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壁が薄すぎる旅館

シニアの恋愛は60歳からチャンネル様シニアの話
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私の名前は池田裕子。もうすぐ62歳になります。

夫の守とは、二十歳そこそこで結婚して、もうすぐ40年。長いようで、あっという間だったような、不思議な年月です。

子どもたちはそれぞれ家庭を持ち、孫の顔も見せてくれるようになりました。家の中はすっかり静かになって、今は守とふたり、ゆっくりと時間が流れる暮らしを送っています。

「静か」と言えば聞こえはいいけれど、どこか張り合いがないというか、心に風が通り抜けるような寂しさもありました。

いつからだったでしょう。夫婦のあいだに、“触れ合い”という言葉が無縁になってしまったのは。

老いは誰にでも訪れるもの。でも私はまだ、完全に女を捨てたわけじゃないんです。けれど、自分から夫に求めるには勇気が足りず、夫も何ももちろん迫ってきません。いつか来るかなと思いながら、もう数年が経ってしまいました。そんな“遠慮のような壁”が、長い年月の中で静かに積もっていたのだと思います。

そんな中で、町内会の温泉旅行の案内が届きました。たった一泊の小さな旅。でも、不思議と心が揺れたんです。

「どうする?」と夫に聞くと、意外にも「たまにはいいかもな」と即答してくれました。

それだけで、なんだか胸の奥がほわっと温かくなりました。まだ“ふたり”でどこかへ行く気持ちが残ってるんだなって。

当日、町内の皆さんと一緒にバスに乗り込んだ私は、窓際で風景を眺めながら、夫の横顔をそっと盗み見ました。

あれ?こんな顔してたっけ……と、なんだか懐かしい気持ちにさえなりました。

昔は、こうやって肩を寄せ合って出かけることも多かったのに。子育てと仕事に追われて、いつの間にかそんな習慣さえ失くしていたんですね。

旅館は、山のふもとの小さな和風宿。木造の古びた佇まいがなんとも風情があり、玄関の前で深呼吸をすると、どこか懐かしい畳の匂いと、湯の香りが胸に沁みました。

部屋は広めの和室で、窓からは紅葉が少しだけ始まった木々が見えていて、その景色を見たとき、私は何とも言えない解放感に包まれました。

「ああ、若い頃に戻れたらなぁ…」そんなことを、ふと考えてしまったんです。

口には出せない、でも心の奥底にずっと眠っていた、静かな願いのようなもの。

夕食は大広間での会食形式。私たち夫婦の隣の席には、佐々木さんご夫婦が座られました。

同じ町内ではあるけれど、お名前を知っている程度で、これまであまり会話を交わしたこともなかったご近所さんです。

ご主人は健太さん、奥さまは理恵さん。おそらく50代前半でしょうか。お二人とも若々しく、理恵さんなんて一見してわかるほど肌の艶が違いました。

理恵さんが笑いかけてくださって、そこから自然と会話が弾みました。

話してみると、とても気さくで親しみやすいご夫婦でした。

理恵さんは明るくて優しい口調で、でもときおり見せるご主人との視線の交わし方が、どこか恋人のようで――

なんというか、“夫婦”というより“愛し合っている恋人”という雰囲気を感じさせるのです。

私はその様子に、ちょっとだけ胸がざわついて、何とも言えない気持ちになりました。

羨ましい、のかもしれません。ああいう空気を、私はまだ持っているんだろうか。そう思った瞬間、急に自分の身体のラインや、老けた手元が気になりはじめたのです。

そんな自分が、少し情けなくもあり、でもどこか、まだ“女”でいたいと思っていることに気づいてしまって……。

「佐々木さんご夫婦、仲が良くて素敵ね」と部屋に戻る道すがら、夫に言うと、「そうだな」と短く返ってきました。

その言い方が、なんだか恥ずかしそうで、私もなんとなく照れくさくなってしまい、それ以上何も言えませんでした。

でも、胸の奥で何かが、静かにほどけていくのを感じていました。

まさか、あんなことが待っているなんて――そのときの私は、夢にも思っていなかったのです。

夜の旅館というのは、不思議と音がよく響くものです。でもこの旅館は想像以上でした。

夕食後にひと息ついて、私は脱いだ浴衣を軽く整え、洗面所で髪をまとめていました。鏡に映った自分の顔を見つめていると、どんどん更けていく自分が情けなくて――まるで、忘れ去られた女のようでした。

でも、そんなふうに思ってしまうのも、私が自分自身で“もう終わった”って決めつけていたからなのかもしれません。

夫はすでに布団に入っていて、テレビをぼんやりと眺めていました。

「明日は朝早いんだってさ」そんなふうに呟いて、静かにリモコンを置いた夫の背中を見ながら、私も布団に入りました。

眠れるかな……と、ぼんやり考えていたそのときでした。

何やら声が響いてきます。

最初は、遠くで誰かがふざけて笑ってるのかと思いました。でもすぐに、それが“あの声”だとすぐに分かりました。

驚きと戸惑いと、そして……どこか身体の奥がざわめくような気配が、私の中で一気に広がっていきました。

夫の方を見ると、夫も目を見開いていました。夫と目が合い、思わず笑ってしまいました。

気にしないように気にしないようにと思うほど、気になってしまうものです。私は耳を澄ませてきいいました。

窓でも空いているのでしょうか。壁が薄すぎるのでしょうか。もう、はっきりと声が聞こえます。その声は、はっきりと理恵さんのものでした。夕食のときに見せてくれた、あの優しく柔らかい笑顔のまま、吐息を漏らしているような……そんな錯覚にとらわれました。

そして、それに応えるように聞こえてくる、男の人の息づかい。

ああ、これは本物だ……と、私は背筋がぞくっとするのを感じながら、思わず布団の中で手を握り締めてしまいました。

私は顔がいつのまにか火照っていることに気付きました。心臓はどくどくと鳴り続け、指先が妙に熱く、そして落ち着きません。

こんな状態で眠れるはずがありません。

その間もずっと隣の部屋のふたりは、迷いも遠慮もなく、お互いを求め合っていました。

それが、信じられないくらい美しく、羨ましく感じたんです。

その時夫が、こちらを向きました。暗がりの中で、私たちは見つめ合いました。言葉は何も交わしていないのに、なぜかその一瞬で、すべてが伝わったような気がしました。

夫の手が、そっと私の頬に触れました。それだけで、私はもう何も言えなくなって……瞼を閉じると、ずっと忘れていた、あの感覚が胸に込み上げてきました。

十年ぶり――それは、想像していたよりも、もっともっと切ないものだったのです。

久しぶりの感触に、私は戸惑いと歓びを同時に感じていました。

夫の手が私の頬をなぞると、そこから電気のような温もりがじんわりと広がって、背中のほうまで震えが走ったのです。

十年ぶりの夫の手は、思っていたよりもずっと優しくて、でもその中に、どこか焦がれるような熱がありました。

私はその手を、そっと自分の指で包み返しました。

「……いいよ」声に出したつもりだったけれど、喉が詰まって、息みたいにしかならなかったかもしれません。

でも守は、ただ静かに頷いて、私の肩を引き寄せてくれました。

畳に布団を敷いた和室。窓の外では虫の声がかすかに聞こえていて、薄暗い天井を見上げながら、私はこの静かな夜の空気ごと、身体に刻み込もうとするように目を閉じました。

唇が触れた瞬間、私は思わず息を吸い込んでしまいました。

忘れていた――本当に、こんな感覚、ずっと忘れていたんです。

夫とこんなふうに、互いの吐息を感じること。ぬくもりを肌で受け取ること。

夫の手が、私の浴衣の前をそっとはだけると、ほんの一瞬だけ、私は本能的に胸元を隠してしまいました。

恥ずかしい。年齢も、肌の衰えも、全てが恥ずかしかった。だけど――その私の手を、夫はそっと包み込みながら言ったんです。

「好きだよ……」その言葉を聞いた瞬間、私はもう、何も隠せなくなっていました。

声を出したら、きっと聞こえてしまう。隣の部屋に、あのご夫婦に、町内の人たちに。

だけど、そんな羞恥心が、かえって私の感覚を鋭く研ぎ澄ませていくようでした。

夫の指先が私の肌をなぞるたびに、私は息を詰め、喉の奥で押し殺すように震えました。

まるで少女のように、もどかしく、切なく、でも確かに“女”としての悦びが全身に走っていく――そんな感覚。

まさか、こんな夜が、こんなふうに訪れるなんて。

心も身体も、こんなに求め合うことがまだできるなんて。

息苦しいほどに愛されて、私はもう自分を抑えきれず、泣くように首を抱きしめていました。

布団の中で、何度も何度も、夫の名前を心の中で呼びながら。

夜の静けさのなかで、私たちは確かにふたりで溶け合っていました。

十年という空白を、たったひと晩で埋めるなんて、そんなことできるはずがない――そう思っていたのに。

終わったあと、私は夫の腕の中で小さく息を吐きました。

そのまま、何も言わずに寄り添っていたら、ぽつりと「……久々だったね?」と囁いてきて。

私は照れくさくて何も答えられませんでしたが、きっと顔が真っ赤になっていたと思います。

守は、何も言わずに、私の頭をぽんぽんと優しく撫でてくれました。

それが、たまらなく嬉しくて。まるで初めてのあの夜に戻ったような、不思議な幸福感に包まれていたんです。

朝、目が覚めたとき――私は久しぶりに、女のまま眠っていたことに気づきました。

窓の外から差し込むやわらかな陽の光が、まるで昨夜の記憶を優しく包み込むようで。

隣に寝ている守の寝息が、静かに布団の中で響いていて、そのあたたかさに私は胸がじんわりと熱くなっていきました。

昨夜のことは、夢じゃなかった。肌と肌を、言葉よりも確かに重ねた。

お互いの中に、まだ灯っていた“火”に、ふたりで気づいてしまった夜。

それは、ただ身体を重ねたというだけじゃなかったんです。

長年、日々の暮らしの中で擦れてきた心が、寄り添い直すように――

いつの間にか忘れていた「あなたじゃなきゃ、ダメなのよ」という気持ちを、もう一度思い出させてくれました。

私はそっと守の背中に手を添えてみました。

その感触に、ああ、私はまだこんなふうに触れたいと思っていたんだなと、改めて思わされました。

私の気配に気づいて目を覚まし、ぼんやりとした表情のまま私を見つめて、そして、ほんの少しだけ口元を緩めたんです。

言葉はなかったけれど、その笑みがすべてを物語っているようでした。

私たちは布団を畳みながら、特に昨夜の話題には触れず、まるで何事もなかったかのように身支度を整えました。

けれど、心の中では、あの余韻がずっと、静かに、濃く残っていたんです。

朝食会場では、町内の皆さんがいつも通り和やかに話していて、旅の最後のひとときを楽しんでいる様子でした。

そこに、佐々木さんご夫婦がやって来ました。

「おはようございます~。昨夜はぐっすり眠れました?」

理恵さんがにこにこと笑いながら、私たちのテーブルの前に立ったとき、私は心臓が止まるかと思いました。

何気ない問いかけのように思えたけれど――

その目は、なにかをわかっているような、妙に優しいまなざしを湛えていて。

「池田さんたちも……仲がいいんですね」

その一言を聞いた瞬間、守がびくっと小さく肩を震わせて、思わず湯呑みを落としそうになりました。

私も、顔が一気に熱を帯びて、まともに返事なんてできるわけがありません。

「あ、あの……えぇ、まぁ……」

しどろもどろになりながら答えた私に、理恵さんはただ、柔らかく微笑みました。

「素敵なことですよ」とだけ言って、何もそれ以上は追及してきませんでした。

けれど――あの微笑みの奥には、昨夜の“こちらの声”まで、すべて届いていたような、そんな予感がありました。

夫と目を合わせると、お互いにふいっと目をそらして、でもそのあと、小さく笑ってしまいました。

恥ずかしいけれど、嫌じゃない。どころか、あの夜があったからこそ、私たちは今、こんなにも心を寄せ合えている。

帰りのバスでは、夫がぽつりとつぶやきました。

「……なんか、若返った気がするな」

私はその言葉にふと笑って、「そうかもね…」と応えました。

そして、そっと自分の手を、夫の手の上に重ねました。

彼の手は、いつもよりもずっと熱くて、少しだけ汗ばんでいて――

私はそのぬくもりに、昨夜のすべてがまだ続いている気がして、胸の奥で静かに震えるような幸福を感じていました。

“終わった”なんて、勝手に決めつけていたのは、私だったのかもしれません。

夫婦って、触れなくても続いていくものだと思っていたけれど、

ほんとうは、触れ合うことでしか届かない想いが、たくさんあるんですね。

これから先も、いつまでも今夜のように――なんて、贅沢は言いません。

ただ、たまには思い出したいんです。

私は、あなたの“妻”でありながら、

ちゃんと、“女”でもあるんだってことを。

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