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恥ずかしながらまだ生理があるんです

シニアの恋愛は60歳からチャンネル様シニアの話
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私の名前は大城正和です。定年してから、もう一年が過ぎました。

最初の頃は、それはもう清々しい気分でした。朝の通勤電車に乗らずに済む解放感っていうんですかね、体の奥からふっと楽になったような気がして、毎朝ゆっくりコーヒーを淹れては窓の外の景色をぼーっと眺めたりして、ああ、これが「自由」ってやつか、なんて思っていたものです。でも、それも三ヶ月もすれば飽きてきます。

毎日特に予定もないし、近所を散歩したってせいぜい一時間、家に戻ってきてテレビをつければ昼のワイドショーがダラダラ流れているだけ。気がつけば、なんとなくぼんやりとした空虚な日々を送っていました。

そんな生活の中で、ふと気づいたんです。なんだか最近、夜になると身体が騒がしい。

いや、お恥ずかしい話なんですが、若い頃のような“あれ”が、また戻ってきたんです。性欲というやつですね。退職する前からもう疲れ切っていてもう枯れていくばかりだと思っていたのに、不思議なもので時間と静けさがそれを呼び起こしたんでしょうか。

だけど、うちはもう十年以上、夫婦としての関係は終わっています。美和も、なんというか、そういうのに対してはだいぶ前から気持ちを閉ざしてしまったようで。こっちも無理に誘うのも嫌だし、年相応に距離を置いていたつもりでした。だから今さら、「最近ムラムラしててさ」なんて言えるはずもありません。

とはいえ、溜め込むのもしんどいので、こっそりスマホで動画を見て、まあ、自分で処理する日々です。書斎でひっそり、ヘッドホンなんかしながら、まるで悪いことでもしているような背徳感とともに。

我ながら情けないとは思うんですよ。でも、誰に話せるっていうんですか。

美和にはもう言えないですしね。男同士でそういう話ができたのも若い頃までで、今じゃ集まったって健康の話か血圧の話ばかりです。そうなると、もう自分の中にしまっておくしかないんですよね。抱えるのが、当たり前になってくる。

最近は、美和が料理をしている後ろ姿をなんとなく眺めたり、洗濯物を干している腕の動きに見惚れたりしている自分がいて、そんな自分に驚いたりもします。今さらですが本当に。

でも、そうやって日々を過ごしていた、ある日のことです。

きっかけというのは、案外くだらないことだったりします。きっと、その日も、いつもと同じような、変わりばえのない午後だったと思います。

トイレに入って、用を足して、ふと便器に目を落としたときでした。少し便器に血が付いていたんです。よく見ると2か所。私では無いということは、妻だということです。

え?まだ生理があるのか?そんな話していなかったので分かりませんでした。

妻はもう56歳です。

最初、何が起きているのか分からずに、少し考えこんでしまいました。

体調悪いのかと聞いてみても、そんな様子は全く無いようでした。

生理なんてないだろうし、それからの私は急に、不安が湧いてきました。

体のこととなると、どうしても最悪の想像が先に立ってしまう。切れ痔とかならまだいいけど、重い病気じゃないだろうか。しかも、そういう“女性特有の病気”ものだったらどうしよう。

そうして、私の心の中に、静かだった生活を揺るがす、ひとつのざわめきが芽生えたのです。

その日、美和は夕飯の支度をしながら、いつもと同じように台所に立っていました。

白いエプロンの紐が背中で結ばれていて、その姿は何十年と見慣れたものだったのに、不意に私は胸がざわつきました。

夕食のあと、食器を片付けながら思い切って声をかけてみたんです。

「なあ、お前…なんか体調悪くないか?」

自分でも、随分遠回しな聞き方だと思いました。でも美和は振り返りもせず「ううん、大丈夫よ」と、鍋を洗いながら答えました。

その声が、どこか張り詰めていた気がしました。妙に明るくて、逆に不自然だったんです。

「でも…トイレに、血が…」と続けると、彼女は一瞬、手を止めました。背中越しにこちらを見ようともせず、「ごめん付いてた?生理よ」と、あっけなく言ったんです。

――生理?私はその言葉が、自分の中でうまく処理できませんでした。

美和はもう56です。てっきり、もうそういうものは無いのだとばかり思っていました。

それなのに、さらっと「生理よ」と言われて、頭の中がざわめきました。

「……本当にそうなのか?」しつこかったんでしょうね。自分でも、聞き方が悪かったと反省しています。

でも、驚きのあまり、つい確認したくなったんです。

美和はついにこちらを振り向き、眉をひそめて、「何? そんなにおかしいの?」と語気を強めました。

私は「いや…おかしいっていうか…心配でさ」と言い訳をしたんですが、美和はもう怒っていました。

「大丈夫だって言ってるのに、しつこいわよ」そのままエプロンを外して寝室に行ってしまい、私は茶の間にひとり残されました。

怒らせてしまいました。それも、分かってて、言葉を選べなかった自分が情けなかった。

ただ、あの顔色の悪さや、腰をさすっていた仕草、どこか表情の曇った目。すべてが「ただの生理」で済む気がしなかったんです。

その夜、私は書斎でパソコンを開き、「56歳 生理 続く」と検索窓に打ち込みました。

更年期、子宮筋腫、内膜症……ネットにはさまざまな情報が並んでいて、読みながら余計に不安になっていきました。

55歳を過ぎても生理が続く人が一定数いることは知りました。閉経には個人差がある、とも書いてある。

そんな時、「筋腫」って言葉が目に止まりました。良性でも、大きくなれば手術が必要になることもあるらしい。

最悪のケース――そんな文字ばかりが目に飛び込んできて、私の胸はどんどん重たくなっていきました。

翌朝、意を決して、美和に「病院に行ってくれないか」と頼みました。最初は案の定、露骨に嫌そうな顔をされました。

「なんでそんな大げさにするの? ただの生理だよ?」そう言われて、また引き下がりそうになったけれど、私は食い下がりました。

「分かってるよ。でも、俺が心配なんだよ」心から出た言葉でした。

彼女がどうこうより、自分が怖かったんです。

何かあったら。もしあの時もっと早く言っておけばよかったって、後悔するのが。

しばらくの沈黙の後、美和は小さくため息をついて「…わかったわよ。でもついてきてよ」とだけ言いました。

そうして、私たちは夫婦になって初めて一緒に産婦人科を訪れることになったのです。

赤ちゃんが出来た時にすらついて行かなかったのにです。

予約した日の朝。美和は口数が少なく、私は少し気まずくて、天気の話とか新聞の話とか、どうでもいいことを口にしては黙ってしまいました。病院の待合室は、若い妊婦さんや小さな子ども連れの女性ばかりで、私たち夫婦は明らかに浮いていました。

恥ずかしかったですよ。いや、本当に。

こんな年齢で、まさか自分が婦人科の待合室でそわそわする日が来るとは思いませんでした。

でも、美和の隣に座っていると、なんだか不思議と悪くなかったんです。

静かに手を組んでいる彼女の横顔を見ながら、ずいぶんと長く一緒にいたんだな、とか。

言葉にはしなかったけれど、あの時間だけは、なんだか「夫婦」らしかった気がします。

診察は、思っていたよりもあっさりと終わりました。美和が一人で診察室に入っていって、待合室で私が一人ぽつんと待つ。

あの時間が、やけに長く感じました。あの扉の向こうで何か悪いことを告げられてはいないか、想像しては打ち消して、また想像して、時計ばかり見ていた気がします。

「大城さま、どうぞ」

名前を呼ばれて、美和と一緒に先生の前に座ったとき、私は少し手が震えていました。

年配の女医さんで、落ち着いた優しい声でした。結果は、何もありませんでした。

筋腫はありますが、年齢的にもう大きくなることは無いでしょうし、今の所経過観察で大丈夫とのことでした。

まあ、閉経に向けて周期が変わったり体調の変化には気を付けてくださいねとのことでした。

その言葉を聞いたとき、私は肩から何か大きな荷物が落ちるような感覚に襲われました。

美和も、やっと表情が緩んで、目を伏せたまま小さくうなずいていました。

先生が柔らかく微笑んでくれて、その笑顔が本当にありがたくて、帰り道はふたりともほとんど言葉もなく、ただ並んで歩きました。

車の中でようやく、私は小さな声で「良かったな」と言いました。

そのとき、美和は窓の外を見たまま「…私、まだ女なんだよ」と言ったんです。

その一言に、私は心臓をぎゅっと掴まれたような気がしました。

いや、意味は分かってるんです。まだ生理があるってことを、あの医者も言っていたし、美和自身がそう言ってる。それだけのことのはずなんです。けれど、あの言い方。あの声。

“私はまだ、女なんだよ”――その言葉の奥にある、美和の心のようなものが、私の胸に深く刺さったんです。

十年ですよ。十年以上、夫婦としてそういう関係は持ってこなかった。

手をつなぐことも、キスをすることもなくなっていた。

それが、自然な流れだと思っていたし、お互い歳をとって、もうそういうことは卒業したつもりでいた。

でも、美和はまだ、女としての自分を、ちゃんとどこかに持ち続けていたんだ。私はそれに、何も気づいてこなかった。

もしかしたら、自分の方がずっと怖がっていたのかもしれません。誘って断られるのが怖い。拒まれて、惨めな気持ちになるのが怖い。だから私は、欲が戻ってきても、美和にそれを一切伝えず、自分だけの世界に閉じこもっていました。

だけど、あの「女なんだよ」という言葉を聞いた瞬間に、私は、久しぶりに胸の奥が熱くなるのを感じたんです。

夜になって、ふたりでコーヒーを飲んでいるとき、私はふと美和の横顔に目をやりました。うつむきがちなまつげの影、いつも通りの静かな表情。でもそこに、私はずっと忘れていた“女の色”を見た気がした。

手が勝手に動いたんです。湯飲みを置いた拍子に、美和の手に、そっと自分の手を重ねていました。

美和は一瞬びっくりしたように私を見て、それから目を伏せました。

それが、拒絶じゃないと分かって、私は思わず手を握り返しました。声は出ませんでした。ただ、呼吸が浅くなっていくのを感じていました。こんなふうに美和の手を握ったのは、いったい何年ぶりだったんでしょうか。温かくて、柔らかくて、指先のぬくもりが、胸の奥をじわじわと溶かしていきました。

この夜が、きっと、何かの始まりになる。そう思いながらも、私はまだ信じられないような気持ちで、美和の手を握り続けていました。あの夜のことを、きっと私は一生忘れないと思います。

眠る前、美和はいつもよりゆっくりと寝室へ向かいました。その背中を見ていたら、自然と身体が動いて、私もあとを追っていました。どこか背中が頼りなく見えたのは、気のせいじゃなかったと思います。

自分でも驚くくらい、心がふるえていたんです。

布団に入っても、お互い何も言いませんでした。ただ、布団の中で手がまた自然に重なったんです。昼間のあの続きのように。

私は、長い間言えなかった言葉をようやく絞り出しました。

「ごめんな、美和…」それが何に対する謝罪かは、言わなくても伝わっていた気がします。

拒まれるかもしれない、照れられて笑われるかもしれない。そんな心配は少しだけあったけれど、

それよりも、今のこの瞬間を逃したらもう一生触れ合えないかもしれない――そんな気持ちの方がずっと大きかった。

彼女は、黙ったまま手を握り返してきました。私の手よりもずっと細く、やさしく、でも確かに受け止めてくれている。

そのぬくもりが、何よりも大きな返事でした。

おそるおそる、彼女の肩に手をまわしました。何十年も前のように、いや、それ以上に緊張しました。

すると、美和はそっとこちらに身体を預けてくれました。ふわっとした髪が、私の頬に触れて、その香りがほんのり鼻先をくすぐったとき、ああ、本当にこういう時間がまた来るなんて――と思って、心がじんわりと熱くなりました。

照明は消えていましたが、月明かりがうっすら障子を透かしていて、彼女の表情がかすかに浮かびました。

頬にそっとキスを落とすと、彼女の肌が、ほんのりと熱を帯びているのが分かりました。

何も言わず、ただ静かに、そのまま彼女を抱き寄せました。

久しぶりの肌は、想像していたよりも柔らかく、そして温かかったです。

指先が触れるたび、彼女の身体が小さく震えるのが分かりました。

それでも彼女は逃げませんでした。

いや、きっと彼女も、ずっとずっと、こうして欲しかったのかもしれません。

ゆっくりと、互いを確かめ合うように、慎重に、丁寧に、ひとつひとつ、昔をなぞるように身体を重ねていきました。

それは、若い頃のような激しさでも、ただの埋め合わせでもなくて、

どこまでも静かで、でも確かに熱を帯びたものだったように思います。

体の奥底から、忘れかけていたものがこみ上げてきて、何度も胸が詰まりそうになりました。

長く忘れていた「夫婦」という感覚が、ようやく手元に戻ってきたようで。

そして、美和の方も、そっと目を閉じながら、私を受け入れてくれました。

心が通うというのは、こういうことだったのかもしれません。言葉なんて要らなかった。

肌と肌が重なって、吐息が交わるだけで、充分でした。

すべてが終わったあと、美和は私の腕の中で静かに眠っていました。

寝息が穏やかで、胸の動きがゆったりとしていて、それを眺めながら、私は静かに笑いました。

ああ、よかったなって、心の底から思いました。まだ、間に合った。きっとこれからも、ずっと若い頃のようにはいかないでしょう。

でも、こうして「女」と「男」に戻れた夜を、私はこの先、何度でも思い出すと思います。

「もう一人でしないでね」妻に言われた一言は衝撃でした。

妻は私が一人で処理していることを知っていたのです。それが、自分はもう女として見られていないんだと思い、ずっと苦しい思いをしていたようです。恥ずかしいと同時に自分の不甲斐なさが妻に苦しい思いをさせていたんだなと改めて実感しました。

その翌朝、何事もなかったかのように彼女は台所に立ち、いつもと同じように味噌汁を作っていました。

でも、ほんの少しだけ、背筋がすっと伸びていた気がしたのは、たぶん私の思い込みじゃないでしょう。

私は新聞をめくりながら、こっそりと美和の横顔を盗み見ていました。もう、スマホで動画を見ることも、たぶん、無いと思います。

何十年も連れ添った相手に、また恋をする。

そんなことがあるんだな――と、定年過ぎた男が、いまさらながらに思った、そんな夜でした。

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