
私の名前は岩瀬裕子、59歳です。
結婚して35年。夫は60歳で定年退職し、今は63歳になりました。私は今、パートに出ています。夫の年金を満額もらえるようになるまで、少しでも生活費を補うためです。夫も定年後に何度かアルバイトを始めました。でも、プライドが邪魔するのか、どこへ行っても長続きしませんでした。「こんな仕事、俺には合わない」とぼやいては、すぐに辞めてしまう。最初のうちは「そんなこと言わずに頑張ってよ」と励ましたこともありましたが、今ではもう何も言わなくなりました。どうせまたすぐに辞めるのだから、変に期待するのはやめました。その結果、ここ3年ほどは私のパート代と貯金を切り崩して生活しています。でも、そんな生活も悪いことばかりではありませんでした。
私のパート先はパン屋さんで、とにかく朝が早いです。店主の和也さんは、夜中の1時から出勤しパンを焼き始め、私は3時から働いています。最初はこの時間帯に働くのが本当に辛かったです。寒い冬の朝、暗い道を歩いて店に向かうたびに、「どうしてこんな思いをしなければならないのか」と情けなくなりました。でも、今は違います。今では毎日が楽しくて仕方がありません。
誰にも言えませんが…それは店主の和也さんと、そういう仲になってしまったからなんです。
きっかけは、私がやけどをしたことでした。パンを取り出すときに手を滑らせてしまい、腕に熱い鉄板が触れてしまったのです。思わず声を上げると、すぐに和也さんが駆け寄ってきました。
「大丈夫ですか?」その言葉と同時に、彼は私の腕を掴み、流水で冷やしながら手早く薬を塗ってくれました。その指先が思ったよりも優しくて、私は驚きました。
夫は、私がどんなに体調を崩しても、「大丈夫か?」の一言さえ言わない人です。ましてや、こうやって手当てをしてくれるなんて考えられません。
「ありがとうございます……」そう言ったとき、私は気づいてしまいました。
この人の優しさに、心が揺れている自分に。それから少しずつ、私たちは距離を縮まっていきました。パンを並べるとき、掃除をするとき、ふとした瞬間に手が触れ合う。そのたびに、私は心のどこかで期待している自分がいることに気づいていました。
そんな私の気持ちを察していたのか、それとも彼自身も同じ気持ちだったのか——。ある日、私は彼に抱きしめられました。
仕事の合間で、休憩でもしようかというときでした。厨房の奥、誰もいない場所で、突然背中に彼の腕が回されました。
「……抱きしめてても良いですか」その声が耳元に響いた瞬間、私はもう抗えませんでした。
夫以外の男性に抱きしめられるのは、もちろん初めてのことです。でも、驚きよりも、嬉しさが勝ってしまいました。彼の腕の中にいるだけで、体が熱くなる。気づけば、私は彼の胸に顔を埋め、震える唇を開いていました。彼は私の頬にそっと手を添え、目を閉じた私の唇にキスをしました。優しく、それでいて強引なキスでした。私は立っていられなくなるほど体の力が抜けるのがわかりました。
夫にこんなキスをされたことがあったでしょうか?記憶の中を探してみても、思い出せません。
そして、そのまま私たちは、厨房の奥で、始めてしまいました。夜明け前の薄暗い空間、時折聞こえる車の音にビクビクしながらも、私はどうしようもなく燃えていました。誰かが来るかもしれない。そんなスリルが、私の理性を簡単に奪い去っていきました。
彼との行為は燃えるように熱く、すべてを発散させてくれました。
普段はまじめに何事もなかったように働いています。でも、天気が悪く客足が少ないと予想される日は、製造量を減らすため、手が空く時間ができるのです。そんなとき、私たちは、無言のままお互いを求め合いました。言葉なんていりません。目が合うだけで、お互いの気持ちは十分に伝わってしまうのです。私たちはもう、後戻りできないところまで来てしまいました。夫に対して、申し訳ない気持ちがないわけではありません。
でも夫も、定年を迎える前までの十年以上、ずっと浮気をしていたんです。
私は見て見ぬふりをしてきました。問い詰めたところで、彼が本気で離婚を望むわけではないとわかっていたし、私も家庭を壊すつもりはありませんでした。彼がどこかで誰かと過ごしていても、家に帰ってくるのならそれでいい。そうやって、自分に言い聞かせていました。
でも、夫の浮気相手は、定年と同時に去っていったようでした。私にはわかります。彼が家にいる時間が増えてから、そわそわとスマホをいじることがなくなり、無駄に外出することもなくなりました。つまり、夫は都合のいいときだけ浮気を楽しみ、役目を終えたら家庭に戻ってきたのです。
だから、私もしばらくは好きにさせてもらっても良いのかなと勝手に思っています。
夫がそうしていたように、私も、ただ「この時間だけ」を楽しむだけなのだから。
神様もそれくらい許してくれますよね。
そして、和也さんにも家庭があるんです。私と同じように、家庭を壊すつもりはないのだと思います。
天気が悪い時だけの関係。それが、私たちのルールでした。
夜明け前、まだ外も真っ暗です。厨房の奥で私は息を荒げていました。
「裕子さん……」彼の指が、唇の端をなぞります。その指の熱に、体がまた反応してしまう。
「…朝になっちゃう」かすれた声でそう呟いても、彼はやめてはくれませんでした。
パンをこねるための広い作業台。そこに私の背が押し付けられ、ふわりと粉の匂いが立ちこめる。
「大丈夫。もう少しだけ……」低く甘い声。そのまま私は、何度目かの波にさらわれました。
何度も求め合いながらも、私たちは決して深い話をしませんでした。
彼の家庭のことも、私の家庭のことも、互いに踏み込まない。
「今、この場所だけ」。それが、私たちのすべてでした。でも、時々、ふと考えてしまうのです。
「この関係は、いつまで続くのかな」
「私が60を超えても、彼は私を求めるのかな」
「もし彼が、急にパン屋を辞めると言ったら……私はどうなるのかな?」夜中の厨房で、彼の肌に触れながら、そんな考えが頭をよぎることが増えてきました。
そして、ある日——。
「もし俺が店を辞めたら、どうする?」彼は何気ない口調で言いました。
冗談のようにも聞こえました。でも、私はなぜか、それが冗談ではない気がして、笑えませんでした。
「……そんなこと考えないわよ」そう言って笑ってみせました。でも、彼の瞳は真剣なままでした。
「そっか」彼はそう言うと、私の頬に軽くキスを落としました。
夫が浮気をしていたとき、私は何も知らないふりをしていました。
きっと、夫も今の私と同じだったのかもしれません。
「何も知らないふりをして、ただ家庭に戻る」。
私も、そうしなければいけないのでしょうか。でも——私は、まだ答えを出せずにいます。
今も、夜が来るたびに、彼の腕の中へと溺れていくのだから。
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