私の名前は大西孝之、65歳です。長年勤めた会社を先日定年退職し、今は静かな毎日を送っています。妻の美奈代とは結婚してもう35年。二人の子どもたちはそれぞれ家庭を持ち、今は夫婦二人だけの生活です。定年後はのんびりと二人で過ごせるだろうと期待していたのですが、実際は少し想像とは違いました。
最近私が一日中家にいることで、些細なことで口論になることが増えていまいました。テレビの音がうるさいだの、食事の片付けが遅いだの、そんな本当に小さなことでつい言い合いになってしまう。若い頃なら笑って流せたことが、この年になると妙に心に引っかかるんです。子どもたちがいた頃は気づかなかった微妙な違和感が、二人きりになってからはふと浮かび上がってくるように感じます。
そんな中、美奈代がある日、昔からの親友の早苗とランチに行って帰ってきたんです。どこか楽しげな顔をしているので、何か面白い話でもあったのかと思ったのですが、彼女が切り出した提案には正直、驚きました。
「ねえ、孝之さん。ちょっと、変わった提案があるんだけど」
「どうしたんだ?」と軽い気持ちで返事をすると、美奈代が少しもじもじしながら言います。
「私たち旅行に参加してみない?そして、二週間だけ……夫婦を、入れ替えてみない?」
「……え? 入れ替える?」
思わず聞き返しました。冗談だろうと思って、美奈代の顔をじっと見つめてしまいましたが、どうやら本気のようです。彼女の表情には、どこかいたずらっぽい光と、ちょっとだけ好奇心に満ちた輝きが見えました。
「実はね、早苗と話してたんだけど、彼女と誠二さんがクルーズ旅行のチケットを手に入れたの。でも、旦那の誠二さんが一緒に行くのを渋ってたらしくて、私たちも誘ってくれたのよ。それで、早苗がふざけ半分でね、『二週間だけ夫婦を交換してみたらどうか』って」
「何だそれ、変な話だな。普通に旅行に行くだけじゃダメなのか?」
「だって、最近私たちも空気が重いじゃない? 早苗たちも同じで、長年一緒にいると、どうしてもマンネリが続くって言ってたのよ。だから、ちょっと遊び心で、普段と違う時間を過ごしてみようってことになったの。もちろん、二週間だけだし、ただ一緒に旅を楽しむだけよ。普段の生活とは違う空気に触れたら、何かが変わるかもしれないじゃない?」
美奈代はどこか遠くを見つめるように話していました。長年連れ添ってきたけれど、彼女もまた、私と同じように今の生活にどこか重さを感じていたのでしょう。その姿を見ていると、冗談と笑い飛ばすことができなくなり、つい「まあ、旅行の間だけなら…」と私も頷いてしまいました。
数日後。私たちは早苗さんと誠二さんのご夫婦と一緒に、クルーズ旅行に出発しました。潮風が吹き抜ける広いデッキに立ち、見渡す限りの海がキラキラと光っているのを見たとき、私は不思議な気分になりました。普段とはまったく違う場所に来ているということもありますが、妻ではない早苗さんと二人でここにいるという状況に、どうしてもそわそわしてしまうのです。
早苗さんも少し緊張しているのか、どこかぎこちなく微笑んでいましたが、彼女の明るい性格のおかげで、会話は思っていたよりも自然に進みました。「孝之さんとこうやって二人だけで話すのは初めてですね」と早苗さんが微笑みながら言います。
「そうですね。なんだか変な感じですけど、でも…新鮮かもしれませんね」
「でしょう? 私も、こうして海の上にいるといろいろ忘れられて、なんだか自由な気分になるんです」
そう言って、早苗さんが遠くの水平線を眺めました。その横顔を見ていると、彼女もまた、日常の生活で抱えている窮屈さや疲れが少しだけ和らいでいるように見えました。私も、早苗さんも、誠二さんと美奈代とそれぞれ長い年月を過ごしてきて、気づけばお互いを少し見えなくなっていたのかもしれません。
夜、デッキに出てみると、満天の星空が静かな海の上に広がっていました。潮風に吹かれながら早苗さんと並んでいると、いつもの自分とは違う感覚が静かに広がっていくのを感じました。
「孝之さん、ちょっと肩の力を抜いて、お酒でも飲みながら夫婦の愚痴でも言い合いましょうよ」と早苗さんが微笑みます。その言葉に、私の緊張がふっと解けた気がしました。美奈代ではない女性と二人きりでこうして過ごすことに、やはりまだどこか気恥ずかしさが残っていましたが、せめてこの二週間だけは、少し心を自由にしても良いかもしれないと思ったのです。
もちろん、もうこの歳ですし、夜の生活なんてあるわけではありません。ただ、隣のベッドで静かに眠る早苗さんの寝顔を見ていると、なんだか妙に胸がモヤモヤとざわついてしまい、初めの数日はなかなか寝付けませんでした。でも、その「他人」としての微妙な距離感が、かえって新鮮に感じられることもあったのです。
旅の期間中、私はずっと仮の夫として早苗さんと行動していましたが、時々ふと「あぁ、美奈代ならこうするかな」と彼女を思い出してしまうことがありました。早苗さんが話す何気ない仕草や、夕食の席での表情に、どこかで美奈代を重ねてしまうのです。こんなふうに、妻のことを意識する時間を持つのは、本当に久しぶりでした。
大きなクルーズ船だったこともあり、2週間で妻と遭遇したのは3回ほどしかありませんでした。
食事の時間やパターンが違うだけでここまですれ違うものなのだなと改めて思いました。
そのおかげで私たちは仮の夫婦として楽しく過ごすことが出来ました。
そして、楽しい旅はあっという間に過ぎていきました。船が港に戻り、待ち合わせの駐車場で私たちはそれぞれの「本来の」夫婦に戻ることになりました。車のそばで美奈代が待っているのが見えた瞬間、私の足が思わず止まりました。何度も見てきたはずの美奈代が、なぜだか少し違って見えたのです。
「ただいま、そしておかえり。美奈代」
「おかえりなさい、孝之さん」
その一言を交わしただけで、何かが通じ合ったような気がしました。旅に出る前と同じ日常に戻るはずなのに、どこかで何かが少しだけ変わったような感覚が胸に残りました。美奈代も、私も、この旅でほんの少しだけ心が軽くなったのかもしれません。
それからの日々は、劇的に変わったわけではありません。でも、朝食の席でふと目が合ったとき、美奈代と微笑み合うことが増えました。ほんの些細なことなのに、以前は気になっていたことが、今は「ああ、これもまた美奈代らしいな」と思えるようになってきたのです。
あのクルーズ旅行は、ただの気分転換だったかもしれません。でも、そこには私たちが忘れていたものがあったのだと思います。夫婦としての風通しを良くするために必要なもの……それを、あの旅はそっと教えてくれたのかもしれません。