二人きりになったとき、高橋さんがふと尋ねてきた。
「美鈴さんは、どうしてここで働いているんですか?」
不意を突かれた私は、思わず視線を落とした。その質問には、私の中に押し込めてきた寂しさや孤独が詰まっているように感じたからだ。ためらいながらも、少しずつ自分の心の内を明かした。夫との関係がうまくいっていないこと。家庭に安らぎを感じられず、どこかに逃げ出したくなること。でも、それを誰にも打ち明けられない孤独があること。彼は驚いた様子もなく、ただ静かに頷きながら、私の言葉を受け止めてくれた。その瞳の奥に浮かぶ優しさに触れた瞬間、心の奥でずっと凍りついていたものが少しずつ溶けていくのを感じた。
それから、彼の存在は私にとってますます特別なものになっていった。仕事終わりに「お疲れさま」と声をかけられるだけで、その日が少し明るくなったような気がした。ある日、彼が「美鈴さんと話していると、なんだか穏やかな気持ちになれるんです」と言ったとき、私の心は一気に高鳴った。誰かにそんな風に言われたのは、いつ以来だろう?胸がぎゅっと締め付けられるような感覚と、同時にふわりと心が軽くなるような喜びが溢れ出した。
ある日の仕事終わり、いつもより遅くまで残業があり、外はすっかり暗くなっていた。私が出口に向かうと、高橋さんが「送って行きましょうか?」と声をかけてくれた。普段なら断るところだが、その日は「お願いします」と口をついて出ていた。車内に流れる静かな音楽、穏やかな彼の横顔。二人きりの空間に、少しの緊張と、どこか心地よい親密さが漂っていた。
その時彼から「少し時間はありますか?」そう言われ、私はつい彼を受け入れてしまった。久々に味わう胸の高鳴り。私はただその時間が永遠に続いて欲しいと願った。
しかし翌週、そんな夢のような時間は突然終わりを迎えた。数日後、同僚から「高橋さん、急に辞めたみたいよ。パートさんに手を出したのがバレて旦那さんが乗り込んできたらしいよ」と聞かされたのだ。さらに耳に入ってきたのは、複数のパートさんたちと関係を持っていたそうだ。彼の柔らかな笑顔を思い出したが、それさえも今は虚しく感じられた。
その日の夜、家に帰ると、夫がいつものように「おかえり」と微笑んでいた。その顔を見た瞬間、私は胸にこみ上げるものを抑えきれなかった。一度犯してしまった浮気からの彼は、心を入れかえたように私のそばにいてくれたのだ。ふと思い出す。風邪で寝込んだとき、夜中にお粥を作ってくれた夫の背中。彼は不器用ながらも、いつも私を支えようとしてくれていた。心の隙間を埋めたくて他の人に頼ろうとした自分が、急に情けなくなった。
静かなリビングで、夫のそばに座り、私は夜の街を見つめた。遠くに見える街灯の光が、ゆっくりと瞬いている。その光の下で、私たちは何度も壊れかけては、またこうして戻ってきた。私はもう一度、夫と共に歩いていく決意を、そっと胸に刻み込んだ。その瞬間、言葉は交わさなくても、私たちの間にあった距離が少しずつ埋まっていくのを感じた。何度も傷つき、迷いながらも、こうしてまた戻ってこれる場所がある。この人ともう一度、向き合ってみよう。私は深く息を吸い、夫の隣に静かに腰を下ろした。