私は美和、56歳の会社員。数年前のあの日、夫が家に帰ってこなくなってから、ずっと一人で過ごしている。今思い返せば、私たちの関係が冷え切っていたのは、ずっと前からだったのだろう。些細なことで言い争いが増え、最後に大きな言い争いをして、彼はそのまま帰ってこなくなった。言い争いをしただけが理由ではない。夫には浮気相手がいて、彼女との関係が上手くいき始めたから、私との言い争いを口実に家に戻らなくなったのだ。最初は信じられなかったが、時間が経つにつれて事実を受け入れるしかなかった。それからというもの、私は何年も一人で生活してきた。寂しくなかったといえば嘘になるが、それでも仕事に打ち込み、自分なりに日々を過ごしてきた。
娘たちは早くに結婚し、それぞれの家族を持っている。たまに帰省してくれるのが、私にとっての癒しの時間だ。そんな時、娘たちはいつも「お母さん、もうあの人を待つのはやめて、新しい人を見つけたらどう?帰ってくるわけないし、帰ってきても離婚でしょ」と言ってくる。心配してくれているのは分かる。でも、いくら頭では理解していても、実際に行動に移すのは難しい。もう一度誰かと一から関係を築くなんて、今さら面倒なだけだと思っていた。そんな私を救ってくれたのは、職場の部下である勇輝だった。彼は50歳で、私より6つ年下。部下とはいえ非常に頼りになる存在で、仕事でも何かとサポートしてくれていた。夫が出ていったときも、勇輝は私を心配してくれた。さすがにその時は私があまりにも落ち込んでいたから、周囲の人たちもみんな気づいていたが、勇輝は他の人とは違い、あまり深入りしないように、でも絶妙な距離感で支えてくれたのを覚えている。
正直、あの頃は何度も彼に寄りかかりたくなるほど精神的に弱っていたが、私は何とか耐え抜いた。夫のことはどうしようもないとしても、自分が壊れてしまったら、もっと後悔すると思ったからだ。そうやってなんとか持ち直し、今では普通に仕事を続けている。
そんなある日のこと、勇輝から「美和さん、仕事が終わったら飲みに行きませんか?」と誘われた。特に予定もなかったし、彼と飲むのも悪くないと思って、二つ返事で了承した。居酒屋のカウンターで向かい合いながら、少しお酒が入ると、いつも通りの軽口をたたき合い、楽しい時間を過ごした。そのうち、ふと勇輝が真剣な表情になり、私を見つめた。「俺のこと、異性として意識したことはありますか?」と、突然そう聞かれたのだ。
「え…?」思わず声が漏れた。驚きのあまり、私はしばらく言葉が出てこなかった。まさかそんな質問をされるとは、全く想像していなかったのだ。勇輝とは、ずっと上司と部下として接してきたし、彼のことをそういう目で見ることなんて考えたこともなかった。何より、私は夫のことが頭にこびりついていて、他の男性を異性として意識する余裕などなかったのだ。私が動揺しているのが分かったのか、勇輝は微笑みながら「ごめんなさい、急に変なことを聞いて。でも、ずっと気になっていたんです。」と言った。彼の真剣な眼差しに、私は一瞬、心臓が跳ねるのを感じた。あまりにも唐突で、どう答えていいのか分からなかった私は、ただ黙ってグラスの中の氷を揺らしていた。
その後は、特に何事もなかったかのように話が流れたが、帰り道の途中で私は胸のざわめきが止まらないのを感じていた。これまでの勇輝との関係が、私の中で何かが変わり始めているような気がして、戸惑っていた。彼にとって私はただの上司で、年上の女性に過ぎないと思っていたけど、彼の言葉にどこか本気を感じてしまった。
帰宅して一人になると、ふと、勇輝の言葉が何度も頭の中で繰り返された。「俺のこと、異性として意識したことはありますか?」そう聞かれた瞬間の、彼の目が脳裏に焼きついていた。冷静になろうとすればするほど、逆に彼のことを意識してしまう自分がいる。こんな風に動揺するなんて、今までなかったことだ。
私はベッドに横になりながら、これまでのことを思い返した。夫が出て行って、娘たちが心配してくれて、それでも私は一人で頑張ろうと決めていた。でも、どこかで孤独感に押しつぶされそうになっていたのかもしれない。だからこそ、いつも側で私を支えてくれていた勇輝の存在が大きくなっていたのだろうか。
でも、夫が出て行った理由や、自分の心の傷を思うと、もう誰かと恋愛をするのは面倒で、怖いとも思っていた。何より、夫との関係にまだけじめがついていない状態で、別の男性を好きになるなんて、自分には許されない気がした。
ただ、勇輝の言葉にドキッとしてしまったのは確かだ。これまで当たり前に思っていた関係が、彼の一言で崩れたような気がして、自分の心が少しずつ揺れているのを感じていた。勇輝との時間が楽しいと感じる自分がいるのも事実だし、そのことを考えると、これからどうなるのか分からない不安が胸に広がっていった。
その日以来、私は彼のことをどうしても意識してしまうようになった。仕事中でも、ふとした時に彼の顔が思い浮かんで、頭の中がぼんやりしてしまう。これまでの私にはそんなことはなかった。特に夫が出て行ってからは、誰かを「異性」として意識する気持ちなんて、自分の中で封じ込めていたからだ。でも、勇輝に告白されてから、その蓋が少しずつ外れてしまったのかもしれない。
思えば、勇輝はいつも私のことを気にかけてくれていた。夫が出て行ったばかりの頃、私は会社でも落ち込んでいて、同僚たちも心配していたけれど、勇輝は他の人とは違って、あまり詮索せずにそっと寄り添ってくれた。私が困っているとすぐに手を差し伸べてくれて、仕事のことも気にしてサポートしてくれた。あの時、彼の支えがなければ、私はここまで立ち直れなかったかもしれない。
それに、彼もまた似たような境遇を抱えていることを知った。勇輝はバツイチで、離婚の理由は奥さんの浮気だったという。それも、彼女が別の男性の子供を妊娠してしまったことで、勇輝は仕方なく離婚を選んだのだと聞いた。彼のそんな過去を知ったのは、私が夫のことで悩んでいた頃、二人で飲みに行ったときだった。あの時、勇輝は静かに自分のことを話してくれて、「だから美和さんの気持ち、少し分かるんです」と言ってくれた。その言葉にどれほど救われたか分からない。
もしかしたら、私を意識してしまったのは、ただ告白されたからだけではないのかもしれない。彼もまた、同じように裏切られた経験があり、それでも前を向こうとする人だったからこそ、私は心を開けたのだと思う。そう考えると、これまで勇輝が見せてくれた優しさや気遣いが、どれほど大切だったのか、改めて気づかされる気がした。
数日後、私は意を決して、再び勇輝を飲みに誘った。今度は私の方から話したかったからだ。約束の場所で、彼はいつも通り穏やかな笑顔で私を迎えてくれた。私は少し緊張しながらも、思い切って口を開いた。
「この前は、急に逃げちゃってごめんなさい。でも、ちゃんと話をしたいと思って…」そう言いかけた私に、勇輝は優しく頷いた。そして、まるで私の迷いを払うかのように、はっきりとした声で言った。「俺は、美和さんのことが好きです。ずっと、そうでした。」
その言葉に、私の心は大きく揺れた。勇輝が真剣に気持ちを伝えてくれるのが嬉しかったと同時に、心のどこかでまだためらいがあった。夫が出て行ってから、私はずっと彼が戻ってくるのを待っていた。どんなに薄情な人間でも、いつかは戻ってきて、きちんと終わりにするべきだと信じていたからだ。
でも、私が一人で過ごしてきた何年もの時間が、無意味に思える瞬間があった。何も変わらず、ただ待つだけの日々。もうそんな日々は終わりにしたいという気持ちが、勇輝の言葉で少しずつ固まっていった。「私も、あなたのことをもっと知りたい…」勇輝の告白に対し、私はそう答えた。彼の表情がぱっと明るくなり、心から嬉しそうに微笑んでくれた。その笑顔を見て、私はこれまで以上に心が温かくなった。
それから私たちは、少しずつ関係を深めていった。勇輝は、私が今まで感じたことのない安心感をくれた。彼と一緒にいると、過去の辛い思い出も少しずつ遠のいていく気がした。夫はまだ帰ってこない。きっと、もう戻ってくることはないだろう。でも、私はもうそのことを悔やむのをやめることにした。
ある夜、私は勇輝に静かに言った。「もし、あの人が帰ってきたら、必ず離婚の手続きをするつもり。もう待つのは終わりにします。私はこれから、あなたと一緒に人生を歩んでいきたいから…」勇輝はその言葉を聞いて、何も言わずに私の手を握りしめてくれた。その手の温かさが、私の決断を後押ししてくれた。
こうして、私は新しい道を選ぶことにした。勇輝と過ごす時間は、何年も感じていなかった安らぎに満ちていた。彼もまた、私と同じように過去の傷を抱えながら、それでも前に進もうとしている。だからこそ、二人で支え合って生きていけるのだと信じている。
まだ夫との関係に完全な決着はついていないけれど、私の心はもう揺るがない。勇輝との未来を見据え、私たちはこれからの人生を共にしていく決意をした。どんな困難があっても、この新しい道を歩んでいけると信じている。
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