
あの夜、私は初めて、自分の身体がまだ誰かを求めることができるのだと知りました。六十歳を過ぎて、こんなふうに人に触れられて、ときめいて、震えるような時間が訪れるなんて、想像すらしていませんでした。彼の手は、とても優しくて、熱を帯びていて、触れたとき、ちょっと涙もにじんでいました。静かな部屋で、重ねた年齢を確かめ合うように、私たちはそっと身体を寄せ合いました。誰にも見せたことのない弱さや寂しさを、彼にだけは見せてもいいと思えたのです。あの夜を境に、私の人生は、静かに、でも確かに変わり始めました。
私は林真理、今年で六十歳になりました。人生というものは、いつの間にか季節のように巡っていて、気づけば春が過ぎ、夏が過ぎ、いまは晩秋に差し掛かったような心地です。若いころは、結婚するのが当たり前だと思っていました。誰かと出会って、恋をして、家族をつくって、老いていく。そういう道を歩くものだと、自然に思っていたのです。けれど私は、気がつけば、誰のものにもならず、誰かを迎え入れることもなく、今日までひとりで生きてきました。
ときどき、母に言われました。「なんで結婚せえへんかったんやろなあ」と。母はもう八十五になります。近頃は足腰も弱くなって、以前のように小言を言う元気も減ってきましたが、それでもたまに、愚痴のようにその言葉がこぼれます。昔はいちいちうるさいその一言が重たくて、聞くたびに嫌な思いをしていました。でもいまは、不思議と怒りも悲しみも湧かず、ただ淡々と受け止める自分がいます。
ひとりの生活には慣れました。朝は小さなやかんでお湯を沸かし、インスタントのコーヒーを淹れます。テレビをつけて、天気予報をぼんやり眺めながら、昨日の残りのおかずを少し温める。そんな、淡々とした朝の時間が、意外と嫌いではありません。昼は、週三回だけ行っている事務の仕事があります。帳簿をつけたり、郵便物を仕分けたり。特別やりがいがあるわけではありませんが、人と会って、挨拶をして、帰る場所があるということが、心の安定に繋がっているような気がします。
そして夜になると、独りの静けさが戻ってきます。テレビはついていても、音が空間に吸い込まれていくようで、ときおりその無音が寂しさを際立たせます。 そんなとき、私はふと考えます。もし、あのとき、誰かと手を取り合っていたら、いまの私はどうなっていたのだろうと。
恋をしなかったわけではありません。けれど、私はどこかで人との距離を恐れていました。誰かに踏み込まれるのが怖かったのか、それとも、踏み込んで傷つけてしまうことを恐れていたのか。いまでも答えは出ていません。そんな私にも、月に一度の楽しみがあります。それは学生時代からの友人、真紀子との「おしゃべり会」です。もう何十年も続いている習慣で、駅前の喫茶店や、気まぐれに選ぶファミレスで、たわいもない話をするのが、私のささやかな楽しみです。
真紀子も独身です。でも、彼女はいつも明るく、言葉も豊かで、笑い声が店内によく響きます。私はどちらかといえば聞き役に回ることが多くて、それが心地よいのです。そんなある日、真紀子から連絡がありました。
「今度のおしゃべり会、ちょっと面白い人も一緒に来るから楽しみにしててね」と。その一文を見たとき、少しだけ胸がざわつきました。“面白い人”とは誰なのか。男なのか、女なのか。それとも…?
正直に言えば、不安でした。長年築いてきた二人だけの気楽な時間に、第三者が入ってくることで、空気が変わってしまうのではないかと。でも、私は「了解」とだけ返事を送りました。その一言が、私の人生を少しずつ変えていくきっかけになるとも知らずに。
その日も、駅前のいつもの喫茶店で、私と真紀子は落ち合うことになっていました。日曜の午後、街はどこかのんびりとした空気に包まれていて、風もやわらかく、春の匂いがふわりと漂っていました。少し早めに着いた私は、入り口のガラス越しに店内を覗きました。すると、見慣れた真紀子の姿の隣に、見知らぬ男性が座っていたのです。
思わず、足が止まりました。私の予想は、悪いほうで当たっていたのかもしれません。“面白い人”というのは、やっぱり男の人だったのです。仕方なく店に入り、ふたりの席へ向かいました。紹介されるまでもなく、私はにこやかに会釈をしましたが、内心は少し戸惑っていました。
その男性は、村田浩司さんという方でした。真紀子の職場で、数十年ぶりに再会した昔の同僚だそうです。年齢は六十二歳。見た目は思ったより若々しくて、きちんと整えられたグレーのシャツに、ベージュのセーター。どこか中性的な雰囲気をまとっていて、穏やかな表情の人でした。けれど私は、最初から、彼の存在に少し身構えてしまいました。女同士の何気ない会話を楽しむ場に、男の人がひとり混じっている――それだけで、空気がいつもと違って感じられたのです。
真紀子は気にする様子もなく、いつも通りの明るさで話を進めていました。それでも私は、どこか落ち着かず、視線の置き場に困っていました。村田さんはというと、あまり自分から話すタイプではないようで、真紀子の話にゆっくりと頷いたり、短く相槌を打ったりするばかりでした。
会話が途切れたときの静寂が、妙に重く感じられました。私は話題を探して無理に言葉を繋いだり、飲み物に口をつけて間を持たせたりしていました。「いつものおしゃべり会じゃないな」と、心のどこかで思っていたのです。
そして突然、真紀子が、こんなことを言いました。
「真理、この人、なんか最近元気なくてさ。友だちになってくれたら嬉しいなって思って」私は笑って受け流しましたが、正直言えば、胸の奥に小さな違和感が生まれていました。まるで“元気のない人を励ますために呼ばれた”みたいな気分になってしまったのです。
もちろん、真紀子に悪気はなかったのでしょう。でも、私はその場に居ながら、心のどこかで少しだけ孤立しているような感覚を覚えていました。 そんななか、ふと気がつくと、村田さんが静かに、こちらを見て微笑んでいました。その笑みはとても控えめで、押しつけがましくなく、むしろ少し恥ずかしそうにも見えました。私は思わず目を逸らしました。だけど、その笑顔は、なぜか印象に残りました。
店を出て、駅まで歩く道すがらも、私はぼんやりと考えていました。男の人と向き合うと、どうしてこんなにもぎこちなくなるのだろう、と。若いころからそうでした。誰かと向き合うたび、自分の中にある「怖さ」が顔を出すのです。それは、傷つけられる怖さでもあり、傷つけてしまう怖さでもありました。
だからきっと、私は恋をしないまま、ここまで来てしまったのだと思います。けれど、この日の出会いが、後の私にとって、思いがけない転機になったことを、このときの私は、まだ知る由もありませんでした。
数日後、真紀子の職場へおすそ分けを届けに立ち寄ったとき、偶然にも、また村田さんと顔を合わせました。向こうもこちらに気づいたようで、小さく会釈を返してくれました。その一瞬、私はなぜか気まずさではなく、ほんの少しの安心感を覚えました。
「釣りが趣味でして」と、彼がぽつりとそう言ったのは、偶然会った時の信号待ちのときでした。私の方はというと、釣りの経験などまったくなく、正直、ピンと来ませんでした。けれど、そのときの彼の声が、まるで自分の大切なものをそっと差し出すような、慎重でやさしい響きだったことだけは覚えています。
「今度、釣具屋に付き合ってもらえませんか」と続けて言われたとき、私は少し驚きました。何か理由をつけて断ることもできたはずですが、なぜかその選択肢は頭に浮かびませんでした。 たぶん、「釣具屋」という響きが、あまりに私の日常から遠くて、かえって新鮮に思えたのかもしれません。 それに、彼の言い方がどこか“遠慮がち”で、それを無下にするのが申し訳ない気もしたのです。
週末、小さな駅で待ち合わせて、一緒に釣具屋へ向かいました。昔ながらの商店街の一角にある、こぢんまりとしたお店でした。店の前には、日焼けした看板が立てかけられていて、中に入ると、木の棚に無数の釣り具が並んでいました。
私は最初こそ戸惑っていましたが、彼が店内を回りながら、ときおり「これは軽くて使いやすいんです」とか「ここのリールは長く使えるんですよ」と話す様子を見ているうちに、だんだんとその空間に馴染んでいくのを感じていました。
今まで、男の人が自分の好きなことを楽しそうに語る場面に、こんなふうに居合わせたことがなかった気がします。それは押しつけでも自慢でもなくて、ただ静かに、でも確かな愛着を持って語るものでした。その姿が、なんともいえず誠実で、私は自然と頬が緩んでしまいました。 店を出たあとは、近くの公園に立ち寄り、缶コーヒーを片手に、ベンチでひと休みしました。目の前には、小さな池があって、数羽の鴨がゆっくりと水面を漂っていました。
私たちは、あまり言葉を交わしませんでした。でも、それが妙に心地よかったのです。無理に会話を繋がなくてもいい、沈黙を共有できる安心感というのでしょうか。私はその感覚に、少し驚いていました。
そして気がつけば、彼の存在が、自分のなかでほんの少し変化しているのを感じていました。“真紀子が連れてきた知らない人”から、“また会ってもいいと思える人”へと。
それは大きな変化ではありませんでしたが、長年、心を閉じて生きてきた私にとっては、とても大きな一歩だったのです。
それからというもの、村田さんとは週に一度くらい、どちらともなく連絡を取り合って、お茶をしたり、たまに近所を散歩したりするようになりました。
不思議なもので、何か特別な出来事があったわけでもないのに、彼と一緒にいる時間が、少しずつ私の心の中に柔らかさをもたらしてくれていました。 私はこれまで、自分の話を人にするのがあまり得意ではありませんでした。 けれど、彼といると、不思議とぽつりぽつりと、自分のことを話してしまうのです。 母のこと、ひとり暮らしのこと、若い頃に何となく縁を逃してしまったこと、そして…人に甘えるのが苦手だったこと。 彼は、そんな私の話を、いつも黙って聞いてくれました。ただ頷きながら、ときおり小さく微笑んで、反応してくれるだけ。けれどその沈黙が、妙にあたたかくて、私は話しながら安心していくのを感じていました。
ある日の帰り道、公園のベンチで並んで座っていたときのことです。私はふと、「村田さんって、寂しくなること、ありますか?」と訊いてしまいました。訊いたあとで、なんてことを聞いたのかと後悔したのですが、彼は静かにうなずいていました。
その姿が、とても素直で、少しだけ胸が締めつけられるような気持ちになりました。 人は年を重ねると、寂しさに鈍感になるものだと思っていたけれど、そうではなかったのです。むしろ、それは静かに、深く、心に根を下ろしていくのかもしれない――そんなことを感じました。
ある日、いつものように彼と散歩していた帰り道、空が急に暗くなり、雨が降り出しました。慌てて軒下に駆け込んで、用意周到の彼が折りたたみ傘を差し出してくれました。「一緒に入りますか」と、ただそれだけ。 言葉は短かったのに、そのひとことが妙に胸に響いて、私は小さくうなずきました。 狭い傘の下、ふたりで並んで歩くというのは、考えてみればとても近い距離です。彼の肩が、時折私の腕に軽く触れました。それだけのことなのに、心臓の鼓動が早くなっているのがわかりました。
こんな感覚は、本当に何十年ぶりだったでしょうか。 そして、その帰り道、信号待ちのときに、ふと彼の手が私の手に触れました。
最初は、偶然かと思いました。けれど、そのまま、彼はそっと指を絡めてきました。私は、拒むことも、驚くこともできませんでした。
ただ、その手の温もりを感じながら、ゆっくりと握り返していました。何も言葉はありませんでした。
でも、あの瞬間、私たちのあいだに流れていたものは、とてもはっきりしていました。
それは、“好意”とか“恋心”という単語だけでは片づけられない、もっとやわらかくて、静かで、でも確かな“信頼”でした。
人を好きになるのに、年齢は関係ないのかもしれません。そして、誰かのぬくもりを求める気持ちは、年を重ねた今のほうが、よほど強いように感じていました。
季節は、いつの間にか初夏へと移り変わっていました。汗ばむほどではないけれど、風の中に、かすかに湿った空気が混じるようになってきていました。
その日、私は少しだけ勇気を出して、いつもよりも柔らかい色のブラウスを選びました。鏡に映った自分の姿は、正直言って若々しくはありませんでしたが、不思議と「これでいい」と思えたのです。
待ち合わせのあと、彼のほうから「今日はうちに来ませんか」と言われたとき、私は何も迷いませんでした。胸の奥が、少しだけ震えていましたが、それは恐れではなく、長い間忘れていた“ときめき”でした。彼の部屋は、彼の性格をそのまま映したように、静かで整っていました。窓辺に置かれた観葉植物、きれいに並べられた釣り道具、そして小さなテーブルの上に置かれた湯のみ。そのどれもが、落ち着きのある生活のリズムを感じさせました。
最初は、いつもと同じようにお茶を飲みながら、たわいもない話をしていました。けれど、ふとした間に、沈黙が訪れたとき。彼の手が、私の手の上にそっと重なりました。それは、あの日の傘の下で触れたときと同じ、静かなぬくもりでした。私は、何も言わず、ただその手を握り返しました。
そして、彼が私をそっと引き寄せてくれたとき、私は目を閉じました。何十年も蓋をしていた感情が、胸の奥から溢れ出していくようでした。 キスは、思っていたよりもずっと優しくて、あたたかくて、時間が止まるような感覚でした。抱きしめられたとき、私はもう何も怖くありませんでした。老いた体の輪郭も、張りのなくなった肌も、ただ“愛おしい”という思いだけが包んでくれていました。
“初めて”という言葉を使うには、もう遅すぎる年齢かもしれません。でも、私の中では、まぎれもなく初めての男性だったのです。
誰かをこんなふうに信じて、心も体もゆだねられるという経験は。こんな歳で怖がっているなんて気持ち悪いですよね。でもそんな私を彼は優しく包んでくれたのです。もっと痛いのかと思いましたが、初めてなのにむしろもっと続けて欲しいと思ったくらいでした。
夜が更けて、彼の腕の中でまどろみながら、私は涙が出そうになるのをこらえていました。幸せすぎて、怖くなったのかもしれません。
けれど、彼は私の髪をそっと撫でながら、何も言わず、静かに寄り添ってくれていました。朝の光が差し込む部屋の中で目を覚ましたとき、私は、これまでの人生の景色が少し違って見える気がしました。
隣には、静かに眠る彼の横顔。その穏やかな寝息を聞きながら、私は胸の奥で、小さな決意を抱いていました。年を重ねたからこそ、わかるものがあります。若いころには気づかなかった“心地よい静けさ”や、“触れ合いのやさしさ”が、いまの私にはちゃんと届きます。
そして、いまなら素直に、「ありがとう」と伝えることができます。
それから、私たちは少しずつ、互いの日常に歩み寄るようになっていきました。特別なことはありません。買い物帰りに立ち寄る公園のベンチで話をしたり、釣具屋に付き合った帰りに一緒にお昼を食べたり。そんなささやかな日々の積み重ねが、私たちの関係を深めていったのです。母に彼のことを話したとき、「今度紹介して」と一言だけ言ってくれました。それが、何よりも嬉しかったのを覚えています。
六十歳を過ぎてからの恋は、若いころのように熱くはありません。でも、そのぶん、じんわりと身体の奥に染み込んでいくような、深くて静かな愛情があります。私は、彼のそばで老いていきたいと思います。いつか体が弱くなっても、手を取り合って、支え合って、笑っていたい。 そう思える人に出会えたことが、人生の最後に与えられた大きな贈り物のように感じています。
愛に“遅すぎる”なんてことは、きっとないのだと思います。むしろ、この年齢だからこそ見える景色が、確かにあるのです。
――私はいま、人生で一番、あたたかい春を生きています。