
あの夜、私は夫に抱かれながら、私はもう一度女に戻っていく自分を感じていました。
汗ばんだ額に夫の手が触れ、思い出すように重ねられた口づけは、どこまでもやさしく、けれど確かに熱を帯びていました。
「恵子……」名前を呼ばれた瞬間、私は胸の奥がきゅっと痛くなるのを感じました。
十年ぶりに夫に触れられる身体は、戸惑いと思っていた以上に喜んでいて、自分でもびっくりするくらい反応してしまいました。もしかしたらこの瞬間を、ずっとどこかで待ち続けていたのかもしれません。夫の腕の中で、もう枯れたと思っていた感情が、こんなにも濃密に蘇ることに驚いたし、泣きたくなるほど幸せでした。
夫が定年を迎えて、もうすぐ三年になります。
それまでは、互いに忙しく働いていたせいもあって、あまり顔を合わせる時間も少なかったのですが、それがかえってちょうどよかったのだと、今になってしみじみ思います。
夫が家にいるようになってからというもの、私の生活はなんとも息苦しくなりました。
別に大きな喧嘩をするわけではありません。夫は無口な人で、家でもテレビをぼんやり見ているか、新聞を読みふけっているか、それかぼんやり窓の外を眺めているか。そんな毎日です。でも、それがダメなんです。ずっと黙って座っている夫の存在が、重くのしかかってくるような気がしてしまうのです。
私はパートで週に三日、今でも近くのスーパーで働いています。朝から昼過ぎまでの短い時間ですが、その時間だけが、いまの私にとって自由を感じられるひとときです。家に帰ると、そこには必ず夫がいる。何かしてくれるわけではなく、文句を言うでもなく、ただいるんです。
でも、何もしないということは、逆に、何かを拒まれているような気分にさせられるのです。
子どもたちはもうとっくに巣立ち、上の娘は結婚して遠方に住み、息子は東京で忙しく働いています。孫の写真を送ってくれるのがせめてもの慰めですが、それを一緒に見て笑い合う夫婦の姿なんて、うちにはもうありません。
私たちは夫婦は、もう十年以上、夜の営みというものもなくなりました。最初のうちはお互い疲れていたからとか、そういう理由があったような気もします。でも、今思えば、そんな言い訳に隠れて、私たちはただ距離をとっていただけなのかもしれません。
私だって、もう六十歳です。世間的にはもう女じゃないのかもしれません。でも、心のどこかではまだ女扱いされたいし、触れられたい、そんな気持ちを完全に捨てきれずにいるのです。それはやっぱり夫であってほしい。
それなのに、夫はもう私のことを、家事をしてくれる世話人ぐらいにしか見ていないような気がしてなりませんでした。
そんなある日、私は親友の和美と、駅前の喫茶店でランチをしました。和美とは中学時代からの付き合いで、かれこれ五十年の付き合いになります。お互いの若い頃も、結婚生活も、子育ても、全部知っている気心の知れた相手です。
久しぶりに会った和美は、相変わらず若々しくて、生き生きとしていました。
私と同い年のはずなのに、肌艶も良く、声にも張りがある。
思わず「なんか、ますます元気そうね」と言うと、「そっちこそ、まだまだ色っぽいじゃない」と返してくれました。
もちろんお世辞半分なのは分かっています。でも、その何気ない一言が、私の胸にじんわりと染みていきました。
私が夫の愚痴をぽつぽつと話し出すと、和美はじっと私の目を見つめ、「じゃあさ、うちの夫と交換してみる?」と、突拍子もないことを言い出したのです。一瞬、冗談だと分かっていても、私は笑いながら言葉に詰まりました。
「なによ、それ~」と笑い飛ばしつつも、どこかでその提案が、現実味を帯びて心に残ってしまったのです。
帰り道、夕暮れの道を一人歩きながら、私は自分の胸の奥に小さな波紋が広がっているのを感じていました。まさかね、そんなこと……。
あの日から数日が経ちました。喫茶店での和美とのやり取りは、たわいもない冗談として過ぎていくものだと思っていました。
ですが、どうにも心のどこかに引っかかって、家にいる夫の後ろ姿をぼんやり見つめる時間が増えていきました。
テレビを観ている夫の横顔。以前なら、そんな姿にも何かしらの安心感を覚えていた気がします。でも今は、ただ壁みたいに、そこにあるだけの存在。近いようで、遠い。そのくせ、妙に私の生活には入り込んでくる。
冷蔵庫のものが少なくなれば「買い物行ったのか?」と聞いてきたり、掃除機をかけていると「今かけなくても良いのに」とつぶやくように言ってきたり。小言じゃないけれど、刺さるんです。細く、じわじわと。
そんなある日の夜でした。
夕食の後、夫はいつものように座椅子にどっかりと腰を下ろし、リモコンをいじってバラエティ番組を流していました。
私は流し台の片付けを終えて、やっとひと息つこうとしていたところ、電話が鳴りました。
家事が終わったばかりだし一瞬無視しようかとも思ったのですが、夫が振り返りもせずに「電話、鳴ってるぞ」と言ったので、渋々取りました。相手の声を聞いた瞬間、私は背筋がピンと伸びました。
和美でした。
「この前の話、やってみようよ」と、何のためらいもなく言うのです。私は冗談だと思いながらも、慌てて声をひそめて言い返しました。
「ちょっと…本気で言ってるの?」すると、和美はおかまいなしに言いました。「じゃあ、代わって。夫に話すから」
私はごにょごにょと言葉を濁しているのが、夫も気になるのかずっとこちらを見ています。なので仕方なく夫に受話器を渡しました。
夫は一瞬、怪訝そうに私を見ましたが、受け取ると「もしもし」と、普段では聞かないような丁寧な声で話し始めました。
あのよそ行きの声に、私はなぜか妙な違和感と、少しの嫉妬を覚えました。
電話を置いた夫は、ぽつりと言いました。「今度、和美さんの家族と一緒に食事しようってさ」それだけでした。まるで、ただの予定のひとつを共有するように。でも私の中では、何かがゆっくりと動き出していたのです。
そしてその数日後。
和美とその夫のたかしさんが、我が家にやってきました。私は正直、緊張していました。
和美の夫は、人前ではそうでは無いですがかなりの亭主関白なので、かなり不安でした。
ですが、久しぶりにあったたかしさんは、よそ行きの態度なのか、ずいぶんと穏やかで物腰のやわらかい雰囲気になっていました。
夕食は思った以上に和やかに進み、笑い声も飛び交いました。夫も、たかしさんも、焼酎が入るにつれて口数が増え、普段の二人とは思えないような陽気な様子に。そんな空気の中で、ふいに和美が言ったのです。
「じゃあ、アンタたち。今日からしばらく交代してみてよ?」私の箸が止まりました。
思わず夫を見ましたが、酔っていたせいか「おお、いいじゃん」と笑いながら言ったのです。
たかしさんも、「面白いこと言うなぁ」とまんざらでもない様子。
それからの流れは、あれよあれよという間でした。
「ほら、もう酔ってるし、連れて帰るね」と和美が立ち上がり、夫の腕を取り、そのまま玄関へと歩き出しました。夫は振り返ることもなく、ふらふらとついて行きました。
ぽつんと、私とたかしさんだけが残されました。
たかしさんは、座椅子にもたれかかりながら「すみません、ちょっと飲みすぎたみたいで」と言うなり、そのまま目を閉じてしまいました。
私はどうしたらいいのかわからず、ただ部屋の空気をかき混ぜるように掃除機のコードを巻いたり、空いたグラスを下げたりしていました。
そして、たかしさんに毛布代わりのタオルケットをそっと掛けて、自分の寝室に入りました。
心がざわついて、なかなか寝つけませんでした。
でも、それと同時に、どこか現実味が薄くて、まるで誰かのドラマを横から見ているような、妙な気分でした。
ほんとうに、こんなことが起きてしまうなんて。私は布団の中で、静かにまぶたを閉じました。
翌朝、私は不思議とすっきりと目覚めました。
昨夜あれほど胸がざわついていたのに、目を開けた瞬間、頭の中は妙に静かで、まるで長い夢から覚めたような気持ちでした。
けれどリビングに足を踏み入れたとたん、現実がじわりと押し寄せてきました。
そこには、ソファの上で寝息を立てているたかしさんの姿がありました。タオルケットが少しずり落ちていて、裸足が覗いていました。
思わず、ああ本当に昨日のことは現実だったんだな、と思いました。
私の家に、夫ではない男性が泊まっている。それだけで、少しだけ空気の色が変わった気がしました。
キッチンに立ち、いつものようにお味噌汁を温め、焼き魚をフライパンにのせて火をつけました。
それは何十年も染みついた朝の動作でしたが、その日の朝は、少しだけ背筋がしゃんとしたような気がします。
誰かのために朝ごはんを用意するという行為に、わずかばかりの緊張が伴っていたのです。
やがて、たかしさんが寝ぼけ眼で起きてきました。
髪はくしゃくしゃで、Tシャツの肩も少しずれていて、それがなんだか無防備で、見てはいけないものを見たような気がしました。
彼はしばらく部屋を見渡してから、ようやく状況を思い出したようで、あわてて姿勢を正し、「おはようございます」と、少し申し訳なさそうに挨拶をしてきました。
そのぎこちなさが、かえって私には心地よかったのです。
私は笑って、「朝ごはん、食べますか?」とだけ声をかけました。
食卓を挟んで向かい合うと、彼は気を遣うように箸を持ち、何度も小さく頭を下げながら食べてくれました。
「すみません、昨夜は本当に…」その一言のあと、彼はしばらく黙ってしまい、私もそれ以上、何も言いませんでした。
食後、和美に電話をかけたたかしさんは、受話器を持ったまましばらく沈黙し、それからぽつりと呟きました。
「帰ってこなくていいってさ。一週間、よろしくお願いしますって…」
私はその言葉を聞いた瞬間、肩の力がふっと抜けたような、不思議な感覚に襲われました。戸惑いよりも、受け入れてしまっている自分に驚きました。まるで、ずっと前から決まっていた予定を確認しただけのような、そんな落ち着きがありました。
それからの数日間、たかしさんは本当に“借りてきた猫”のように、私の言うことに素直に耳を傾けてくれました。
玄関の靴を揃えたり、食後の茶碗を自ら洗ってくれたり、庭の草抜きをしてくれたり。
私が「これ、お願いできますか」と言うと、「はい」とだけ答えて、すぐに動いてくれる。
夫にはとうの昔に期待するのをやめた“ちょっとしたこと”が、こんなにも心に響くなんて思ってもみませんでした。
そして、何日目かの夜でした。たかしさんは、食器を片づけながら、ぽつりと言いました。
「妻とは全然違うんですね、戸田さんは。なんだろう、こう…静かなのに、芯があるというか…」
私は特に何か変えようと思っていたわけではありません。ただ、これまでの生活をいつも通り続けているだけ。
でも彼にとっては、私の“普通”が、新鮮だったのでしょう。
たかしさんは、まるで新しい風景を歩いている人のように、戸惑いながらも一歩ずつ進もうとしているようでした。
その姿が、なんだかいとおしく感じてしまったのです。
「定年したら、男も家のこと、ちゃんとやらなきゃダメなんですね」そう言って、少し照れくさそうに笑ったたかしさん。
私は、夫の顔を思い浮かべながら、静かに頷きました。
それからの三日間も、彼は変わらず、黙々と私を支えてくれました。
私が少し疲れていれば気づかいの言葉をくれ、洗濯物が重ければ代わりに干してくれる。
まるで、そこに居ること自体が自然であるかのように、彼は私の家での居場所を見つけていきました。
私はそれを受け入れている自分に、少し驚きながらも、心のどこかで安らぎを感じていました。
この数日で、私は確かに変わっていたのだと思います。いつからか、夫との間で閉ざされていた心の扉が、少しずつ風を受けて軋みながら開いていくような、そんな感覚でした。
一週間という時間が、こんなにも濃密に過ぎていくものだとは思いませんでした。
たかしさんとの奇妙な同居生活が終わるころには、私はすっかり家の空気に馴染んだ彼の気配に、どこかしら名残惜しささえ感じていました。
そして、いよいよ夫が戻る朝。たかしさんは丁寧に、申し訳なさそうにお礼をし、帰っていきました。
私は朝から落ち着きがなく、掃除機をかける手もどこか空回りしていました。
久しぶりに髪を丁寧に巻いてみたり、口紅の色を選び直したり――そんな自分が少し滑稽に思えて、ふっと笑ってしまいました。
玄関のドアが開く前に、外の気配を感じ取りました。
ドアの向こうから聞こえたのは、聞き慣れた、でもどこか柔らかくなった声。
「ただいま」その瞬間、胸の奥がじわりと熱くなり、私は思わず返しました。
「おかえりなさい」夫の表情は、なぜか少し照れているようでした。
何も語らなくても、何かが変わったということが、互いに伝わった気がしました。ほんの少しだけ、夫の目が私の姿を見つめ直すように動きました。私はその視線に、まるで久しぶりに陽だまりの中に身を置いたような、そんな温もりを感じました。
夕食はいつも通りの献立でしたが、なぜか少しだけ、味噌汁の塩加減が優しく感じられました。
食後、お風呂も入った後、リビングのソファに並んで座りました。夫はテレビをつけるでもなく、黙って私の隣に座り、少しだけ肩を寄せてきました。その距離の近さに、私はほんの少しだけ息を呑みました。何も言葉にしないまま、夫は私の手をそっと取ってきました。
昔、若かった頃によく繋いでいた手の感触が、思い出の奥から静かに蘇ってきました。
夫の手は、思っていたよりもあたたかくて、少しだけ震えていました。
その震えが、私の心の奥の、忘れていた引き出しをひとつ、ゆっくりと開けていったのです。
私は夫の手を握り返しました。何も言葉はいりませんでした。ただ、そのまま、二人で静かに立ち上がり、寝室へと向かいました。
部屋の灯りを落とし、カーテンの隙間から洩れる街灯の淡い光が、天井にやさしく揺れていました。
夫がそっと私の髪に手を伸ばし、指先が頬に触れました。
その瞬間、体中にじんわりと熱が広がり、私は何も考えられなくなっていました。
10年ぶりです。夫に触られるだけでなんだか体が痺れました。そして夫の口づけは、昔とは違う、どこか遠慮がちで、でも優しいキスでした。私は静かに目を閉じ、そのぬくもりを、ゆっくりと迎え入れていきました。布団の中で交わした肌と肌は、決して若さにあふれたものではありません。夫に触れるたびに、私の体も自分でもびっくりするくらい反応しました。もしかしたら久しぶり過ぎて興奮していたのかもしれません。こんな歳を取った私でも夫が愛してくれる。
夫に抱かれるということが、これほどまでに心を満たすものだったのかと、私は震えるような息を漏らしながら思いました。
途中からは頭が真っ白になりあまり覚えていません。夫の声にならない吐息だけが、私の中に染みこんでいきました。
終わったあと、夫は黙って私を胸に抱き寄せてくれました。
私はその胸に顔をうずめ、夫は、何も言わずに、ただ腕に少し力を込めて応えてくれました。
それだけで十分でした。あの日から、私たちは少しずつ、でも確かに変わっていきました。
日常の中にハグが増え、手をつなぐことも自然になり、言葉は少なくても、気持ちがすっと通い合うようになりました。
夜の営みも、頻繁ではありませんが、月に一度か二度、互いに求め合うことができるようになりました。
やっぱり夜の行為があるというのは身だしなみに自然と気を付けるようになるのか、女を意識した行動になったかもしれません。58キロあった体重も50キロに戻りました。30年前の服が入るようにスタイルが戻りました。夫もどこか無精ひげで過ごすことがなくなりましたし、どこか自信を取り戻したような表情を見せています。
和美からは、後日「また一緒に飲みに行こう」と連絡がありました。
あの一週間が、ただの気まぐれではなく、私たちの人生に必要な通過点だったのだと、今でははっきりとわかります。
あと何年、夫婦として過ごせるかはわかりません。
でも、これからの毎日を、お互いに少しだけ努力しながら、思いやりながら、ちゃんと“ふたり”で歩いていける。
そんな希望を、私はいま、胸いっぱいに抱いています。
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