
私の名前は山中美穂、五十七歳です。
気がつけば、子どもたちはすっかり手を離れ、孫も出来ました。夫と二人だけの生活になって、もう何年にもなります。
でも、私自身はというと……まだ“おばあちゃん”と呼ばれるには、ちょっと早いんじゃない?なんて思っていたりもするんです。
先日なんて、娘と一緒に近くのショッピングモールを歩いていたとき、店員さんに
「姉妹ですか?」なんて言われてしまって。
もちろんお世辞だってわかっています。でも、正直、嬉しかったんですよね。
その日は帰ってからも、なんとなく機嫌がよくて、鏡の前で髪を巻いてみたりなんかして……我ながら単純だなって笑ってしまいました。
でも、やっぱり女って、いくつになっても誰かに「きれいね」って言われたいものなんですよね。
それが夫じゃなくても、誰かの何気ない一言だったとしても。まして、夫がそういうことを口にしてくれたのなんて、何年前だったか……思い出せないくらいです。
夫は昔から無口で、職人気質。
朝は早く、夜は遅い。仕事が終われば、テレビの前で缶ビールを一本、そしてそのまま居間でうたた寝。
悪い人じゃないんです。浮気一つせず、家計も任せてくれて、私に不自由させたことなんてない。
でも、女として見られている実感は、もう何年も前から遠のいてしまったような気がしています。
そんな私が今でもちょっと“ときめき”を感じる場所――それが、団地の中庭での井戸端会議。
毎週火曜と金曜の午後三時、お茶とお菓子を片手に、近所の奥さんたちが数人集まっては、ああでもないこうでもないと噂話に花を咲かせます。
子どもの話、姑の話、ちょっとした病気や更年期の話なんかも交じりますが、何といっても盛り上がるのは、やっぱり“男の話”。
ここ最近の話題といえば――そう、あの“配達員”さんのことです。
年の頃は四十五、六くらいでしょうか。
高身長で、引き締まった身体つき。笑うと白い歯が見えて、その笑顔がまた爽やかで……団地内でも、ちょっとした有名人です。
最初は「新しく担当になった人ね」くらいにしか思っていなかったのですが、どうやら一部の奥様方の間では、すでに“何か”があったらしいという噂も……。
「平田さんの家に入って、三十分出てこなかったらしいわよ」
「ほら、岡田さんとこでも、玄関じゃなくて家の中まで荷物運んでもらったんだって」
「…ねぇ、あの人、いったい何人と?」
噂話っていうのは、火がつくと早いものです。
ただ、皆が妙に口を閉ざすからこそ、よけいに真実味があるというかなんというか。
“みんなが何もないですよって”顔で、内心では何かあったんじゃないの?なんて、私たちは勝手に妄想して楽しんでいるんです。
私だって、そんなつもりじゃなかったんです。
ただ、ある日、重い荷物を家の奥まで運んでもらったことがきっかけで……少しずつ、彼が気になるようになってしまったんです。
その日も、午前中に食料品や日用品をネットでまとめて注文していた私のもとに、配達員の彼がやって来ました。
いつもなら玄関先で受け取るだけなのに、その日は大きな段ボールが二つ、重くて私一人ではとても運べそうになかったんです。
「中までお持ちしましょうか?」
彼はそう言って、躊躇なく靴を脱ぎ、私のリビングまで荷物を運んでくれました。
そんなに広くもない我が家の中で、彼がすぐそこに立っている。
まだ昼前、レースのカーテン越しに日差しが差し込んでいて、その柔らかい光が彼の頬を照らしていました。
「助かります。すみませんね、こんなところまで…」
「いえいえ。重たいですからね」
その笑顔に、胸の奥がふっと熱くなるような感覚を覚えました。
そんな気持ち、もう何年も感じていなかったはずなのに。
それからというもの、買い物帰りに荷物をいっぱい持っていると手伝いましょうかと荷物を持ってくれたり、何かと手伝ってくれるようになりました。
時間指定などしていないのに、なぜか私の在宅時間にぴったりと合わせて現れる。
それが仕事なのに、私の為に特別扱いしてくれているのかしらなんて、心のどこかで期待してしまっている自分がいました。
私が玄関に出ると、彼はにこっと笑って、私の名前をやけに柔らかい声で呼びます。
時には、「髪、切ったんですね」なんて、そんなことこんな歳になって男性に言われることなんてありません。そうやってさりげなく言葉をかけてくることもあって、私の心は少しずつ、じわりじわりと彼に引き寄せられていったのです。
でも――その一方で、団地の中では、確実に何かが起きていました。
ある日、井戸端会議の帰り道に、奥様の一人がぽろっと漏らしたんです。
「山中さん、最近やけに明るくなったわよね」
「そうそう、肌ツヤも良くなったし…何かあったんじゃないの?」
半分冗談、半分本気で言ってくるんです。そう、みんな私の反応を伺っているんです。
その“私の反応を見て”、あの配達員と関係があるのか無いのかを見てるんです。
表では慎ましやかに振る舞いながら、裏ではこっそり火遊び――そんな話、信じたくないけど、この団地ではありそうで、怖いくらいリアルで。そして何より、一番怖かったのは、私自身もその一歩手前に立っていたことでした。
彼は、だんだんと距離を詰めてきました。手が偶然触れる頻度が増えていく。帰り際に一瞬だけ目を逸らさずに見つめてくる。
私が受け取った伝票を見て、「山中さんって、字も綺麗なんですね」なんて、言わなくていいようなことまで口にする。
ふいに、唇が乾くのを感じて、自分でも戸惑ってしまう。
そんなある日――彼が私に言いました。
「ねえ、山中さんは、今、幸せですか?」
唐突すぎるその言葉に、私は返す言葉が見つからず、ただ笑ってごまかすしかありませんでした。
でも、彼の目は笑っていなかった。ただ、じっと私を見ていました。
帰った後、私は鏡を見ました。いつもより口紅の色が濃い気がしました。いつもより胸元のボタンを開けていた気がしました。
そして、何より、心のどこかで彼の言葉に答えを出したがっている自分がいたのです。
“もし、私も誘われたら、どうするだろう”そんな問いが、ふと脳裏に浮かんで、私はそれをすぐに掻き消そうとしました。
でも、きっともう、彼はそれを分かっていたんだと思います。そして、私は――気づかぬふりをしていたのかもしれません。
その日も、彼は変わらず軽やかな足取りで現れました。けれど、どこか、いつもより視線が強い。そんな気がしたのです。
「今日も、重いので中までお持ちしますよ」いつものように、断る間もなく靴を脱いで上がってきた彼。
段ボールをリビングに置くと、手をパンパンと軽く叩きながら、私の方へとゆっくり振り返りました。
「……やっぱり、落ち着くなあ。山中さんの家」
何気ないようで、どこか含みのあるその声色に、私は少しだけ距離を取るように一歩下がりました。
でも、その腕を、彼の手が掴んできたのです。
「……ねえ、美穂さん。僕のこと、どう思ってます?」その目はまっすぐで、でも、どこか底が見えない。
私は笑ってごまかそうとしたけれど、彼はそれを許さなかった。すっと近づいてきて、私の耳元に低く、囁くように言いました。
「抵抗、するんですね。……へぇ」耳元で漏れたその言葉に、背中がひやりと冷たくなった気がしました。彼は、ゆっくりと続けました。
「この団地の奥さんたちは、みんなすぐに受け入れてくれるのに」――心臓が、止まるかと思いました。
その一言で、すべてが、カチリとつながったのです。
あの井戸端会議の噂。誰かが“言いたくても言えない”空気。
明るくなった奥様たちの目の奥にあった、微かな火照りのようなもの。
私は、特別じゃなかった。彼にとって私は、ただの「リストの一人」だった。
いや、それすらも、もしかすると確認の“途中”だったのかもしれない。ふっと、目の前がにじむ感覚がありました。涙じゃない。悔しさ。情けなさ。怒り。何より、自分がこんなにも“単純だった”ことへの、呆れにも似た感情。
「……帰ってください」震える声でそう言うと、彼はほんの一瞬だけ、眉を上げて、
「……あ、はいはい。そういうタイプね」とだけ言って、肩をすくめて出ていきました。
ドアを閉めたあと、しばらく私は立ち尽くしていました。今にも倒れてしまいそうな足元を、なんとか踏ん張って。膝のあたりがガクガクしていました。鏡の前に立って、自分の顔を見ました。うっすらとチークを入れた頬、リップがかすれた唇。
どこかに“女”を残したくて、もがいていた自分が、そこにいました。
「何やってるんだろう、私……」その声が、ぽつんと鏡の中の私の口から漏れました。
あんな人に、惑わされるところだった。見た目に、態度に、言葉に――。
「……違う、そうじゃない」そう自分に言い聞かせるように、私は化粧を落としました。
リップも、チークも、すべて洗い流して、ただの“私”に戻る。
そして、夜。夫が帰宅しました。何も知らない、無口なあの人が。
「ただいま」と小さな声で言い、玄関に並んだ私のスニーカーを軽く脇に寄せて靴を揃える。
そんな細やかな所作に、今まで気づかなかった“優しさ”が宿っていることに、私はようやく気づきました。
「おかえりなさい。……ご飯、すぐに温めるね」声が震えそうになるのを、私はどうにか堪えました。
その夜のメニューは、少しだけ頑張った夕飯にすることにしました。
気持ちを立て直すように、私はキッチンに立ちました。
――この家には、私の居場所がある。私の“時間”がある。
それを裏切るような真似をしていた自分に、私は深く頭を下げるような気持ちで、包丁を握りました。
あれから数日が経ちました。
配達員の彼は、あの日以来、私の前には姿を見せなくなりました。
いや、団地内ではまだ彼の姿を見かけるけれど――私の家は、違う人が来るようになったのです。
心の奥にはまだ、悔しさのような澱が残っていました。でも、それ以上に、私は夫に対して申し訳ないという気持ちでいっぱいでした。
そんなある日のこと。
夕食後、夫がふいに、おもむろに紙袋を取り出したんです。
「これ。……業者から、もらったんだけど。……使ってくれって」差し出されたのは、都内の高級ホテルの宿泊チケット。
なんでも、取引先の業者が用意した「夫婦で行ってこい」的なものらしく、半ば押し付けられたそうです。
「たまには、奥さん孝行しろって、うるさくてな」不器用な言い方に、思わず笑ってしまいました。
でも、その不器用さが、あの人らしい――そんなふうに思える自分が、確かにいました。
週末。
私はクローゼットから、少し丈の短いワンピースを引っ張り出しました。娘に「それまだ着るの?」と言われていたやつです。
でも鏡に映った私は、意外と悪くなかった。
「……まだいける」そう、心の中で呟いてから、夫と一緒に家を出ました。
ホテルは、まるでドラマの世界でした。広いロビーに、ガラス張りのエレベーター。
エントランスで小さくたじろいだ私の背中を、夫がそっと押してくれました。
それだけで、妙に安心したのを覚えています。
チェックインを済ませ、案内されたのはちょっとしたスイートルーム。
都会の夜景が一望できるガラス張りの窓に、私は思わずため息をつきました。
「……すごいね、こんな部屋、初めて」
「そうだな…」
それだけ言って、夫はソファに座り、黙って夜景を眺めていました。でも、その横顔が、とても穏やかで。
私は――この人の隣にいられることを、心からありがたいと思いました。
夕食は、レストランの個室でした。重たそうなメニューの名前に戸惑っていると、スタッフが気を利かせて、箸を持ってきてくれました。夫と顔を見合わせて、小さく笑い合う。なんだか、付き合い始めた頃の、初デートみたいで。
ワインも一杯だけ飲んで、少しだけほろ酔いになりました。
そして――部屋に戻ったあと。私は、しばらく窓の外を眺めていました。
その背中に、夫の手が、そっと触れました。
「……悪かったな、いろいろと」不器用なその言葉に、胸が詰まりました。
私は、そっと夫の方を向いて、微笑んで言いました。
「……ううん。こっちこそ、ごめんなさい」それ以上、言葉はいりませんでした。
夫がゆっくりと抱きしめてくれて、そのまま、唇が重なりました。
どれくらいぶりだったんでしょう。夫と、体を重ねるなんて。でも、その夜の彼は、いつもよりずっと優しくて。
少し照れたような仕草で私を見つめ、私の髪を撫で、肌に触れ、声を抑えながら愛してくれました。
重ねた手と手のあいだに、夫の想いが、ちゃんと伝わってきました。
言葉にはしないけれど、この人は、ずっと私を大切にしてくれていた。口にしなくても、想いはちゃんとあった。
それを、私は――気づかないふりをしていたのかもしれません。
行為が終わったあと、私は夫の胸に顔をうずめながら、ポツリとつぶやきました。
「……ごめんなさい」夫は何も言わずに、ただ、ぎゅっと私を抱きしめてくれました。
その腕の中で、私は心の奥にあったしこりが、すうっと溶けていくのを感じました。静かで、あたたかくて、濃密な夜でした。
翌朝
朝、ホテルの朝食ビュッフェで、夫は小さなおかずを少しずつ選びながら、
「……子供たちも来れたらよかったのにな」とぼそっと呟きました。なんだか、その何気ない一言が嬉しくて、私は微笑みながら応えました。
「そうだね。……今度、またみんなで来ましょ」
ホテルをチェックアウトした帰り道。都会のビルの隙間から差し込む日差しが、少しだけ柔らかく感じられました。
そして数日後
団地での生活は、また何もなかったように戻っていきました。井戸端会議も、洗濯物も、エレベーターでのちょっとした挨拶も。
配達員の彼は相変わらず見かけるけれど、もう私は心がざわつくことはありません。
その夜。私は、少しだけ張り切って、夕飯に夫の好きなすき焼きを用意しました。霜降りの肉も、ちょっと奮発しました。
ワインも開けて、ふたりでささやかな乾杯。
「なに、今日はどうしたの?」
「ううん、ただの気分。……たまには、いいでしょ?」夫は不思議そうに笑って、うなずきました。
私は、改めて思いました。この人と、生きていこう。この人を、これからも大切にしよう。見た目じゃない。言葉じゃない。
あの夜に、私のすべてが詰まっていました。私は残りの人生、夫に幸せになってもらえるように捧げたいと思います。