
五十八歳の春、私は生まれて初めて、男性の腕の中で朝を迎えました。
こんなにも温かくて、切なくて、愛おしいものだったなんて、私は始めて知ったのです。
私の名前は太田美佐江、五十八歳で、美容クリニックの看護師として働いています。
恥ずかしい話この年まで一度たりとも男性とお付き合いしたことはありません。
正確に言えば、男性と話すことすら苦手でした。私の実家は父が頑固おやじで、昔ながらの厳格な家でした。
高校までずっと女子校。専門学校も看護学校で、今とは違い当時は女性ばかり。
職場も同じく女性が中心で、男性とはまともに話す機会すらなかったのです。
気づけば、自分に恋愛感情があるのかどうかすら、わからなくなっていました。
美容クリニックという場所柄、周囲の女性たちは皆、年齢を感じさせない美しさを保っています。
65歳を過ぎた院長先生ですら、40代に見えます。私もその中で、なんとか見た目は努力してきました。そんな日々の中でした。
仲間浩平さんという男性が、患者さんに出会ったのは。
まずもって美容クリニックに男性の患者なんてほとんどいません。でも先日からスタートした、男性のひげ脱毛も募集を開始したところ、
「ヒゲの脱毛をお願いしたくて」と男性の患者さんも増えてきました。
そんな時に、初めて来院されたのが彼でした。かなり緊張した様子でてんぱっていましたね。
彼は60歳で、先日、定年を迎えたばかりだそうです。
定年を機に、変わりたいとの願望を持って来院されたそうです。なぜか私の心に妙に残りました。
少し不器用な雰囲気で、でも優しい眼差しをしている人でした。
それから仲間さんは、定期的にクリニックへ通うようになりました。脱毛の施術中の雑談で、「市役所勤めで、長年お母さまの介護をされていた」という話を聞きました。ずっと独身だそうです。その言葉に、私はなぜか胸が熱くなりました。まるで自分を見ているようで。
ある日、私は休日に行きつけの美容院を訪れました。久々に髪型でも変えてみようかと考えていたのです。
待合室で雑誌をめくっていたとき、ふと顔を上げると、そこには見覚えのある横顔がありました。
仲間さんでした。私服姿でやや落ち着かない様子でしたが、私は思わず声をかけてしまいました。
「こんにちは。偶然ですね」
「え?…太田さん。いやぁ、思い切って美容院に来たんですが緊張しますね」
「女性ばかりですしね。美容師さんにお任せすると似合う髪型にしてもらえますよ」
「なるほど……じゃあ、そうしてみます」翌週、彼は本当にすっきりと整った髪型でクリニックに現れました。
似合っていて、私の胸はちょっと温かくなりました。
「似合ってますね」そう言うと、彼は少し照れたように笑ってくれました。たったそれだけのやりとりなのに、なぜか心が浮き立つのを感じたのです。
その日、施術が終わった後、
「もしご迷惑でなければ……これ」と不器用ながらも彼から小さく折りたたまれたメモを渡されました。
帰宅して、震える指でそっと紙を開くと、そこにはメールアドレスがひとつ、すごく綺麗な字で書かれていました。
嬉しかったけど正直悩みました。患者さんとの個人的なやりとりなど、規則では控えるべきです。
でも、私はどうしても、この人ともう少し話がしたいと思ってしまったのです。
「こんばんは。太田です。」送信ボタンを押すのに、数分かかりました。
でも、すぐに返ってきた彼の返事は、誠実であたたかくて、心が温かくなりました。
「今日はいい天気でしたね」「うちの近くの桜が満開でした」「料理、うまくできましたか?」
そんな他愛のないメールをやりとりするうちに、お互い心の壁が少しずつ、音もなく崩れていきました。
文章の合間から、仲間さんの人柄がにじみ出るようで、返信が来るのが楽しみで仕方なくなっていったのです。
数週間が過ぎたある日。彼からこんなメールが届きました。
『もしよければ、今度うちにいらっしゃいませんか?
たいしたものは作れませんが、手料理を食べていただけたらと思っています』
その文面を見たとき、まだデートもしていないのに、いきなり家に行くなんて。
私は深呼吸をひとつして、ゆっくりと返信を書きました。
画面を見つめながら、小さな笑みがこぼれました。正直男性の家に行くなんて、怖いです。
でもこんな歳になった私が、こんなふうに胸をときめかせる日が来るなんて、思ってもみませんでした。
当日。私は少し早めに仕事を終え、持っていく手土産に悩んだ末、和菓子を選びました。
玄関先で出迎えてくれた仲間さんは、白いシャツにエプロンをつけていて、照れくさそうに「ようこそ」と笑ってくれました。
「すごく、いい香りがしますね」
「煮魚と……筑前煮と……あとは卵焼きです。卵、好きでしたよね?」
その言葉に、胸がキュンとなりました。ちゃんと覚えてくれていることが、こんなにも嬉しいなんて。
食卓には、真面目な人柄がにじみ出たような料理が並んでいました。
どれも優しい味がして、ひと口ひと口を噛みしめるたびに、私の心はゆっくりとほどけていくようでした。
「……美佐江さんのことが、ずっと気になっていました」食後、湯呑みに手を添えたまま、彼が静かに口を開きました。
「あなたと話す時間が、どんどん楽しみになって……」私が思っていた言葉を言ってくれた気がして、ああ、わたし、この人のことやっぱり好きなんだって、改めて認識しました。
二人の間にあった“最後の壁”が、音もなく崩れていくのがわかりました。
「今夜、泊まっていきませんか?」彼のその言葉に、私は、頷きました。でも、内心はやっぱり怖かったです。でもその怖さを感じさせないくらい彼の言動は優しさに包まれていました。もちろん、小娘じゃありませんのでそのつもりの用意もしてきています。でも初めてなので私は思っていた以上に緊張していました。
お風呂を借り、髪を乾かしながら自分の鏡を見つめました。年齢を重ねたけど、まだ大丈夫。そう言い聞かせました。
静かに部屋へ戻ると、隣に並べられた布団と、やや落ち着かない様子の仲間さんの背中が見えました。
「緊張……されてますか?」私も同じです、と言いかけた唇を、そっと彼の指が塞ぎました。
そのまま静かに、体が引き寄せられ、私たちは向かい合って横になりました。手と手が触れ合い、頬が重なり、そして――唇が、重なりました。
最初は、戸惑い混じりの、浅く温かな口づけ。本当のファーストキス。全身が一瞬で熱くなりました。次第に、息遣いは深くなり、心臓の音が高鳴り、私の体は、初めて火照るという経験をしました。私の肩が露わになったとき、彼の手が震えているのがわかりました。同じように、私の体も細かく震えていたのです。
恥ずかしさも、ためらいも、全部ある。だけど、今だけは、すべてを委ねたい――そう思えました。
「こんな綺麗なあなたを…僕でいいんでしょうか」その言葉に、私の目から、涙がひと筋、こぼれ落ちました。
「…ありがとう」私はそう呟いて、彼の胸にそっと顔を埋めました。
彼の唇が首筋に触れ、肩をなぞり、胸元へと降りていくたび、私の内側はやわらかく、熱を含んでいきました。体に力が入りませんでした。彼は戸惑いながらも、私を愛でるその優しさに、体の奥からじわりと疼き始めていました。生まれて初めて知る快感に、息が震え、喉がひくりと鳴りました。
ゆっくりと脚を絡め、身を預けると、彼の体が重なりました。彼の体温、重み、やわらかな吐息と。それらすべてが、私を満たしていきました。どこまでもゆっくりで、やさしくて、互いを確かめ合うように、抱きしめながら、ひとつになりました。経験したからどうとか何も無いのは分っていますが、でも何かが私の中から、すっと溶けていくようでした。
目が覚めたのは、朝のやわらかな光に包まれてからでした。隣には、寝息を立てる仲間さんの姿。
その寝顔を見つめているだけで、胸がじんわりと熱くなりました。こんなふうに、男性と朝を迎えたことなど、人生で一度もなかったのです。
そっと髪を撫でていると、彼が目を覚ましました。「…おはよう」あの時、二人で笑い合った、その静かな朝が、今でも鮮明に思い出せます。
「今度医院長に紹介しますね」ふと私がそう言うと、彼は少し驚いたように目を見開きました。
その言葉に、仲間さんは少し照れながらも、うれしそうに笑ってくれました。
「ちゃんと挨拶、しますね」朝食の準備をする彼の後ろ姿を見つめながら、私は心の中でそっと呟きました。
―遅かったけど、やっと私にも春が来たのだと。
五十八歳で初めて知った、男性の愛しさとぬくもり。こんな歳になってようやく気付いたけれど、毎日でも愛して欲しいなと今は思っています。昨日までの私は何だったのかと思うくらい不思議ですね。
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