「お前の奥さん、この前、若い男と一緒に歩いてるのを見たぞ」。その電話がかかってきたのは、深夜2時を回った頃だった。外食チェーン店での仕事を終え、冷たい夜風を浴びながら帰路についた矢先のことだ。電話の相手は、古くからの友人だった。僕は思わず足を止め、周囲を見回した。静まり返った街には、ぽつりぽつりと灯る街灯だけが寂しげに揺れている。「お前、知世がそんなことするはずないだろ?」必死に否定したものの、声は震えていた。何かを掴もうとするかのように、握ったスマホが汗でべたついている。友人はしばらく黙ってから、「まあ、見間違いかもしれないけど、気をつけろよ」と言葉を濁し、電話を切った。僕は息が詰まりそうな感覚を抱えながら、暗い道を歩き続けた。まさか、知世が……。いや、そんなことはない。あの真面目な知世が、浮気なんてするはずがない。だが、胸の奥に広がるこの不安感は一体なんだろう。
もうすぐ僕は62歳になる。30代で夢を追いかけ、知世と二人で始めた小さなラーメン屋は惨憺たる結果に終わった。経営に失敗し、多額の借金を抱え、子供の学費を削ってでも返済に奔走した。知世は昼は清掃パート、夜は別の仕事を掛け持ちして、家計を支えてくれた。僕も昼夜を問わず働いたが、知世には負担をかけっぱなしだった。それでも二人で力を合わせて乗り越え、ようやく数年前に借金を完済した。貧しいながらも、何とか慎ましい生活を取り戻したつもりだった。だけど、今になって、こんな不安が胸をよぎるなんて。
家に帰ると、知世はリビングのソファに腰掛け、うつむいていた。いつもなら、帰りの遅い僕を気遣い「お帰りなさい」と笑顔で迎えてくれるはずなのに、彼女の瞳は虚ろで、どこか遠くを見つめているようだった。「知世、どうしたんだ?」と声をかけても、返事はない。ふと目をやると、彼女はいつも以上にレシートを確認し、何度も何度もため息をついていた。普段から家計をしっかり管理してくれている彼女だが、最近のその様子は明らかにおかしかった。僕は何かを言いたかったが、喉の奥で言葉が絡まり、何も言えなかった。毎日遅くまで働き、彼女を一人にしていることへの後ろめたさもあり、詰問することができなかったのだ。
数日後、とうとう耐えきれず、僕は知世に問いただすことにした。彼女が帰宅した夜、僕は先にリビングで待っていた。ソファに腰を下ろす知世に、僕は深呼吸をしてから切り出した。「お前、最近何か隠してるんじゃないか?」我ながら情けない声だった。「友達が見たって言うんだ。若い男と一緒にいたって……どういうことだ?」知世は目を見開き、驚きと悲しみが入り混じった表情で僕を見つめた。「違うの、栄一さん。そんなこと、してないのよ……本当に……」彼女の声は震え、頬を涙が伝った。その姿を見ていると、自分が彼女を疑ったことが恥ずかしく、情けなく思えた。知世は浮気なんてしない――僕はそう信じている。それでも、彼女の様子がおかしいのは事実だった。
その夜、僕たちはお互いに何も言えず、ただ無言で隣に座っていた。知世の震える肩を見つめながら、胸の奥でわだかまる不安が広がっていく。僕は何も言えず、ただ彼女のそばにいることしかできなかった。
そして、その翌日だった。知世は突然、泣き崩れた。僕がリビングで新聞を読んでいると、彼女は「ごめんなさい、ごめんなさい」と泣きながら僕の前に座り込んだ。「どうしたんだよ…」僕は焦って彼女に近づき、その肩に手を置いた。彼女の体は小刻みに震えていた。「私、バカなことをしたの……」涙声で、彼女はそう言った。インターネットで見つけたという投資話に引っかかり、家計を少しでも楽にしようと、少しずつお金をつぎ込んでいったらしい。そして、気づいたときには、なけなしの貯金300万円がすべて消えていたのだ。「増やせば、栄一さんも喜んでくれると思って……でも全部騙されて……私、どうしたらいいかわからなくて……」知世は震える手で顔を覆い、すすり泣いていた。
僕はその場に立ち尽くし、ただ彼女の姿を見つめることしかできなかった。怒りも悲しみも、全てが頭の中でごちゃごちゃになって、言葉が出てこなかった。ふと、30代の頃の自分を思い出した。無謀にもラーメン屋を始め、多くの人に迷惑をかけ、借金を作り、知世に多大な苦労をさせた。彼女はそんな僕を責めることもなく、ただ黙々と働いてくれた。あの時も、今も、知世はただ僕を思ってくれているのだ。
「知世……」僕は彼女の名前を呼び、震える声で続けた。「俺たちはずっと一緒に苦労してきた。ラーメン屋の失敗で借金を作ったのは俺だし、それを返すためにお前も苦労した。だから、今回のことはお相子だ。お互い様なんだよ。」知世は驚いたように顔を上げ、涙に濡れた目で僕を見つめた。「本当に……ごめんなさい……」知世は震える声で何度も謝り続けたが、僕は彼女をそっと抱きしめた。彼女の体温が伝わり、肩越しに聞こえるすすり泣きが胸に響く。彼女がそばにいてくれるだけで、それで十分だと思った。お金なんて、どうでもいい。大切なのは、彼女が隣にいることだ。
それから、僕たちは少しずつ前を向いて歩き始めた。贅沢はできないし、慎ましい生活は続く。それでも、二人でいることが何よりも大切だと改めて感じた。失ったお金は戻らないが、知世と一緒にいる幸せは、何よりも代えがたい宝物だと思えるようになった。定年まであと少し。これからの人生、どんな困難が待ち受けているかはわからない。それでも、知世と二人でなら、どんなことでも乗り越えていける。そう信じながら、今日も僕は仕事に向かう。家に帰れば、彼女が待っている。かけがえのない、その温もりがある限り、僕たちはまた前を向いて歩いていけると思う。
いかがでしたか?二人で色々と乗り越えてきたお話でした。皆様はどう感じましたか?それではまた。