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体は正直者

シニアの恋愛は60歳からチャンネル様シニアの話
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寒い冬の午後、私は、人生で二度目の入院というものを経験しておりました。今回は、なんとも情けない理由でして、大雪の日に雪かきをしていたところ、屋根の上の雪に足を滑らせ、派手に転落したのです。頭は打たなかったのが幸いでしたが、両腕と肋骨数本の骨折、足は打撲という状態でした。入院が決まったときは、いやぁ、まいったなと思いましたよ。でも、それ以上に困ったのは、両腕が使えないという不便さでした。

何をするにも人の手を借りなくてはならない。着替え、食事、トイレ…そして、体を拭くという、まあ、これが一番気まずいというか、情けないというか。特に、最初の一回目は、ほんとうに心の準備ができていなかったんです。

中村美沙さんという看護師の方が、その日の担当でした。優しい笑顔が印象的な方で、私はてっきり四十代前半くらいの人かと思っておりました。ところが後で聞いたところ、もうすぐ還暦だそうで、しかもお孫さんまでいらっしゃるとか。正直、かなり驚きました。見た目が若々しいだけでなく、仕草や話し方、佇まいまでもが柔らかくて、どこか上品で、それでいて親しみのある方なのです。

「失礼しますね。少し冷たいかもしれません」

そう言いながら、彼女は濡れタオルを手に、私の胸元から拭きはじめました。私は、ただでさえ不自由な姿を晒しているだけでも恥ずかしいのに、見知らぬ女性に体を拭かれるというのが、こんなにも落ち着かないものかと実感しました。

そして、問題はそのときです。胸のあたりを拭かれているうちに、どうしようもなく下腹部が反応しまったのです。もう、情けないったらありませんでした。この歳で自分の身体が勝手に反応してしまうというのは、なんとも恥ずかしいものです。

中村さんは、一瞬、手を止めました。ほんの一瞬でした。でも、その間が永遠のように長く感じられて、私は思わず声を震わせて「すみません…」と謝ってしまいました。すると、彼女は静かに笑って、「そういう方、珍しくないんですよ」とだけ言って、何事もなかったかのように続けてくれました。

その対応に、私は救われました。本当に、救われたのです。もちろん、それでも恥ずかしさは消えませんでしたが、少なくとも、拒絶されなかったという事実が、なぜだかとてもありがたかったのです。

それから数日が経ち、私は中村さんが担当の日を、密かに心待ちにするようになっていました。声をかけてくれるときのあの穏やかな口調や、タオルを絞る仕草、さりげなく毛布を直してくれる手つき……どれもがやさしくて、どこか懐かしいような、そんな気持ちにさせてくれるのでした。

退職して、独りきりの生活に慣れていたはずの私でしたが、誰かと交わす言葉や、触れ合いというものが、こんなにも心を温めてくれるのかと、今さらながらに気づいたのです。

あの日、屋根から落ちたときは、ああ、人生の終わりが近づいてきたのかな、なんて思っていました。でも、病室で出会った中村さんとの何気ないやり取りが、私の中に眠っていた“男”の部分を、少しずつ目覚めさせていたのかもしれません。

妻を亡くしてから、二十五年。独りが当たり前になっていた私は、静かに、そして確かに――

心を揺らされていたのです。

退院が近づいてきたある日、私は妙にそわそわしておりました。こんなふうに感じる自分に驚くくらい、私は“病室での日々”が名残惜しくなっていたのです。

もちろん、体はまだ痛みがありましたし、不自由なことも多かった。でも、あの白い病室で、中村さんと交わす他愛のない会話や、丁寧な手つきで毛布を直してくれるやさしさに触れていると――ああ、自分は長いこと、誰かに大事にされることから遠ざかっていたんだな、と気づかされました。

それだけに、退院が近づくにつれ、不安のような、寂しさのような、なんとも言えない感情が胸を占めるようになったのです。帰っても、誰もいない部屋。しゃべる相手も、気配もない。昔はそれが普通で気楽だったのに、今ではその静けさが恐ろしいほど重く感じられるようになっていました。

退院の日、最後に中村さんが病室に来てくれて、「本当に頑張りましたね」と言ってくれました。その笑顔に、私はなんとも言えない気持ちになって、思わず「ありがとうございました」と頭を下げました。本当は、もっと何か言いたかったんです。「会えて良かった」とか、「また会いたい」とか。でも、そんなこと、言えるはずがありませんでした。

家に帰ってからは、日々が静かに、そしてどこか空虚に流れていきました。テレビをつけても、料理をしても、ちっとも気が紛れません。私は、あんなに騒がしく感じていた病院の音が、今となっては懐かしく感じられて仕方がありませんでした。

一人で暮らすというのは、こんなにも胸に穴が空いたような気持ちになるものなのか。今さらながらに実感した私は、思い切って、あるアプリに登録してみました。いわゆる、シニア向けの“出会い系”というやつです。

こんな歳になって……と、自分でも笑ってしまいそうになりながらも、それでも誰かと話がしたかったのです。誰かと、同じ時間を共有したかった。もう恋愛なんて無理だろう、とずっと思っていたけれど、それでも“誰かにときめきたい”という気持ちが、心の奥底でまだくすぶっているのを、私は感じていました。

何人かとやり取りをし、実際に会ってみたこともありました。でも、どうも話がかみ合わない。多くの方は、“私の年金が目当て”ということに重点を置いていて、“心を通わせる”とか“恋をする”という感覚とはちょっと違っていました。

そんな折、「これで最後にしよう」と思って会う約束をした女性がいました。

待ち合わせの喫茶店で席につき、ふと顔を上げたその瞬間――私は一瞬、時が止まったような感覚に襲われました。

「……中村さん?」

「えっ……岡田さん?」お互い、まさか、という顔をして見つめ合いました。でも、それは紛れもなく、あの病室で出会った看護師、中村美沙さんだったのです。

「こんな偶然って、あるんですね……!」

彼女が先に声を上げて笑いました。私も、驚きながらも、心の奥からふわっと何かが解けていくような感覚を覚えていました。こうして再会できただけでも、奇跡のようなことでした。

そして、話し始めてみれば、まるで昨日の続きのように会話が弾みました。彼女もまた、娘さんが最近結婚して家を出て、一人になったそうです。「これからの人生を、もう少し楽しんでみたくて」と笑うその横顔を見て、私は胸がじんわりと熱くなるのを感じました。

「一人目で、あなたに会えるなんて。私、運を使い果たしちゃったかもしれません」

そんな冗談めいたことを言う彼女に、私は「それは、こっちのセリフです」と答えて、二人で顔を見合わせて笑いました。

再会してから、私たちは少しずつ頻繁に連絡を取るようになりました。日をあけずにメッセージのやりとりをし、ときには電話で他愛もない話をしたり。まるで、何十年も前に経験した“恋のはじまり”のような感覚が、自分の中で蘇ってくるのを感じていました。

そしてある日、「飲みに行きませんか?」と誘ったのは、私のほうでした。正直、少し緊張しました。けれど、中村さん――いや、美沙さんからは、すぐに「ぜひ行きましょう!」と返事がきて、ほっと胸をなでおろしたのを覚えています。

約束の当日。私よりも少し早くお店に着いていた彼女は、カジュアルな服装なのに、どこか艶やかで、女性らしい華やかさがありました。髪を少し巻いて、リップの色もいつもより明るめで、正直ドキッとしました。

「今日は、思いっきり飲んじゃいますからね」そう言って、彼女は生中を注文し、乾杯のあと、一気にグラスを飲み干しました。私はそれを目の前で見ながら、なんだか不思議な気持ちになっていました。

ほんの少し、酔いが回ってきた頃でしょうか。彼女の表情や口調が、どこか柔らかく、そして少しだけ色っぽくなってきたのです。目の動きや声のトーンに、自然と惹き込まれていくのが分かりました。

「ねえ、岡田さんって、まだ現役なんですよね」

「え、ええまあ…」

とろんとした目をした美沙さんに、私は吸い込まれそうでした。

「体を拭いてあげた時に、ちょっとドキドキしちゃったんですよ」彼女の声は静かで、どこまでもまっすぐでした。

私は返す言葉を見つけられず、ただ彼女の目を見つめ返していました。彼女の瞳の奥には、からかいでも冗談でもない、真剣な想いが宿っていて、私はその魅力と正直さに、心を打たれていました。

「……でも、驚きましたよ。こんなに素敵な人が、まだ独りだったなんて」私がようやくそう返すと、彼女は肩をすくめて笑いました。

「不器用なんですよね。仕事と子育てに追われてたら、気づいたらこんな歳になってて……」

それは、どこかで聞いたことのある言葉でした。そう、まるで私自身のことのように。

その日は、酔った彼女を送り届けました。本当は彼女を手に入れたかった。

でも酔っぱらった時に彼女に手を出すのはなんだか卑怯な感じがして、私は我慢して帰ったのです。

数日後の休日、私たちはまた会うことになりました。彼女の希望で、今度は少し落ち着いた焼き鳥屋さんに行くことになっていました。予約しておいたカウンター席にふたり並んで腰を下ろし、並べられた串の香ばしい香りに包まれながら、自然と心がゆるんでいくのを感じました。

「カンパーイ」と笑いながら、彼女はぐいっと一口飲み干し、満足そうにため息をつきました。その様子を見て、私は自然と笑みがこぼれていました。

そして――「岡田さん、私と……結婚してください」

唐突に、けれど真剣な目で、彼女はそう言ったのです。私は、思わず手にしていた串を落としそうになりました。

「……え?もう酔ったんですか?」と私が聞き返すと、彼女はすぐに首を振りました。

「まだ酔ってません!本気で言ってるの。あなたと一緒にいたいって思ったから」

私は一瞬、言葉を失ってしまいました。まさか、彼女のほうからこんなことを言ってくれるとは思ってもみませんでした。

彼女は少し笑って、箸を置きながら続けました。

「私ね、30代で離婚して、それからは娘を育てることだけ考えてきたの。でもようやく娘が結婚して、ほっとしたら……急に寂しくなった。やり切ったはずなのに、なんか空っぽで…」

「そしたら、一番最初にあなたとマッチングして。すごい偶然。でも、それがすごく嬉しかったの。運命ってあるんだなって…」

彼女はそこまで言って、少し俯いてから、まるで打ち明け話のようにぽつりと続けました。

この歳になって、自分にはもう縁のないことだと思っていた。でも、そんなふうに正直に言ってくれる彼女の気持ちが、何よりも嬉しかったのです。

「……僕もあなたに会えて良かったです」

私はそう言って、彼女の手をそっと握りました。そして、自分でも不思議なくらいすっと言葉が出てきました。

「……一緒にいてもらえたら、これからの人生、ふたりで歩けたら嬉しいです」

彼女は目を潤ませながら、ゆっくりと頷いてくれました。

その晩、彼女の家まで送り届けるつもりが、自然な流れで、私は彼女の部屋に上がることになりました。

部屋には柔らかな灯りが灯っていて、どこか懐かしい香りが漂っていました。彼女が用意してくれたお茶を飲みながら、しばらくはソファに並んで座っていましたが、やがて彼女が私の手を引くようにして、寝室へと誘ってくれました。

「今日は、ちゃんと覚えてるから」

そう言って笑う彼女の頬には、ほんのりと赤みが差していて、それがとても愛らしくて、私は自然と彼女を抱きしめていました。

この歳になって、こんなふうに人を求める気持ちが蘇るなんて、自分でも驚きでした。けれど、心の奥にしまっていた“男”の部分が、確かに目を覚ましていたのです。

彼女の肌はやわらかくて、あたたかくて、触れるたびに私の心まで満たされていくようでした。ゆっくりと唇を重ね、何度も名前を呼び合いながら、静かに、そして深く、ふたりはひとつになりました。

終わったあと、布団の中で彼女が小さく囁きました。

「……こんな歳でもこんなことってあるのね」私はその言葉に胸を締めつけられるような気持ちになって、彼女の肩を引き寄せ、そっと抱きしめ返しました。

「長生きしないとね…」それは決して派手でも、激しくもない、でも確かに“ふたりの再出発”の夜でした。

翌朝、カーテンの隙間から差し込む光の中で、彼女が笑顔で「おはよう」と言ってくれたとき、私は心の底から思いました。

これからの人生二人で楽しみたい。

まだまだ恋をして、心を満たすことができるんだ――と。

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