私の名前は高田雄三、63歳です。定年は65歳まででしたが、2年早く退職することとなりました。その理由は、妻・信子の一言があったからです。「元気なうちに二人でいろんなところへ旅行したいな」、そう言ってくれたんですね。長年、家族のために働き続けてきた私には、そんな風に二人だけの未来を想像したことは正直ありませんでした。でも、その一言が、かたくなになっていた私の心をじんわりと溶かし、長い会社生活に終止符を打つ決意を促してくれました。
定年までの生活は、ただひたすらに忙しく、休む暇などありませんでした。会社では責任の重い立場を任され、家に帰ればすぐに泥のように眠ってしまう毎日でした。心も体も、すり減っていくのを感じていました。それでも、信子は黙って私を支えてくれていたのです。朝早くから弁当を作ってくれ、夜も遅くまで私の帰りを待ってくれる。そんな優しさを当たり前のように受け入れていた自分が、今となっては恥ずかしい気もします。
退職してから最初のひと月は、信子から「何もしないで、ただゆっくり休んでね。今まで頑張って来たんだから」と言ってくれました。その言葉に感謝しつつも本当に甘えて、私は何もしませんでした。ぼんやりと時間が流れるのを感じながら、ゆっくりと朝食をとり、信子と一緒にニュースを見て、たわいない話をする……そんな日々を過ごすうちに、少しずつ心と体が解きほぐされていきました。こんなにのんびりとした日々を過ごせるのは、働くようになってから初めてでした。時計に追われない日常が、こんなにも心穏やかなものだったのかと改めて感じだしていました。
やがて、健康のためにとランニングを始めました。最初は5分も走れば息が切れ、体の重さを痛感しましたが、それでも毎日少しずつ続けていくうちに、いつの間にか体力が戻ってきたのです。鏡に映る自分の姿を見て、「今なら40代後半くらいの体力じゃないか?」と冗談を言うと、信子がくすくすと笑って、「そんなに若くなったなら、もう少し頑張ってもらおうかしらね」と返してくれました。思わず照れましたが、その笑顔を見ていると、不思議と胸が温かくなりました。こんな小さなやりとりが、こんなにも嬉しいものだとは、以前の私には考えもしなかったことです。
そして迎えた、退職後初めての旅行。信子がコツコツと貯金してくれていたおかげで、無収入の期間も不安なく過ごせるというのは、本当にありがたいことです。信子が選んでくれた温泉地への旅行で、少し贅沢をして露天風呂付きの宿に泊まることにしました。長年連れ添ってきた彼女と一緒に出かける旅が、こんなにも新鮮に感じられるとは思いませんでした。
宿に到着すると、しんと静まり返った山間の風景が広がっていました。空気はひんやりとして清々しく、川のせせらぎが耳に心地よく響きます。部屋の窓からは、紅葉が一面に広がっており、どこか遠い世界に来たような気分でした。都会の喧騒から離れ、二人きりで過ごすこの時間に、今まで押し殺していた感情が少しずつ解き放たれていくのを感じました。
夕食の席には、見事に色鮮やかな料理が並んでいました。信子は、私の好きな料理をよく覚えてくれていて、私があまり手を伸ばさない野菜料理もさりげなく取り分けてくれました。料理を口に運ぶたび、仕事で忙しかった頃のことが思い出されます。彼女は、私が疲れ果てて帰ると、決して文句を言わず、ただ笑顔で迎えてくれていました。気づけば、彼女のその笑顔にどれほど救われていたことでしょう。そんなことを考えていると、信子がふと、「長い間、働いてくれて本当にお疲れ様でした。これからはゆっくりと過ごしてね。」と言ってくれました。その言葉が心に深く沁み込み、思わず涙がこぼれそうになりました。私のために尽くしてくれた彼女への感謝が胸に溢れ、しばらく言葉が出ませんでした。
そしてその夜、温泉に浸かり、体も心も温まった状態で布団に入ったときのことです。ふと布団が動く気配がして、目を開けると、信子が少し恥ずかしそうに、私の布団にそっと入ってきたのです。思わず胸が高鳴りました。新婚当初、ふとした夜に信子が布団に入ってきた時のことが、鮮やかに蘇ってきました。仕事が忙しく、なかなかゆっくりと向き合えなかった時期もあったけれど、こうして隣に寄り添ってくれる彼女の存在が、私にとって何よりの宝物だったのだと、改めて気づかされました。
翌朝、隣で寝息を立てる信子の寝顔を見つめながら、これからも二人で新しい思い出を作っていきたいと心の底から強く思いました。ふと目を覚ました信子が「おはよ。どうしたの、そんなにじっと見つめて」と微笑んでくれて、その笑顔がなんとも愛おしく感じられました。お互い年齢を重ね、体力も落ちてきましたが、こうして支え合いながら新しい一歩を踏み出せるのは、幸せなことだとしみじみ思いました。
それからというもの、信子は次の旅行プランをいろいろと考えてくれるようになりました。「次はどこに行こうか?」と二人で話し合う時間も、また特別な楽しみです。日常生活でも、ふとした時に名前で呼び合うことが増え、まるで若い頃に戻ったような気さえします。
これから待っているのは、まだ見ぬ季節の数々。どんな景色が私たちを待っているのかはわかりませんが、二人で手を取り合い、静かに歩みを進めていくことが、何よりの幸せだと感じています。長い会社生活に区切りをつけた今、私たちの旅はようやく始まったのです。あと20年は妻とゆっくり過ごしたいなと思う今日この頃です。