私の名前は松本敏郎。65歳です。会社を退職してから早数年、平穏な老後を過ごしています。妻の美智子とは結婚して40年が経ちましたが、今ではすっかり落ち着いた関係になり、会話も必要最低限しか交わさなくなりました。それが寂しいわけではありません。むしろ、これが普通だと思っています。熟年夫婦なんてみなさんそうではありませんか?
ただすべての夫婦がそうだとは思っていません。実際に私が以前勤めていた会社の上司は、奥さんとの仲が非常に良好で夜の生活も若い頃とあまり変わらないと言っていました。
そんな年でもまだ出来る夫婦は結構稀だと思いますが、仲が悪いよりは良い方がいいと思います。
ただ私たち夫婦は今さらスキンシップをして仲良くするという関係ではありません。もう今の状態が私たち夫婦の完成形なのです。最低限の会話さえすれば生活できると思えば、必要以上にしなくなるもの。だから会話をしないことが増えたのです。しかしそんな私たちでも会話が増える瞬間があります。それは孫の存在です。娘が孫を連れて遊びに来るときだけは、家が賑やかになります。孫たちの元気な声に触れると、自分にもこんなに楽しい時間があるのだと実感します。
目に入れても痛くない存在、それが孫なんです。孫が来た時だけ色々と買ってしまい、それを妻に指摘され会話が増えます。まぁそれだけではありませんが、孫や娘夫婦が来たときだけ私たち夫婦の会話と目が会う回数が増えるのです。
娘や孫には感謝しなくてはなりませんね。しかし、娘たちが帰った後は、また静かな日常に戻ります。そんな日々を繰り返しながらも、不満を感じることなく過ごしていました。
そんなある日、同級生たちで久しぶりに集まろうという話が持ち上がりました。何十年も会っていない友人たちと会えることを楽しみに、私は喜んで参加の返事をしました。そしてその日、居酒屋へと向かいました。
店に着くと懐かしい顔ぶれが揃っており、昔話に花が咲きました。笑い声が絶えないその場は、何だか若返ったような気分にさせてくれました。
「敏郎くん、私のことわかる?」
振り返ると、そこに立っていたのは高校生の頃付き合っていた和江ちゃんでした。
少し驚きましたが、すぐに当時の記憶がよみがえり、思わず笑顔がこぼれました。
「和江ちゃん!久しぶりだね。元気だった?」
和江ちゃんは軽く微笑みながら、少し照れくさそうに答えました。
「ええ、元気よ。でも一人だから寂しいときもあるわね」
「一人って…?」話を聞くと、和江ちゃんの夫は1年前に他界してしまったそうです。子どももおらず、親戚付き合いもほとんどないため、一人で静かに暮らしているとのことでした。今回の集まりも、たまたま誘われて参加を決めたのだとか。
「そうだったんだね……大変だったね。でも、これを機にもっとみんなで話したりしたほうがいいよ。今度うちにも遊びにおいでよ?」
思わず口から出た誘いの言葉に、和江ちゃんは少し驚いたようでした。
「でも、奥さんに悪いわ。私が行ったら迷惑じゃないかしら?」
「そんなことないさ。気にしないで。昔の友達なんだから、遠慮することないよ」
自分でも驚くほど自然に言葉が出てきました。妻に悪いとは思いつつも、それ以上に和江ちゃんとの再会が嬉しくて仕方がありませんでした。
その日の集まりはあっという間に過ぎました。帰り際、和江ちゃんは「また連絡するね」と言い、私もそれに笑顔でうなずきました。
家に帰ってからも、和江ちゃんとの会話が頭から離れませんでした。こんな感覚は何十年ぶりでしょうか。静かな老後の日々に、少しだけ新しい風が吹き込んだ気がしていました。
翌日、私は妻の美智子に昨日の同窓会の話をしました。そして、そこで久しぶりに和江ちゃんと再会したことも伝えました。ただし、高校時代に交際していたことだけは隠しました。変に疑われても厄介ですから…。そして美智子は特に興味を示すこともなく、「ふーん、同級生か。久しぶりで楽しかったなら良かったじゃない」と素っ気なく言いました。
少し拍子抜けしたものの、美智子が冷たくもなかったことに安心し、私は和江ちゃんに連絡を取りました。電話口で少し迷いましたが、意を決してこう言いました。
「この間の話だけど、本当に家に遊びに来ないか?美智子にも話しておいたし、気軽に来ていいよ」
和江ちゃんは少し驚いた様子でしたが、やがて「じゃあ、お言葉に甘えてお邪魔しようかしら」と答えてくれました。
数日後、和江ちゃんが家を訪れると、美智子に対してとても丁寧に挨拶をし、「突然お邪魔して申し訳ありません」と腰を低くしていました。その姿に美智子は驚いた様子でしたが、すぐに和江ちゃんの人柄を気に入ったようでした。
「まあまあ、そんなに固くならないでください。主人の同級生なら気軽に遊びに来てください」と、美智子は笑顔で応じてくれました。それから、和江ちゃんと美智子は徐々に打ち解けていきました。その日から、和江ちゃんが家に来ることが増えました。彼女は私たち夫婦にとってちょうど良い距離感で接してくれました。私も和江ちゃんと話していると、昔の懐かしい記憶が蘇り、気分が明るくなるのを感じていました。
ある日、美智子が町内会の旅行で3日間留守にすることを伝えてきました。妻がいない間、どう過ごそうかと考えていると、美智子が意外な提案をしてきました。
「どうせなら、和江ちゃんにちょっと来てもらって、身の回りのことを手伝ってもらえば?
お互い気晴らしになるんじゃない?」
その言葉に私は少し戸惑いましたが、心の中では期待感が湧きました。美智子の提案を借りて和江ちゃんを誘うと、彼女は少し迷いながらも快く了承してくれました。
旅行初日、和江ちゃんが家に来ると、彼女は私のために夕飯を作り洗濯や掃除も手伝ってくれました。その丁寧さに私は驚きながらも感謝の気持ちでいっぱいになりました。和江ちゃんが作ってくれた食事を一緒に食べていると、まるで新婚のような錯覚を覚えました。
「和江ちゃん、本当にありがとう。こんなにしてもらうなんて、俺は幸せ者だよ」
そう言うと、和江ちゃんは少し恥ずかしそうに微笑みました。その笑顔に、私は心がときめいてしまったのです。
旅行最終日の前夜、私はついに和江ちゃんへの気持ちを抑えきれなくなり、思い切って告白してしまいました。
「和江ちゃん、俺はずっと君のことが気になってた…。昔の気持ちが蘇ってきて、どうしても伝えたくなっただ…」
一瞬の沈黙の後、和江ちゃんは小さくうなずきながら答えました。
「私も敏郎くんのこと、ずっと忘れたことはなかったよ……」
その夜、私たちはお互いの気持ちに流され、一度だけ過ちを犯してしまいました。和江ちゃんと再び心を通わせたことに幸福感を覚えながら眠りにつきました。
しかし翌朝、和江ちゃんの姿はありませんでした。テーブルの上に、一通の手紙が置かれていました。
「敏郎くんへ
昨日の夜は、本当にありがとう。あなたの優しさに触れて、私も救われた気がします。でも、これ以上ここにいると、私はあなたや美智子さんに迷惑をかけてしまうと思うの。
だから、この街を離れることにしました。敏郎くんのことは、決して忘れません。最後に優しくしてくれてありがとう。
和江」
その手紙を読んだ瞬間、胸が締め付けられるような思いがしました。和江ちゃんとの再会は、私の心に大きな風穴を開けて去っていったのです。
美智子が旅行から戻ってきた後も、何事もなかったように日々は過ぎていきました。ただ、あの夜の出来事と思い出が、私の心の奥底に刻まれて消えることはありませんでした。
でも私はまたこの妻と変わらない日常を送っていくのです。
これがきっと幸せでいいのでしょう…